第282話 国としての思惑
湖への外出から無事帰還したご一行。リズはその日の夕方に、王都内の飲食店でニコラと落ち合った。
とはいっても、直接会話したわけではなく、同じ店内にいるというだけのことだが。普段ローテーションさせている店ではなく、念のために今回は別に設定しておいた店だ。
普段とは店を変える用意に加え、店内に溶け込むニコラは、リズの目を以ってしてもどこに座っているのか判然としない。
《叡智の間》に合図が書き込まれるあたり、間違いなくここにいるはず。おそらく、店の奥まったところにいるものと思われるのだが……
一応の雇用主である自分でも見つけられない潜みっぷりに、リズは感服の念を新たにした。
そのような素振りを表に出すことなく、彼女は適当な席について茶と茶請けを注文した。品が運ばれてくると、持参した新聞を広げて読み込むふりを。
そうして、無言での情報のやり取りが始まった。
まずはニコラから情報がいくつか。
例の街道で事の次第を見届けさせるため、目撃者が遣わされていたこと。
彼は同業者ではなく、おそらくは王室事情にも疎い一般人で、それもヴィシオスで生まれ育った男だったこと。
王都へ戻るや依頼主への報告を済ませた彼だが、今のところはそれ以上の動きがないこと。
今日の出来事が事故ではない可能性が高まり、リズは顔をしかめた。代わりに彼女の側からも、ニコラの日記に情報を記していく。
馬に起きた異常に関し、御者が刺激臭を感じたと証言したこと。後はドワイトから聞かされた、ルブルスクについての諸々。
とりあえず、ラヴェリア側で情報をまとめるのが先決だろう。ニコラの報告では、中々尻尾を出さない相手のようにも思われる。
それに、今回の事故について、ラヴェリア側から正式に苦言を呈するという流れも考えられる。
あるいは、ヴァレリーが何かアクションを起こす可能性も。
状況がどのように動くか静観し、その上で対応に動くのが妥当だろう。
リズの見解にニコラも同意し、情報交換はそれで終了となった。
☆
その日の夜、あくまで普段通りにヴァレリーと夕食の席を囲んだ後、エリシアの居室では今回の一件についての話が持ち上がった。
護衛の内、何人かは部屋の外に注意を傾ける、物々しい雰囲気の中で。
しかし、そのような状況にあって、エリシアはずいぶんと腹が据わったように見える。緊張こそ見受けられるが、気後れした様子はない。
なんとも頼もしくなったものである。
護衛隊長クラークも、彼女に変化には気づいたことだろうが……彼女に向ける表情は柔和ながら、どこか陰差す感じをリズは認めた。
話はまず、今日起きたアクシデントについて。それから、湖畔でルブルスクの二人からそれぞれ聴いた話を、エリシアとリズが打ち明けていく流れで進んだ。
馬の暴走に関しては、他の護衛たちも事件性が高いものと認めた。
「事件だとするだけの明確な証拠を残さない、かなり絶妙なものだ」と。
そして……こうした事態の可能性を予見していながら、あえて知らせることなく受け入れた責任について、隊長はエリシアの前で片膝をついた。
「今回の件につきまして、お嬢様にご心痛おかけいたしました責は、私にもございます」
「そうは言っても……クラーク殿の上官も、この国でこういうことが起きるかもしれないとは、ご承知だったのでしょう?」
「はい。そういった認識の元、私に権限と責務を託されました」
あくまで、現場監督者としての責任を自身で負おうという姿勢のクラーク。
そんな彼に、エリシアはいくらか逡巡する様子を見せた後、若干落ち着かない感じで口を開いた。
「あなたに責を負わせようというのも……私には理不尽に思えます。先方に気兼ねするあまり、手短な形で不満を解消するみたいですし……」
「ご温情、痛み入ります」
「あっ、そうは言ってもですが……」
やや慌てて割り込むように口を挟んだエリシアは、すでに場のペースを掌握しながらも、言葉の続きには若干のためらいを見せた。
「次からは、事前にそういう予想を教えてくださいね? 教えていただいても耐えられる自分だと、今回の一件で認識できましたたから……自惚れかもしれませんが」
おそらくは意図的に、普段よりも快活な口調で言う彼女に、クラークは立ち上がって軽くお辞儀をした。
「軽んじていたわけではありませんが、お嬢様に対する過ぎた遠慮こそが、一番の非礼だったかもしれません」
彼の共犯者と言える立場のリズも、彼の言葉には大いに同意した。
ただ守るべき存在から、エリシアは大きく前進したように映る。
これも良い経験だった――などと言うのは、恥ずべき開き直りでしかないだろうが。
許しを得たことで、他の護衛たちも安心したらしい。室内には安堵の空気が広がる。しかし……
「事前に知らせよと仰せですが、次の機会は無いかもしれません」
隊長がそう言うと、エリシアは顔を曇らせた。
もしかすると、隊長にとっても、この席は完全な平常心を保てるものではなかったのかもしれない。彼は言葉が足りなかったことを謝罪した。
「誤解を招く表現、失礼いたしました。次はないと申しましたのは、別に帰国をご検討いただこうという意味ではなく……」
「そうでしたか」
「先方の考え次第ではありますが。こちらから帰ると言い出すこともないでしょう」
エリシア自身、まだ残るべきと考えていることは、隊長にも十分伝わっているのだろう。安心した様子を見せる彼女に、隊長はこの国に滞在期間を満了するべき理由を告げていった。
まず一つに、今回の事故に対する非難の有効性。
この国の上層部が徹底しているものと思われる秘密主義を思えば、ラヴェリア外務省を通じての非難も、結局は大した余波なく握り潰されるだけだろう。
それに、明確な証拠がないままでは、招き入れたラヴェリーの一派が責めを負うだけ。真に非難すべき相手には届かない。
また、ラヴェリア側からの一方的な事由で帰国することは、両国間の関係に溝を入れるものになりかねない。かといって、事故に対する監督不行き届き、あるいは事件だと主張しての非難も同様。
つまるところ、「帰る」と言い出せば、その事由が何であれ訪問の目的は損なわれる可能性が大きい。
「殿下から、帰国してはとのご提案をいただきましたが……」
「我々から言い出さない場合は、今回の事故について、殿下が御自ら非をお認めになる形で決着となりましょう。我々から責めるよりは、まだ穏当に終わるものと思われますが……」
「いずれにしても、好ましい結末ではないように思いますね」
自身の意志を明確に表明するエリシアに、部屋の一同は真剣な眼差しを向けた。
相手方の動きを見る意味もあり、今ここで帰るという決断を下すにはまだ早い。
そこで話が戻り――
「今回のような出来事は、もう起きないだろうという見立てがあるようですが……」
「繰り返せば、さすがに怪しいですから。事故だったと主張できるのは1回でしょう」
それから、隊長は本職ならではの観点で、仕掛けに来る側の負担を指摘した。
今でも、あれが事件だったと証明するのは困難であり、可能性が極めて高いと主張することしかできない。それだけの絶妙な出来事を仕掛けられたわけだが……
いかに国内での工作と言えど、対立勢力の目がある状況で繰り返すのは至難だろう、というのだ。
「相手方にしても、想定以上の大事になりはしないかと、気が気ではなかったものと思います」
と、彼は結んだ。
この説明には納得し、安堵のため息を漏らすエリシア。そんな彼女に対し、隊長は緊張感を保ったまま続けた。
「もちろん、想定通りに運ばない可能性もあります。警戒は怠りませんが……万一にでも、怪しげな兆しを感知した場合、遠慮なくお伝えさせていただきます。どうかご容赦を」
「はい、お願いします」
とりあえず、ラヴェリアとしての対応は様子見となった。
一応のスタンスが定まり、フッと力が抜けるエリシア。今回の滞在では、間違いなく一番大変な一日だったことだろう。
「お疲れさまでした」と優しく声をかけるリズに、エリシアも笑みを返した。
「あなたも……相当大変だったように思います」
「まぁ……馬車止めるのは、中々の仕事でしたね」
スリリングな出来事を共有し、二人で微妙な笑みを浮かべる。
一方、隊長は一人で何かを考え込んでいた。それにエリシアが気づき……
しかし、問いかけないでいる。遠慮の気持ちが大きいのだろう。彼女の代わりに、リズが口を開いた。
「隊長。また隠し事でも?」
「隠し事と言えばそうなりますが……あまり面白い話でもありませんので、どうしたものかと」
とはいえ、じっと見つめてくるエリシアの真剣な顔に、彼も決意が固まったらしい。
「不愉快な話かと思いますが」と、彼は前置きした。
今まで秘していた話というのは、ルブルスクに対するラヴェリアとしての思惑だ。
今回の招待に対し、慎重派もいれば否定派もいた。
だが、部門や派閥を問わず、ルブルスクについては重要視している。
外務省を始めとする協調路線派閥だけでなく、軍部で存在感を示す覇権主義派閥も。
「覇権主義者も、ですか」
「早い話……対ヴィシオスでの戦争が始まった時、この地を重要な橋頭保にできればという考えがあります」
これには言葉を失うエリシア。
実のところ、これは国際協調を目指す外務省にとっても、頭が痛い話だ。隊長一人に任せておかず、部下からも事情が語られていく。
「ヴィシオス相手に戦争が始まる可能性は、我が省としても懸念するところ。無策に構えるわけにもいかず……もしもの場合を考慮すれば、このルブルスクと手を結ぶことは大いに意味があります」
「とはいえ、それはルブルスクがヴィシオスに狙われる可能性を考慮した上でのもの。いかに協力的姿勢を打ち出そうと、いざ事が起きれば、この国が相応の被害を受けることに変わりありません」
さらに、ヴィシオスが事に絡んでくると、覇権主義者たちの言い分にも正当性が出てくる。
「ヴィシオスという仮想敵国の存在が、ラヴェリアを覇権主義的な軍事大国たらしめている事実もあります。つまるところ、あのならず者大国に正面からやり合える大列強でなければ、というところです」
ヴァレリーも、そういった事態になるという可能性を考慮の上、ラヴェリアに対して接近する今回の話を申し出てきた。
一方でラヴェリアの方も、そういった事態への考えがあり――エリシアを送り込んだわけだ。
国家間の思惑を耳に、彼女は深刻な表情で体を小さく震わせた。
そんな彼女に、この話題を切り出した隊長は、複雑な表情で口を開いた。
「関係構築にあたっては、ヴィシオスを刺激しないのが必須です。だからこそのお忍びですし、ルブルスクとしても隠し通したいのは同じでしょう。今回の一件のようなトラブルが続かないと考える理由でもあります」
「……今回の訪問を通じ、この国は大きく変わってしまうのでしょうか?」
エリシア自身が大きな決断を下すわけではない。
しかし、何らかの変革のきっかけにはなり得る。
そういったポジションにある自覚からか、真剣な眼差しを向ける彼女に、隊長は少し悩んだ。
「我々の感覚や基準では、そう大きな変化は起きないでしょう。起きるとすれば、あまり表に出ることのない、着実な変化かと思われます。ですが……」
「何でしょうか?」
「そうした変化を考え、試みるだけでも、この国にとっては非常に大きな挑戦なのかもしれません」




