第258話 あの日の真実
ふと場の空気が和らいだその時、リズはあの時ルキウスに負わせた傷のことが気になった。何発も《貫徹の矢》を撃ち込まれ、あの時、彼の左手は朱に染まっていた。
「手は大丈夫?」と尋ねるリズに、スッと左手を伸ばすルキウス。傷らしいものは表裏どちらにもなく、綺麗なものであった。
彼自身はと言うと、「お前に心配されるとはな」と、気遣われることにやや抵抗を感じないでもない様子だったが。
いくらか気分が上向いたように見える彼は、未だ陰差す感じが否めない。無理もないことだろうが……
下手に声をかけるのもためらわれ、リズは少し茶に逃げた。一杯口に含んで一息つき、様子をうかがうと――
「すまない」と口にし、ルキウスはうなだれた。
「何が?」
すると、彼はやや逡巡した後、心境を吐露していった。
「……お前を殺した後、継承の儀がうまくいかず……少し塞ぎ込んでな。まだ終わっていないのか、身内同士で殺し合わなければならないのか。そう思うと、やりきれなくなった」
これは何も、彼自身が手を汚したり、自分が危険に遭うのを嫌ってのものではない。リズはそう確信できた。
彼はむしろ、弟妹が手を汚すことになったり、心悩ませることになったり――
あるいは殺されることこそを避けたかったのだ。
あの戦いも、「皆を解放する」ためのものだったのだから。
少ししてから、ルキウスは話を続けた。
「あの戦いの後、継承競争は一時中断になった。レリエルの提言があってな」
「レリエルから?」
立場上は継承競争を支持し推進する側に立つ彼女だが、大聖廟で会話した限りでは、競争させられる当事者としての考えはまた別にあるようだった。
おかげで、中断するための提言があったと聞いても、さほどの驚きはない。
『儀式がうまくいかなかったことから、これは継承競争そのものに対する意図的な攻撃とも考えられる。当代のみならず、制度自体が破綻しかねない。標的の生死は未だ不明ながら、今はまず静観すべき』
というのが、彼女の主張とのことだ。
おそらく、自分の中にある二つの立場を戦わせ、見出した妥結点だったのだろう。これを関係者――枢密院と、国王も含むものと思われる――に認めさせたあたりはさすがというべきか。
あの妹がうまくやった事に、リズは思わず顔を綻ばせたが……少し怪訝な顔を浮かべるルキウスを前に、彼女はすぐ真顔を取り繕った。
そんな彼女に困ったような苦笑いを向け、ルキウスは事の次第を告げていく。
「レリエルの主張も、当時の私には……助け舟というか、慰めのようにしか感じられなくてな。いや、今でもそうか……ともあれ、王都には居づらくなった私は、ここに逃げ込んだ。それから、アスタレーナにお前の生存を伝えられ……」
その後、自嘲気味なため息をつき、彼は「迷惑だったか」と零すように言った。
思っていた以上にずっと繊細なところのあるこの兄に、リズはいたたまれない思いを抱いた。
この席では、まだ言っていないことがある。あの戦いの真実を、彼女は打ち明けることにした。
「分身の中に私の精神があったって、言ったでしょ?」
「ああ」
「それで、あの分身を、あなたはキッチリ殺した」
この話の流れに、ルキウスはすぐ察しがついたようだ。緊張感のある顔になり、彼は尋ねた。
「殺される直前に、本体に戻ったのではないのか?」
「そこまで便利なものでもなくてね。精神の出入りには、結構なタイムラグがあるの。早めに逃げたことで変に思われ、バレてしまっては本末転倒だから」
「……では、あの瞬間、お前の精神は死を経験したというのか?」
切迫感を持って尋ねる兄に、リズは「ええ」と端的に答えた。
「死んでから精神が本体に戻って……蘇生はうまくいったわ、見ての通りね。友だちにすごく迷惑かけてしまったけど」
「……何がお前を、そうまでさせたんだ?」
問いかける兄に、リズは目を閉じて思い返した。
あれだけの覚悟を持って戦いに挑んだ理由は、いくつかある。事に挑む前、作戦を打ち明けた仲間たち、協力者を納得させるだけのものが。
「あの時、『潮時』って言ったでしょ。あのまま、いつまでも逃げられるわけじゃない。だから、事態の根本を解決しないと、って思ってた。私を殺した証拠さえあれば、それで手打ちになるんじゃないか……そこで私は、分身を殺させる事を思いついた。あなたたちと、私の、それぞれの目的を果たすために」
しかし、それはうまくいかなかった。今度はリズが、皮肉な笑みを浮かべる番だ。
「分身を殺しただけでは、制度上の要件を満たす証拠は用意できても、儀式的側面までは騙しきれなかったみたいね。精神の死を以ってしても納得しないっていうんだから……まったく」
結局のところ、継承競争の関係者ほぼ全員を出し抜いたようなリズだが、連綿と続くこの儀式そのもにだけは認めなかった。
王室に関わる全員が、この儀式と制度の枠から逃れ得ないということだ。
とはいえ、少し風向きの変化を感じないこともないが。
「うまくいかなかったけど、私も……あなたたちを解放したかったのよ。恩着せがましいようだけど」
「……そうだな。少なくとも、追われる側が言うことではないな」
話題も尽きてきたところ、リズは最後に言い残したことを口にした。
「分身は偽物だったけど、私の精神は本物だった。水面下の仕込みはあっても、あの時の言葉に偽りはないわ」
「ああ、信じるよ」
「ま、あの時は本当に……生きて帰る保証も無かったから、嘘つく意味も無かったしね」
「……まったく、敵わないな」
あくまで悲壮感なく、過ぎたこととばかりに軽く言い放つリズに、ルキウスは困ったような表情を浮かべた。
今回の会話で、彼もいくらか気分は楽になったようだ。自分に勝った相手が打ちひしがれるのは不本意だけに、リズにとっては幸いであった。
とりあえず、この場はこれで十分だろう。兄も十分に満足いっているものと見え、リズは立ち上がった。
「茶の片付けは……キチンとしたメイドさんに頼んでね」
「お前は、キチンとしてないのか?」
「もう卒業したもの」
板についた装いながら、サラリと口にするリズ。彼女は立ち上がり、宣言通り茶の一式をその場に置いたまま、ドアへ向かった。
そして、退出する間際。彼女はかける言葉を少し考え、口にした。
「元気でね」
「ああ」
「また機会があれば、お話でもしましょう」
「そうだな」
返る言葉は短くも、感情のこもったものであった。これに満足し、リズは執務室を後にした。
部屋を出た彼女は、廊下を進んで別の部屋へ。
向かった先の応接室には、アスタレーナと一人の女性が待っていた。リズよりも少し年上の女性で、おっとりした雰囲気はあるが、見つめてくる視線には芯の強さを感じさせる。
ルキウスの細君、ハリエット妃だ。
国内における正式な身分としては、リズよりも彼女が上回る。同席しているアスタレーナは言わずもがな。リズは身に染み付いた所作で、二人に礼節を示そうとした。
しかし……この二人の方が早い。しずしずと、それでいて深く頭を下げてくる二人の貴人に、リズは少し面食らった。
その後、「おかけくださいまし」とハリエット妃がイスを引き、やや恐縮しながらもリズは同じ卓を囲んだ。そこへアスタレーナが一言。
「私相手のときよりも畏まっていないかしら?」
「何を仰るやら。私たちは非公式の客人でしょ? 領主夫人たる妃殿下に礼を示すのは道理だわ」
軽く応酬する王女二人に、ハリエット妃は顔を少し綻ばせたが……すぐに神妙な顔になり、彼女はリズに頭を下げた。
「この度はご足労いただきまして、感謝の申し上げようもございません」
長兄ルキウスに会ってほしいと、今回の件をリズに持ちかけたのはアスタレーナだが、背景にはこの妃の存在があった。
というのも、王都を離れてこの領地に移った際、ルキウスが妃に若干の情報を漏らしたというのだ。
リズにしてみれば、むしろ「ずっと隠し通してきたの?」といったところだが。
彼としては、王室総掛かりで実の妹を追い回している事実を、妻には言えなかったのかもしれない。
ただ、それでも結局零してしまったということで、相当参っていたのがうかがい知れる。
そこで、彼が真に立ち直るきっかけになれば――と、今回の件が持ち上がったというのだ。
「私の話などで、お役に立てれば良いのですが……」と謙遜するリズに、ハリエット妃は神妙な顔で応じた。
「ルキウス殿下は、あなた様を手に掛けたことを気に病んでおられました。その上、継承の儀が失敗に終わったことが追い打ちにもなりましたが……」
この追い打ちの原因となる罠を仕掛けた張本人として、ハリエット妃には申し訳無さに肩身狭い思いをするリズだが、妃は少し表情を柔らかくした。
「あなた様がご存命ではないかと、アスタレーナ殿下からの情報を耳になされ、ルキウス殿下は……私には、安堵の気持ちをお伝えくださいました。『あのような形で、損ないたくはなかった』と」
継承競争に関わる、当事者以外の関係者からすれば、泣き言のようにも取られかねない言葉である。
だが、この夫人は、そうは考えていないようだ。それがリズにはありがたかった。
問題は、事がまだ終わっていないということだが……枢密院が一時中断を認めたというあたり、続行には大きな問題ありと認識されているのだろう。
リズは姉に向き直り、その点を尋ねた。
「根本を解決するための材料が、何かあるんじゃない?」
「どうしてそう思うの?」
「気休めにしかならないとわかって、こういう席を設ける人じゃないでしょ」
信頼の念を向けての言葉に、アスタレーナはため息をつき、答えた。
「ないわけでもないわ」と。




