第275話 暴走
事態の急変がスイッチとなった。状況の詳細と変化を逃すまいと、普段にも増してリズの思考が高速回転していく。
最優先は、エリシアとヴァレリー双方の無事だ。その価値の上下などを問う意味はない。
ただ、ヴァレリーの方は、突然の事態に驚きながらも自己を失ってはいないように映る。自衛程度の事であれば、当然のようにこなすだろう。
横に付き従う教育係ドワイトもまた、急な事態に驚いているようだが……
彼の態度それ自体は、彼が“こちら側”にいることを示唆する材料だ。
となると、エリシアの無事に力を注ぐべきか。いきなりの事態に、彼女は色白を通り越して顔面蒼白になっている。
それでも、まだ取り乱しはしない自制心が、むしろリズの胸を打った。
結局のところ、こんなことになるかもしれないと、護衛隊長クラークとともに感づいていながら、それを受容した資任はリズにもあるのだ。
(絶対に守り切らないと)
とはいえ、気にかけるべきは馬車の中だけではない。
御者は敵か?
馬や馬車に何かしらの異変が?
これに乗じて、まさか賊でも?
エリシアのそばに居続ければそれでいい――などというのは、護衛として安易に過ぎる。
いやしくも護衛を名乗るならば、まずは事態を把握しなければ。そのためにエリシアと離れることに、たとえ罪悪感を覚えようとも。
急加速からわずか2,3秒の事。リズは意を決して声を発した。
「殿下、お嬢様を頼みます! 私は外の様子を!」
「わ、わかった。気を付けて!」
こんな状況でも気遣いを見せる王子。一方、その横で努めて落ち着いた様子を醸し出す老紳士が、リズに真剣な眼差しを向けてうなずいた。
急加速しつつも、そこまでは揺れない馬車の中。リズが立ち上がるとすぐ、ヴァレリーがエリシアの横へ。
彼は気を強く保っているようだが、表情には気づかわしさと申し訳なさが滲み出る。
おそらく、お客様であるエリシア以外は、皆似たような気持ちであろう。
皮肉めいたシンパシーを覚えつつ、リズは馬車の外枠を掴み、逆上がりの要領でヒラリと車上へ躍り出た。
貴人ご一行を乗せた馬車は、緩やかな丘陵地帯の間にある街道を爆走しているところだ。
国の豊かさはこうした街道にも表れており、整備された道に気がかりな凹凸は見受けられない。すぐに横転するようなことはなさそうだ。
だが、危険はある。
馬車の上から見てよくわかるのは、今いる道がかなりゆるやかなカーブを描いているということ。乗っている体感としては、ほぼ直線だったのだが。
そして、位置の脇には並木が連なり、その奥に丘陵が待っている。遠方にチラリと見えるのは、目的地の湖か。
何かしら手を打たなければ、木なり坂なり水なりで、悲惨な目に遭う恐れはある。
その一方、疾走する馬車を囲むような形で、何かが待ち受けているという気配はない。
おそらく、追撃はない。
最低限の状況を掴んだリズは、馬車の中へ入り直した。
一瞬驚かされたのは、そこにドワイトがいないこと。しかし、彼が御者側に動いたのだとすぐに分かった。
いちいち話し合う前から、そちらを押さえに行ってもらえているのはありがたい。
そこでリズは、次の対応を示すことにした。
「殿下、できることなら何事もなく、この馬車を止めようと考えています」
「この馬車を、君が?」
「お許しをいただけるのなら」
リズが言い出したことに半信半疑といった感のヴァレリーだが、決心までは早い。「できれば、現状のまま保全はしたい」と、彼は言う。
この後について考えは近いものらしく、話の早さは助けになる。
しかし、「ただ」と断りを入れる彼の言葉には、もう少しありがたい続きがあった。
「馬車よりも君の方が大切だ」
「こんなことで死ぬつもりはございませんわ」
この場の誰よりも余裕をもって言い放つと、それまで不安そうな顔のエリシアが、ヴァレリーに顔を上げてうなずいた。
特に言葉はなかったが、「大丈夫」だと伝わったのだろう。
ただ、リズが自分自身の身は守れるとしても、馬車を止める過程で二人の身まで守るとなると……万一ということはある。
「殿下はエリシア様を連れて、《空中歩行》で下車していただきたく」
「わかった……あまり距離が開くようであれば、走って追う」
「では、ご足労いただく前に止めて見せましよう」
自分自身と、何より守るべき二人を鼓舞するように言うと、二人は信頼の目を向けてきた。
その後、ヴァレリーがエリシアをスッと抱きかかえ、やや揺れる車内から平然と宙へ。
二人が無事に着地したことを見届け、リズは御者台へと向かった。
そちらには残る二人が揃っており、まずはそのことに安心。馬の制御に専念しているようだ。
リズがやってきたことにドワイトもすぐ気づき、さっそく彼から声が。
「状況は?」
「周辺に敵の気配なし。お二方にはとりあえず下車いただき、無事に降りられました」
「さすがですな」
だが、こちらの状況は芳しくない。
必死の形相で馬を操る御者によれば、いきなり馬が興奮し始め、この有り様なのだという。
手を打つなら早い方がいい。リズは自分の考えを口にした。
「馬車と馬の両方を安全に保全すべく、切り離してそれぞれを止めるべきかと」
「切り離し?」
「馬車は私が魔法で止めて見せます。ドワイト殿には馬の方を、どうにか落ち着けていただければ」
おそらく、乗馬技術においては王室教育係の方が適任のはず。というより、リズに暴れ馬をどうこうするだけの自信はない。
この提案に、老紳士は少し不安そうにしたものの……馬車を止めるというリズの態度に、確かな自信を認めたようだ。
「ご健闘を」と口にし、彼は馬にヒラリと飛び乗った。
一方で……困惑と焦燥、それに悲壮感まで溢れんばかりの御者は、これでひとまずお役御免となる。
見たところ、彼はこの事態の裏に関与していない、そんな直感がリズにはあった。
それでも重要な証言者だ。リズは有無を言わさない口調で、御者に呼びかけた。
「あなたは車内へ! 荒っぽい制動になるかもしれません、しっかり掴まって!」
「は、はいッ!」
指示を受け、たちまち動いて彼が車内へ。
ここから一つ大仕事である。馬車と馬を繋ぐ紐はピンと張られ、下手な力が入れば、一気にバランスを欠いて馬車のコントロールを失いかねない。
そうした紐が四つ。これらに鋭い視線を向け、リズは御者台に立った。
(鎖じゃなくて良かったわ……)
そしてもう一つ、不幸中の幸い。もしものためにと帯剣の許しが出ていたのだ。
腰に下げた剣を抜き放ち、リズは構えた。右手で剣を持ち、顔のあたりまで刃を上げる。刃に左手を添え、刀身に魔力を漲らせていく。
ドワイトが振り向き、息を呑んで視線を送る中、リズは一刀を放った。刃に乗せた魔力が解き放たれ、四本の紐をほぼ一瞬で同時に切断。
瞬間、馬車に掛かる力に変化を覚えたものの、ごく微細なものであった。
一方、重荷から解き放たれた馬は、いかなる感情によるものか、高らかないななきを響かせた。馬車から見る見る内に離れていく。
そんな暴れ馬の背に乗る白髪の老人は、「お見事!」と一声かけてから、馬が落ち着くまで付き合ってやる仕事に入った。
さて、動力源を喪失した馬車だが……完全放置では、停止まで相当かかるだろう。
今は街道上を離れはしないが、じきに道を外れて並木にぶつかりかねない。
ここからまた、もうひと踏ん張りである。リズは腰の道具入れから紙を何枚も取り出した。
それらの紙に書き込んでいくのは、《風撃》。船上生活ではボートに用いたこれを、今日は馬車に用いようというのだ。
(何が役立つか、わからないものね……)
世界広しと言えど、乗り物用にここまで使う魔導師は、あまりいないだろう。
前例を聞いたことのない用法に、若干の不安を覚えないでもないリズだが、紙に走らせる魔力に迷いは毛ほどもない。事態を任されていることへの使命感と、自分の力量への確かな信頼を彼女は自覚した。
瞬く間に、数枚の紙へと魔法陣を記述した彼女は、それらに《念動》まで加え、馬車前面の各所に配置していく。
ここから、風の力でスピードを相殺する。
自分の力に自信はあるリズだが、急減速するほど向こう見ずではなかった。
まずは、複数のエアブレーキを同時に吹かし、その出力を徐々に高めていくことに。力のかかり方が弱いのか、多少の風では減速した感じがあまりない。
そこでもう少し、風の威力を高めてやると――
「あっ!」
思わず口から声が出る程度に、彼女は前につんのめった。
あやうく、馬が引かない馬車に轢かれる珍事が起きるところ。
肝を冷やすリズだったが、前のめりになったという事実が、この減速方法に意味があるという証拠となっている。
左右でバランスを崩した様子もない。スピードがもう少し落ち着けば、街道のゆるやかな曲線に沿って……ということも可能だろう。
だが、それよりコースアウトが早そうだ。スピードが十分乗った質量体に、遠慮気味な風の力だけでは、今ひとつ制動しきれないでいる。
いざとなれば、御者を確保してともに馬車から離脱するまでのことだが……
断念するにはまだ早い。
そこでリズの目は、馬を繋げていた紐に向いた。馬車側の根本から手繰り寄せ、手にした二本を自分の腰に括りつけていく。
急に飛び出さなければそれでいいのだ。後は腹筋と背筋に力を込めれば、どうとでもなる。
自分のことは筋力で自衛するとして、彼女はいざ迫るその時を前に、大声を上げた。
「御者さん! 一気に止めます!」
「はいッ!」
注意喚起を終えたリズは、精神を集中させた。音を立てて動く馬車が、もうじき並木にぶつかる。猶予はあと十秒あるかどうか――
研ぎ澄まされた知覚の中、彼女は自身の魔法陣にこれまで以上の力を投じた。高まる出力が猛烈な風を発生させ、今も残る慣性と制動力の板挟みに、馬車がみしみしと軋む。
またも前のめりにつんのめるリズだが、簡易なハーネスがその場に留めてくれた。食い込みも気にならない。おかげで、馬車の制動に集中できる。
魔法陣に力を投じれば投じるほど、繊細なコントロールは難しくなる。この状況下で、力の均衡を失うことは、馬車が転がるような惨事に繋がりかねないところだ。
ボートの船長歴が、ここで生きてくる。力強くも繊細なコントロールが、暴れそうになる馬車の巨体をリズの手の内に留め……
そして、事態を押し切った。
並木を前に、馬車は完全に停止――ではなく、わずかに後進さえしている。すぐ目の前にまで迫った並木に風が吹き付け、枝が揺れて木の葉が舞う。
地面からも、煽られた枯れ葉が風に乗って舞い踊る。魔法を切ると、木の葉の渦が地へと帰っていく。
(後で掃除しないと)
と、頭の中は中々余裕のあるリズだったが、ハッとして彼女は振り向いた。
「御者さん、大丈夫ですか?」
「は、はい……お陰様で」
腰のベルトを外して中に乗り込んでみると、中年男性が床に転がっていた。外傷はなさそうで一安心ではある。
しかし……身を起こし、事態の終息と見るや、彼の表情には安堵よりも恐れのようなものが増していく。
ただ、証拠こそないものの、リズは彼も巻き込まれた側だと感じ取っていた。
そうでなければ、もっとやりようなどいくらでもあっただろうから。
すっかり当惑してしまっている彼に、リズは微笑んで手を差し出した。
「こんなことになってしまいましたが……きっと、ご理解いただけますよ」
それでも言葉を返せないでいる彼だが、差し出された手には応じた。
その心中を映し出すように、汗ですっかり濡れきった手で。
馬車は止めたものの、まだ事態は終わっていない。その事をリズは実感した。
立っても足元ふらつく御者を支え、リズは彼とともに馬車を降りた。
どうやら、ここまで結構な距離を走ってしまったらしい。すっかり小さなって見える人影が、こちらへ近づいてくるところである。
ご足労いただかないようにと大言を叩いたことを思い出し、リズは一人恥じらいを覚えた。
ただ、向こうは二人とも大きく手を振っており、ひとまずは喜び安心してもらえているようだ。
とりあえず、それは大きな成果であった。




