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第277話 秋晴れ映し出す湖の畔で

 少なくとも、御者にとっては予想外のトラブルに見舞われた形だが、老舗の名店と言うだけのことはあって備品の用意に抜かりはない。

 御者は車内のイスの座面を持ち上げ、中から予備の紐を取り出した。馬と馬車を切り離すため、リズが一刀で断ち切ったものである。

 本来は滅多なことで切れるものではないが、念のための備えというわけだ。

 この用意の良さを目にした時、リズはあの時の事を思い出した。


「そういえば……許可も得ずに切ってしまいました」


「ああ、言われてみれば」


「火急の件だったとはいえ、申し訳ありません」


 護衛としての自覚もあり、折り目正しく謝罪するリズだが、御者はむしろ恐縮した。


「いえいえ! そんな、謝られるようなことでは。むしろ、馬と馬車が無事だったことに、お礼を申し上げねばならぬところですし……当方の不手際で、このようなことになってしまい」


「あなた方のせいではありませんよ」


 王子からの許しを得たとはいえ……やはり責任を感じずにはいられないのだろう。相手が他国の客だからということもあるかもしれない。

 そんな中、馬がいななきの声を上げた。「我関せず」と言わんばかりの声に、「コイツは……」と引きつった笑みを浮かべる御者だが……その目には優しいものがある。

 馬も被害者だった。そういった認識が、人一倍強いのだろう。


 今となっては検証がほぼ不可能だが、とりあえず馬に何かがあったのだろうという結論には至った。

 ドワイトが落ち着くまで付き合ったという馬だが、今は確かにおとなしいものである。馬具の(つな)ぎ変えにも、目立った反応を示すことはない。

 ただ、それでも万一ということはある。目的地の湖まで十分近づいたということもあって、これまでとは馬車の運用を変えることに。


「ご足労おかけする格好になりますが、ヴァレリー殿下とエリシアお嬢様、それと私は徒歩で参りましょう。残る道中、馬が平常の状態にあると確認できれば、帰りの足としても用いるということで」


「妥当と思われます。殿下は、いかがですかな?」


「私は構わないよ。エリシアには歩かせてしまって悪いけど……」


「いえ、景色を楽しめそうで、嬉しく思います」


 と、リズの提案はそれぞれに受け入れられた。

 馬車の用意が整い、御者とドワイトが乗り込んでいく。やや心配の目を向けられる馬車だが、今度は何事もなく、ゆっくりと進みだした。この調子であれば問題ないだろう。


 ひとしきり馬車を見送り、三人は歩き出した。


「帰りのルートは、変えた方が良いように思うけど、どうだろう?」


 そこまで切迫感はなく、単に話題の一つとして切り出してきた感のあるヴァレリー。


「目的地からの帰りであれば、人通りがそれなりにあるルートの方が、むしろ安全かと思われます。外に出られなければ、露見することもないでしょうし」


「私もそう思う。それにしても……無計画ぶりを露呈するようで、本当に恥ずかしい限りだけど」


 と、彼は実に申し訳無さそうになった。

 実のところ、この外出を知った者に対応の隙を与えないようにと、事を急いだ面はある。その妥当性を認めていたリズとしては、事の性急さを責めることもできない。

「意見を求められながらも、こうした事態への提言がありませんでしたので……」と、リズも護衛としての非を認め、彼へのフォローとした。


 そうして、少ししんみりした感じで歩いていく三人。

 整備された街道は、左右に並木が連なり、色づいた木の葉が通行人の目を楽しませる。

「もう少し秋が深まれば、もっと色鮮やかになるんだ」とはヴァレリーの談。

 そう思うと、今回のルブルスク訪問や王都からの外出は、お互いに色々と“早まってしまった”感はある。


 しばし歓談しながら歩くと、湖へ続くかなり緩やかな斜面に差し掛かった。

 紅葉で覆われた小高い丘陵に囲まれる中、その湖があった。清々しい秋晴れの空を映し出す湖面は、赤い縁取りの鏡のよう。

 わざわざ王都を離れてまで連れて行こうという、ヴァレリーの提案もうなずける景勝であった。


 湖の(ほとり)には馬車が着いており、御者とドワイトの二人が馬の手入れを行っているところだ。

 見た感じ、復路は馬に任せても問題なさそうである。

 それでも念のため、帰り道のコースには若干の配慮が必要だろうが。


 遠景で優美な自然を感じさせた山々と湖だが、歩を進めて湖畔に到着すると、これまた違った雄大さがある。

 しばしの間、ラヴェリアからの来客二人は、この景色に言葉もなく心を奪われていた。

 やがて、ヴァレリーが声をかけてくる。


「気に入ってもらえたかな?」


「はい。お招きいただきまして、ありがとうございます」


 言葉そのものは礼節のある硬いものだが、声の調子には柔らかいものがある。この自然の美に、エリシアも十分に満足いったようだ。

 これに、優しい顔で「良かった」と口にし、ヴァレリーは静かにその場を離れていった。

 馬車は湖畔の広いところにあり、リズたちからは距離が開いている。ヴァレリーは、馬車とは別方向へと歩いていき……

 リズとエリシアは、広い湖畔で二人だけになった格好だ。


 これをリズは、「用意が整ったら話しかけて」というメッセージだと解釈した。

 それをあえて口にしなかったのは……彼自身、大いに好み、きっと誇らしく思っているであろう景観を前にして、感慨を醒ます言葉を無粋だと思ったのだろうか。

 つい先程、あのような事態が起きて無理もないことだろうが、今の彼はかなりセンチメンタルな感じに映る。


 彼の背を目で追ったリズは、ややあってエリシアに目を向けた。

 彼女もまた、どこか遠い目をしている。空でも山でもない何かに、おぼろげな視線を向けた後、今度は少し顔を伏せて下へ。やはり、湖に目を奪われているようでもなく。

「座りませんか」とリズは声をかけた。応答を待つ前に、先に腰を下ろし、自身の横にはハンカチを広げていく。


「お気遣いありがとうございます」


「この程度のことは……」


 むしろ、ヴァレリーの立場を奪っている気が、しないでもないリズであった。


 二人揃って腰を落ち着けるも、エリシアはどこか思い詰めた風のある顔でいる。

 それでも、放っておけば立ち上がり、ヴァレリーの元へ向かうであろう。

 ただ……それが彼女の、大貴族の一員としての仕事だとしても、任せっぱなしにするわけにはいかない。

 そこでリズは、腹を(くく)って言った。


「ああいった事態になる可能性は、最初から想定の中にありました」


「私もです」


 強がりではなさそうな、エリシアにしては珍しい淡々とした言葉に、逆に驚かされる思いのリズだが……彼女は言うべきことを口にしていく。


「もちろん、無事にお国へ帰すのが第一ですが……あえて仕掛けさせることで、外交や諜報戦略上の有利に繋げようという目論見もありました」


「はい。承知しています……国を出る前から、そのつもりでした」


 耳を疑い、つい顔を向けてしまうリズの前で、エリシアは「信じられないかもしれませんが」と、力なく笑った。


「事前にアスタレーナ殿下から……『“極端”へと走ることはないでしょうけど、あなたの身に不愉快な出来事が起きる可能性は十分にある』と。『その上で、話を受け入れるか考えて』とも」


 これも初耳である。

 つまるところ、色々とリスクがあるのを承知の上、アスタレーナは従妹に打診し――

 当人は、それを受け入れてここに居るのだ。


 その事を、護衛たち、特にクラーク隊長が知っているかは微妙なところだ。

 知っているかどうかで、対応が大きく変わる彼らとも思えないが。

 少なくとも、外務省諜報部としては朗報であろう。護衛すべき当人が、そのつもり(・・・・・)でいらっしゃるのだから。

 それでも、リズの中にある罪悪感のようなものは晴れなかったが。入れ替わりのように少し伏し目がちになるリズの横で、エリシアは言った。


「今でも、その思いには変わりありません。向けられた信頼を裏切りたくはないですし……お役に立ちたくて」


「ご立派です」


 リズは素直な称賛の声を向けた。

 エリシア自身、今も相当なプレッシャーを感じているのだろう。非公式な場とはいえ、これが外交の一環ではないと考えるのは無邪気に過ぎる。

 彼女の振る舞い次第で、2つの国――いや、それに留まらない範囲に影響が及ぶ可能性がある。


 誰にも予見できない未来の一部が、すでに彼女の肩にも乗っているかもしれないのだ。

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