第247話 空の旅
国家間どころか大陸間を結ぶことすらままある飛行船は、まさに魔法工学の結実といえる存在だ。
運用できる国は、それだけでもステータスになるほど。技術力に経済力、双方の繁栄ぶりを外に知らしめるのだ。
そんな飛行船に乗るには、相応の財力が必要となる。
そして、乗るだけの理由――大枚はたいてでも外国へ行く理由も。
観光、あるいは飛行船に乗ることだけを目的とした客もいないわけではないが、乗客の大半は商用か公用である。
文字通り、国々を股にかける仕事を手掛けているわけであり、飛行船に乗ること自体もステータスだ。
そのため、乗客には自信に満ちた大人物が多くなる傾向にあるのだが……
☆
8月3日。空港を発ったばかりの船内で、若干24歳の女性ペトラ・リンデルは、心底居心地悪そうにしていた。
周りの人物は、いかにも富裕層といった格好。それも、服や装飾品に着られている者はほとんど見当たらず、着ている本人自体に落ち着いた風格がある。
それと比べると、彼女は装いこそ上品にまとまっているが……自分の存在が、なんとも場違いに思われてならない。
空港から音もなく離陸し、徐々に高度を上げていく飛行船。船室の窓からのぞく光景は、現実離れしたものを映し出し――ついには、白い何かを突き抜け、それが眼下に広がるほどに。
いくら「大丈夫」と言い聞かせても、本能的な恐怖を禁じ得ない。
しかし、不安に揺れる彼女の心中をよそに、飛行は実に安定しており、恐ろしい揺れも音もない。
加えて周囲の乗客の、あまりに慣れた様子が、彼女を落ち着かせた。
落ち着きの後には、顔を青ざめさせていた自分を思い出し、やや恥じらいを覚えてしまうのだが。
ふう、と息を吐き出し、彼女は冊子に目を落とした。船内構造の案内や、注意事項等を記したものだ。
このまま船室にいるのもいいが、せっかく飛行船に乗ったのだから……と、彼女は立ち上がった。
この後、もう少し恐ろしい思いをするかもしれないが、それもいい経験になると自らを勇気づけて。
飛行船という名の通り、外見はほとんど船である。特に、喫水より下の部分は、一般的な船とほとんど相違ない。
強いて言えば、着陸時の安定のためにと、底部がかなり平たいのが特徴か。
大きく違うのは甲板より上。帆船のようなマストはなく、代わりに船室が設けられている。飛行船の多くは、船室が多段構造になっており、上のものほど等級が高い。
ペトラが出たのは、甲板から直接繋がる一等船室である。一等船室の上に、より見晴らしのいい特等船室。甲板の下は人荷共用スペースとなっており、割安な二等船室がある。
乗れればいいと割り切る二等船室の客は、むしろ空の旅常連の玄人だ。大体は少し奮発して一等以上の船室を求める。ペトラの実家も、そういったクチだ。
船室から出てみると、これまた普通はお目にかかれない光景が彼女を迎えた。
まず目につくのは、船体の全方位を包み込むような魔力の薄膜。視界の邪魔にならないようにと、ほとんど透明なのだが、時折魔力の線が走ってその存在を明らかにする。
冊子によれば、この防御膜によって気密と気温を維持し、上空の強風と寒さから船体と乗客を守っているのだとか。
この膜がなければ、甲板に出て見学どころか、航行すらままならないという話だ。
そこにあるかどうか、微妙に不確かな膜に命を委ねている現実に、ペトラは身震いした。
甲板上にいる他の客はというと、景色を眺めたり談笑したりと、まるで気にしていない様子だ。
これを見習い、彼女は深呼吸してから、甲板を少し恐る恐る探索し始めた。
一般的な船と比べると、欄干の柵は高く、柱の間隔は密になっており、先端にかけて内側に傾斜するつくりとなっている。
ここに登って外に落ちる客が出ないように……という配慮だ。
さらに、事故を未然に防ぐため、甲板では乗務員が監視業務を行っている。
その内の一人と目が合い、ペトラは愛想笑いした後、手元の冊子に目を落とした。
冊子によれば、危険と認められる行為があった場合、身柄を拘束した上で船内の事務室でおとなしくしていただく規定となっている。
実際には、そのような危険行為に及ぶ者など、まずいないのだろうが。
乗務員たちにとっては責任ある職場に違いないものの、一方で客商売という側面もある。
それも、このサービスに大金を払っている者相手の。監視要員たちは、業務の響きとは裏腹に柔和な様子だ。
また、危険行為に対する警告はあるものの、運営側として客の気持ちはよくわかっているらしい。客を守るための欄干に包まれた甲板だが、すり抜けを防止しつつも、向こう側への見晴らしを大きく損ないはしない。
それどころか、欄干にはある程度の感覚で窓さえある。
そうした窓の一つに、ペトラは若干の恐怖を覚えつつも近づいていく。
彼女が目にしたのは、眼下に広がる白い物体であった。
いや、物というほど確かな実体があるのかどうか。頭の中では、目にしているものが雲だとわかっていても、非現実なこの状況が理解を拒ませる。
いつも見上けるはずの雲が下にある。それほど高いところに自分が存在する事実に、彼女は少し立ち眩みをした。
そこへすかさず、「大丈夫ですか?」と駆け寄ってくる青年が一人。乗務員の一人であり、年は若い。ペトラは、自分よりも若いのでは、と感じた。
そんな彼の顔に、心配の色が浮かんでいる。
「す、すみません……大丈夫だとは思うのですが、高いところが怖くて」
「ええ、よくわかります。慣れない内は自分も怖かったですから」
ああ、プロでもそうなんだ……と思うと、彼女は気分が少し楽になった。それでも拭いきれないものはあるが……
結局、彼女は何度か深呼吸をした後、甲板を離れることにした。せっかくの飛行船、まだまだ見るべきは他にもあるのだ。
船室へと戻った彼女は、そのまま直進し、船室後部にある部屋へと向かった。かなりスペースを取ってある、一種のサロンである。ベージュ基調の落ち着いた室内には、ゆとりを持ってテーブルやイス、ソファーが並んでいる。
乗客の多くは、すでに何らかの形で成功した人物が多く、おおむね時間の価値というものをよくわかっている。それに、見識・見聞が広い者も多い。
そんな人物がひとところに集まれば、色々と話が盛り上がるのは必然である。
積極的に話しに行こうとまでは思えなかったペトラだが、場の空気だけでも経験しようと一人用の席に着いた。
間を置かず添乗員が席に寄り、「どうぞ」とメニューを差し出してくる。安全のためにとアルコールはなく、大体が茶を中心とする嗜好飲料、それにちょっとした軽食類である。
彼女は適当に茶と菓子を注文した。復唱の後、添乗員が恭しく立ち去っていく。
程なくしてやってきた茶を軽くすすると、気分がかなり落ち着いてくる。そうして彼女は、周囲で語られる言葉に耳を傾けた。
情報の価値を理解し、国々を渡り歩くような仕事を持つ面々にとって、目下の注目はルーグラン大陸である。
特に、政変もまだ記憶に新しいルグラード王国ハーディング領。領都サンレーヌに空港が新設されるという噂は、このサロンでも持ちきりである。
ペトラにとっても興味深い話が、ちょうど隣のテーブルから彼女の耳に入ってきた。
「当面はマルシエルとラヴェリアのニ国に限定するとの話だ」
「他国は、まずは様子見というところでしょうか?」
「両国の関係が良好であることをアピールする目的があるのやも」
「サンレーヌが注目を浴びるだけに、開港直後の混乱を避けたかったのでは?」
と、それぞれが盛んに口を出し合い、推論を戦わせていく。
こうした船に乗り込むだけあり、ペトラも国際情勢には相応の知識と理解がある。耳にした見解は、当を得るもののように聞こえた。
すると、老紳士が何か思い出したかような顔で、「ラヴェリアと言えば」と口にした。
「第一王子ルキウス殿下が、領地に戻られて久しくなりますな」
「確か、今年の初春に戻られたはず。これで半年ほどになりますか」
急に持ち上がってきたラヴェリアの話に、ペトラは茶を楽しみつつも注意を傾けた。世界に名だたる大列強の話だけに、興味が尽きないのだ。
実のところ、かの国への関心は、同乗する歴々にとっても同じようなものらしい。互いに抱える手札を少しずつ明かすように、情報交換が進んでいく。
「陛下が政務には口を出されず、実際の権限を後進に委ねられているとは聞いていますが……ここにきてルキウス殿下が中央を離れられたというのは、少し妙な話ですな」
「外征の準備という話も聞きませんしね」
「領地の運営も安定していると聞く。どことなく、隠棲のように感じなくもないが……」
耳をそばだてつつ、あまりに露骨では恥ずかしいと思い、茶と菓子に手を伸ばすペトラ。
注意が噂話に引かれる中、口中を愉しませる菓子の絶妙な甘味に、どこかもったいないものを覚えていると、話の矛先が少し変化した。純粋にティータイムを愉しみたいという思いを押さえつけ、話に専心していく。
「ラヴェリア王室といえば、昨年から外遊が多くなりましたな」
「ええ。特に、第四王女ネファーレア殿下と、第六王子ファルマーズ殿下ですな」
「サンレーヌ空港の件も合わせ、軍事以外でのプレゼンスを強化しようという考えがあるのだろうか?」
「どうでしょうね。肝心の外遊目的自体、国際親善という当たり障りないものですが……」
「ルキウス殿下の件も合わせ、何か関連があるのかも」
「お世継ぎもまだ決まっておりませんし……ですよね?」
ラヴェリアが何かすれば……あるいは、ラヴェリアに何かしても、国際的に影響が波及する可能性は高い。手がける仕事ゆえにか、気が気ではない様子の面々だが、推論が少しずつ途切れがちになっていく。
横で耳にするペトラの方も、テーブルの上が少し寂しくなってきたところだ。
粘るにも限度があり、これが潮時と感じた彼女は、小さく手を挙げてウェイターを呼んだ。
「いかがなされましたか?」
「えっと、その……これで席を立ちますので。ごちそうさまでした」
そう言ってペコリと頭を下げると、ウェイターは「お褒めいただきまして、ありがとうございます」と、気持ちのいい笑顔で応じた。
ペトラが横目でチラリと見てみると、話を提供してくれた面々が、微笑ましいものを見る温かな目を向けているではないか。
(もしかして、言わずに離席するのが普通なのかも……)
お作法違いに思い至り、やや恥ずかしくなった彼女だが、盗み聞きを咎められる様子はなく、それは幸いであった。照れ隠し気味に、そそくさとその場を立ち去っていく。
興味深い話を聞けはしたものの、やはり浮いている感じはあった。家業の都合とはいえ、やはりこういった場に、自分はまだまだ若すぎるのではないか――
場に呑まれて浮き足立つ感もあって、彼女は船室の自席へと足を向けた。イスに身を預け、深呼吸。
視線を巡らせてみると、他の客はほとんどいない。
離着陸の際はこの船室に留まるのが原則であり、乗務員による確認も入る。
だが、巡航高度に入ってしまえば、各々が思い思いに動きだす。甲板に出るか、サロンへ行くか。あえて船室に留まる理由はあまりないのだ。
そこで彼女は、少し妙な客に気づいた。
背格好は自分と同じぐらいの世代の女性だ。髪はつややかなクリーム色、メガネを掛けた顔は凛とした気品がある。
先ほどのラウンジに入っても、誰にも見劣りしない感じがある、まさに絵になる人物だ。
そんな彼女が、座席据え付けの机に本や書類を並べ、何やらしかめっ面で書類仕事をしている。
ペトラは、その仕事内容よりもむしろ、こんなところで書類とにらめっこする彼女に、不思議と強い興味を覚えた。
それに、年若い女性の一人客ということで、なんとなく親近感もある。
もっとも、向こうの雰囲気は、落ち着きを超えて淡々というか淡白なもので、その点は似つきもしないのだが。
そろりと様子をうかがうようにペトラが近づくと、先方が彼女に気づいた。そこまで音を立てた自覚はないのだが……思わず驚いて立ち止まってしまう。
しかし、仕事の邪魔とは思われなかったようだ。先方はニコリと微笑み、ペトラはほっと胸をなでおろす思いであった。
「すみません、同世代の方が珍しいもので、つい気になって……」
すると、相手の女性は近くの空いている席を、丁寧な所作で指し示した。
「よろしければ、おかけになっては?」
そう言って、彼女は書類をまとめ、閉じた本を重しにした。
邪魔ではないかと遠慮するのも野暮な空気である。勧められたとおりに腰を落ち着け、ペトラは自分から名乗ることにした。
「ペトラ・リンデルです」
「イサベル・メルカデルです」




