第274話 貴人たちの馬車
ヴァレリーから王都を少し離れてみようとの提案があった、その翌々日。9月15日朝。
リズとエリシアの二人は、お忍び向けの旅装で居室を出た。
服の仕立て自体は相応に品が良いのだが、国民の多くが富裕なこの王都にあっては、さほど目立つものでもない。
実際、貴賓館を出て庭園を歩いても、そう注目を集めることはなかった。
待ち合わせの場所へ向かう中、「緊張します」と、それでもどこか楽しそうに言うエリシア。
ごく少人数で王都を離れるのは、今回の滞在で初めての事だ。いかにも楽しみといった風の彼女に、リズはにこやかな笑みを向けた。
その裏で、色々と考えが脳裏をよぎるのだが。
提案があって明後日に外出というのは、中々に対応が早い。
ただ、これはヴァレリー側の焦りと言うより……おそらく、対立的な立場にある者たちに、気の迷いを起こさせないためのものであろう。あまり準備期間を置いたのでは、というわけだ。
それでも油断は禁物である。
さて、待ち合わせの場所というのは、王城の外だ。本来ならば、そこまでヴァレリーがエスコートすべきと、彼自身も考えていたようだが……
「目立たない装いだとしても、変に騒がれてしまう恐れはある」として、王城敷地内での合流を避けた形だ。
城壁の門衛から深々と一礼を受け、二人は城下の街並みへと坂を下っていく。
そうして向かった先は、大通りと環状線の交点にある、一際大きな白塗りの建造物。馬宿のようなものだ。
ヴァレリーによれば、この店は王室御用達の老舗だが、民間相手にもごく普通に商売しているという。そのため、ここを利用したところで怪しまれるわけではない。
エリシアに代わり、リズが来意を告げると、店の者は「お待ちしておりました」と快活に答えた。案内されるままに足を進め、屋内へ。
広々とした空間には馬車がいくつか並び、その一つには馬が繋がれている。
「ご予約を受けましたら、外の牧場から馬をこちらに向かわせる仕組みでして」とのことだ。
貴人をわざわざ町の外まで歩かせず、しかし馬にはあまり負担をかけず。両方の折衷案としての仕組みらしい。
今回頑張ってくれる馬はと言うと……馬にはあまり縁のないリズの目に、良し悪しはそこまではっきりと判然しない。
(まぁ、なんだか凛々しい感じはあるけど……)
よくわかっていない彼女と違い、エリシアは良い馬だと思っているようだったが。
そんな馬車の横には、二人の男性が。一人は御者らしき装いをした中年男性だ。
もう一方はさらに年配で、白い髪と髭は整えられている、紳士然とした小柄な男性だ。
実際、中年男性の方はこちらの店の御者であり、この馬車を操ることに。老紳士は、自身を王室の教育係、ドワイトと名乗った。
「エリシアお嬢様。中でお待ちです」
「かしこまりました」
恭しくゆったりした所作のドワイト老に促され、エリシアとリズは、踏み台を用いて馬車へ乗り込んだ。
立派な幌がある馬車は、締め切ると外から内側へは視線が通らない。
そんな中、普段と違って平民然としたヴァレリーが腰かけていた。頭には目深に狩猟帽を被っており、彼がこの国の王子だと識別するのは、遠距離ではやや難しいかもしれない。
板についた感もある変装中の彼は、乗り込んできた二人に「やあ」と口を開いた。
ここで一つ、大きな問題がリズの中に持ち上がる。
(どちらに座るべきかしら)
護衛としての本分を全うするだけであれば、エリシアの横にリズが座るべきだろう。
ただ、ヴァレリーの意向を汲もうというのなら……彼とエリシアが並ぶべきという気がしないでもない。
とはいえ、いずれの案も護衛の身分で提言するには、やや僭越が過ぎるようにも思われる。
一方、エリシアに言わせてしまうのも、護衛としては怠慢のように思われる。
(ま、私から切り出したとして……そんなことで気分を害される狭量な方でもないか)
ふと表情を柔らかくしたリズは、異国の王子に向かって口を開いた。
「殿下。たまには私めが横に座っても? そのお許しをいただけなければ、エリシア嬢の横に座らせていただきますが」
「中々面白い提案だけど」
気を悪くした様子はなく、むしろ面白がっているヴァレリー。彼は少し間をおいて尋ねた。
「君が提示していない選択肢が、もう一つあるのではないかな。気づいていないとも思えないけど」
「目的地まで取っておかれるのも一興かと存じます」
サラリと言ってのけるリズに、ヴァレリーは「君には敵わないな」と破顔した。
先方の許しを受け、改めてエリシアと並んで腰を落ち着けようとするリズ。
行き先で仲良くしていただくのはともかくとして、それまではこうするのが妥当であろう。
「お嬢様。代わり映えのない横で申し訳ありませんが」
「いえ、そんなことは! なんと言いますか……あなたが横だと面白いですから」
「奇遇だね」
正直に口にしたらしいフォローにヴァレリーが乗っかり、一気に和やかな空気に。
そこへ、教育係の老紳士が乗り込んできた。迷わず、空いた席へと動いていく。
「殿下、代わり映えのない爺やで申し訳のうございますが……」
「年のわりに耳はいいんだから」
中々ひょうきんなところを見せるドワイト老に、また馬車の中で含み笑い。
その後、ドワイトは御者に「出発を」と声をかけた。わずかに体を押される感覚があり、馬車が外へと進んでいく。
幌の布は厚手だが、日光を完全に遮るほどではない。御者側に空いた穴から程よく光が入り込むこともあって、馬車の中は暗すぎることもなく快適であった。
地面には特に凹凸もなく、馬車は滑らかに進んでいく。
一応お忍びということもあって、街中では会話を控える一行。
王都外縁部から街道に出て少しすると、ヴァレリーがふう~っと息を吐き出した。
「まさか、見抜かれるものとも思わないけどね」
「息を潜めるのを愉しんでいらしたのでは?」
「それはある」
年の離れた教育係と、実に親しそうに言葉を交わすヴァレリー。やり取りを見る限り、信用できそうな老紳士ではあるが……
実際は、どういった立場だろうか?
あまり直接的に探りいくのも、場の空気を悪くするだろう。この外出の意味を損なう恐れも。
当たり障りない問答で、どうにか探りを入れていくことができれば――と、リズは話しかけた。
「ドワイト殿は教育係とのことでいらっしゃいますが、他にも同等の立場の方が?」
「はい。王室付きで数名ほど。ご教示する内容ごとに担当が変わる形ですな」
「ご自身のご担当は?」
「ふむ……難しい質問です」
と、そこへ横から「帝王学とでも言うかな」とヴァレリー。
「政治経済から始まって、哲学や算術。武芸もいくらかね」
つまり、教育係筆頭と言ったところか。
思っていたよりも大人物のドワイトだが、その地位を鼻にかけた様子はない。「武芸などは昔の話ですので」と謙遜している。
「殿下のご兄弟にも、ドワイト殿がご教鞭を?」
「はい」
(つまり……王室内の立ち位置では、割とフラットな方かしら?)
即断は禁物だが、ヴァレリー率いる新進派に対し、何かしら強い考えのある人物ではなさそうな感じだと、リズは判断した。
おそらく、派閥等の事情抜きに、個人的な信頼からこの席に呼んだのでは。
そんなことを考えたのも束の間のこと。変に考え込んではと、リズは話の続きを口にした。
「大変に名誉な顕職ですね。感服の限りです」
「いやはや、それほどでも……」
王室教育係という職を指し、本人が「それほどでも」などと口走っている。
あろうことか、教え子たる王子のすぐ横で。
だが、これに何ら苦言を呈さないあたりが、この二人の距離感なのであろう。
そして、この好々爺の口は減らなかった。
「教え子に恵まれた光栄はございますが……横におられるお方が、一番の問題児ではありましたね」
「そうだったかな? すまない。あまり身に覚えがないのだけど」
「何かにつけ、口答えする子でして。まずは自分の考えを口にしなければ、気が済まないところが……」
そういう彼だが、過去を懐かしむようなその顔は、教え子に対する愛情のようなものを感じさせる。
とりあえず、護衛としては安心だ。人知れず胸をホッとなでおろす想いのリズであった。
一行を乗せた馬車は、ゆったりしたペースで王都を離れていく。緩やかな丘陵連なる地帯を街道沿いに進み、低い山に囲まれる湖が目的地だ。
夏場は泳ぎに向かう者も多いということだが、シーズンオフには客足が途絶える。
ただ、水泳需要が収まれば、今度は紅葉が来訪者を出迎えてくれる。
「もう少し待てば、より一層に鮮やかなところなんだけど……人気も増すものだからね。今がちょうどいいと思った」
「ご配慮ありがとうございます」
街道封鎖という荒業を使えないこともないのだが……それはそれで、お忍びではなくなってしまう。
タイミングという点では、実際に今が申し分ないようにリズは感じた。王都を出ていくらか経ったものの、街道ですれ違う者はほとんどない。
かといって、物寂しくうらぶれた感はまったくない。進行側に目を向けると、道の先々には色づいた並木が並んでいる。
ヴァレリー曰く、もっと先に進んだ方が壮観であり、先にも言ったように秋が深まればもっと美しいとも。
それでも、現時点の光景で十分、目を楽しませるものだった。
それからも、時折外に目を向けては秋模様に感嘆し、馬車の中で顔を合わせては歓談し――
一行は穏やかで満ち足りた時間を過ごした。
――しかし、事態が急変する。
突如として聞こえた馬のいななき。次いで、リズは急激に体を押される感覚を覚えた。馬車後部側に座る彼女に、エリシアの体重がもたれかかってくる。
王子と異国の貴族令嬢を乗せた馬車が、どうしたことか、主人の断りもないままに急加速したのだ。




