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第276話 事の背景は

 馬車が止まり、ヴァレリーとエリシアが合流してから程なくして、ドワイトも馬とともに戻ってきた。どうにか馬をなだめ、落ち着かせていたのだが、馬車の方よりも時間がかかったようだ。


「お目にかけてはおりませなんだが、見事なものですな」


 老紳士の惜しみない賛辞に、リズは顔を綻ばせた。

 とはいえ、関係者――馬を含む――が全て再集合を果たせば、たちまち安堵の空気に重苦しい緊張と沈黙が立ち込める。

 あの時、何が起きたのか。それを明らかにしなければ。


 それぞれの顔をサッと見回した後、リズはエリシアのそばに近寄った。

 今では落ち着いた様子の彼女だが、体の前で組んだ腕にはかすかな震えがあり、どこか伏し目がちだ。

 今回の出来事に対し、彼女も事件性を感じているのだろう。であれば、その狙いと考えられる彼女が恐怖心を(いだ)くのも無理もないことである。


 状況確認や馬車を止めるため、彼女をヴァレリー任せにしてしまっていたリズだが……明かしていない背景のあれこれもあって、エリシアにははっきりとした罪悪感があった。

 ただ、近寄ってきたリズに少しばかり身を寄せてくるあたり、信は損なわれていないようだ。

 信頼を寄せられる現状にはホッとしつつも、拭いきれない負い目はあるのだが。


 しかし、負い目という点ではルブルスク側に比べれば……といったところであろうか。

 第二王子、その教育係、そして王室御用達の御者。三者三様ではあるが、いずれも強い緊張と、この事態に対する恥の念は共通するようだ。


 この状況を、リズはひとまず静観することにした。ラヴェリア側として、物申す権利はあるのかもしれないが、脅かされたという点ではヴァレリーも同等と言える。

 ならば、彼が動く前に先走ったり、あるいは口を挟もうというのは、かなり差し出がましく思われるのだ。

 それよりは、今のところは大人しく構えて、被害者の座に留まり続けた方が無難ではないか、と。


 すると、重苦しい緊張の中、ヴァレリーが真剣な表情ながらも穏やかな声音を御者に向けた。


「君を疑うわけじゃない……ただ、あの時何が起きたのか。覚えているのなら、ここで教えてくれないか」


「か、かしこまりました」


 こんな事になってもなお、物腰柔らかな態度の王族を前に、御者は強い緊張に身を強張(こわば)らせ、答えた。


「あの時、何か鼻をつく刺激臭のようなものが……わずかにですが。馬が急に興奮した直後、そのような匂いを嗅いだ記憶が、ございます」


「それは確かか?」


「は、はい」


 やり取りを聞いていたリズは、腕を組んで考えた。

 出任せを言っている様子ではない。しかし……これが仕組まれたものなら、中々見事な罠だ。リズは見えない敵に対して感心の気持ちを胸にした。

 同様の見解はドワイトも持っているのかもしれない。彼は顎に手を当て、「厄介ですな」と口にした。

 そこで、「厄介、とは?」とヴァレリーが顔を向けるが……ドワイトはハッとして首を横に振った。


「失礼しました。まずは聞き取りを継続してくだされ。横からの口で、記憶が歪められては困りますからな」


「わかった」


 と、王子の視線が御者に向くも……事が起きた当時のことで、思い出せるのはその程度とのことだ。


「それからは、馬が急に暴走を始め……どうにか、道なりに進ませるので精一杯でした」


「ああ、それは知っているよ。おかげで、誰一人傷つくことなく、この場にいる」


 そう言ってヴァレリーは、御者に肩に手をおいて「良くやってくれた、ありがとう」と優しく口にした。

 彼の倍近く生きているであろう御者だが、かけられた温情には言葉もない。ただ顔をうつむかせ、体を小さく震わせた。

 その顔には、許された安堵よりも、許しを与えた若き王族への感謝と敬慕が色濃いように、リズは感じ取った。


 リズとしても、この裁きには一安心であった。直感的なものではあるが、御者は無実ではないかと感じてたところだ。ヴァレリーと解釈の一致を見たのは幸いである。

 この中では最年長のドワイトもまた、教え子の裁きっぷりには、どこか満足そうなものを感じさせるが……

 先程、彼が口にした「厄介」という単語が、再び話題に上がる。


「ドワイト。先程の、厄介という表現についてだけど」


「では、一段落いたしましたので、遠慮なく」


 そう言ってドワイトは、今回の件の厄介さを語り始めた。

 まず、刺激臭があったという場所からここまで、すでにかなりの距離が開いてしまっている。戻って検証するのは難しいだろう。

 加えて、勢いよく通り過ぎた馬と馬車のおかげで、刺激臭を放っていた何らかの成分が、完全にかき乱されて飛散している可能性が高い。


 さらに言えば……馬車の構造上、馬と御者の間隔は乗馬よりも開いており、馬の嗅覚は人間よりも遥かに優れる。

 となると、御者が嗅いだという匂いよりも濃いものを、馬が感じ取っていたと考えて間違いない。

 逆に考えると、馬を興奮させて走らせる何かの企てがあったなら、それは人間には感知が難しかったはず。むしろ、御者の感覚が鋭敏だったことで、どうにか限られた手がかりを逃さずに済んだと言える。


「更に一つ申し上げれば……馬車の形状から言って、外の匂いに気づき、しかもそれを“証言”できるのは御者一人。こうした状況下でそれぞれの立場を思えば、我々が証言に疑いの念を持つものと、そういった見立てがあっても、なんら不自然ではございますまい」


「……なるほど、よくわかったよ」


 つまるところ、御者の言葉をデタラメだと断じてもおかしくないだけの材料が、この場には用意されているわけだ。

 そして……彼に疑いの目が向けられる可能性を、この話を切り出したドワイトもよくわかっているのだろう。彼はすぐにフォローを入れた。


「自分で馬を操った実感としても、異様な興奮状態でした。かねてより評判の良い老舗の馬です。あの店で何か不手際があったという話も、とんと耳にしませんでしたし……」


「というより、信頼できる店だから、今日も頼んだということもある」


「ですので、何のきっかけもなしに馬が暴れだしたというのは、少々考えにくいものと。やはり、何かしらの外的要因があったと考えるのが妥当でしょうな」


 論を交わすルブルスクの二人。

 清聴していたリズも、この考えには特に反論がなかった。


 強烈なエアブレーキで馬車に無茶な力をかけたものの、それで損壊するような事態には至っていない。依然として馬車はその形を留めている。

 加えて、馬に魔法がかけられていた形跡もない。

 つまり、王都を出た時点でそれと気づける仕掛けは、何もなかったように思われる。


 それに、これが何者かの陰謀による事件だとすれば、王都のすぐ近くで事を起こすのは向こうも避けたかったことだろう。派閥間闘争を衆目に(さら)すわけには、と。

 そして……今回の外出の目的地とルートを知っていたのなら、道中に仕掛けるということは、不可能ではない。鉢合わせを避けるため、人通りが少ないタイミングというのが、敵方にも好都合だった。

 また、王都から離れたところで事を起こそうという目論見があるなら……馬や馬車に何か仕掛けるという時限的な罠ではなく、どこか定点に仕掛ける方が、結果をコントロールしやすい。

 ならば、道中に馬を興奮させる何かしらの刺激成分、あるいは薬毒等を仕込んでおくというのは、かなり合理的と思われる。

 それによって引き起こされるであろう、事の程度から言っても。


――何しろ、誰も血を流していないのだ。


 あの状況下で多少対応が遅れたとしても、人死にが出るような事態にはならなかったことだろう。

 せいぜい、暴走した馬が使い物にならなくなるだけのことだ。

 貴人の命が損なわれるような事態には、決してならなかっただろうし、それを望んでいたとも思えない。

 ならば、この事態を仕掛た黒幕がいるとして、その思惑は何であるか?


 議論の切れ目に、ルブルスク側三人の目が、リズたちラヴェリア側に向いた。

 おそらく、これがその狙いであろう。

 親善という目的で訪問したラヴェリア貴族との間に、不興を買うことで溝を入れよう、と。


 リズとしては、かなり難しい状況になった。選択肢はいくつかあるが……どれも結局は外交に絡む。

 そして、護衛の立場から色々と口にするのは、明らかに僭越(せんえつ)である。

 最終的な権限は、純然たる被害者のエリシアにあるべきなのだ。


 “この程度”で終わったと安堵しつつも、それは自分に対する言い訳でしかない。

 むしろ、こうなる可能性を受け入れた、加担者の一人という自責の念を抱くリズの横で、エリシアは伏せがちな顔を上げた。


「あの、一つよろしいでしょうか?」


「もちろん」


 ヴァレリーが応じると、エリシアは胸の前でギュッと拳を握った。


「この事態に対して、私からも何か申し上げるべきだと思うのですが……」


 この言葉で、場の緊張が一気に高まっていく。かなり控えめなところのある彼女が、はっきりと自分の言葉を口にしていく。


「まだ、私の立場で何か言葉にするには、材料が不足しているように思われまして……」


「それはつまり……真相究明まで、意見を保留すると?」


 それも一つの道だと、リズは考えた。

 ただ、エリシアの考えは、また少し違っている。


「そもそもの話になりますが、今回の外出の目的が、まだ果たされていませんし……殿下には何かしらのお考えがあって、お誘いいただいたものと思っていますが」


「あ、ああ。それはそうだけど……」


「王都を離れて、何かお話をしてくださるお考えでしたなら、それを耳に入れさせていただいてからでも……この件に関して口にするのは、遅くないものと考えております」


 リズもすっかり頭から抜け落ちていたのだが、確かに「そもそも」という話ではある。

 本来の目的に立ち返ったことで、ヴァレリーは複雑な微笑を浮かべ、答えた。


「では、そうしようか」


「ありがとうございます」


 リズの横で、柔らかな笑みを浮かべるエリシア。

 しかし……ルブルスク側とやや距離を置く中、彼女の体に若干の震えがあることを、リズは見逃さなかった。


 彼女もまた、自分の立場と戦っているのだ。

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