第245話 VS第一王子ルキウス③
旗を巡る攻防は、もはや何の意味もなさなくなった。今やルキウスの左手が例の旗そのものであり……
魔法を引き付ける旗の前に、彼の技量が何よりも堅牢な門番として立ち塞がっている。
左手は防御に専念する構えらしく、攻撃に用いてくるのは右手の長剣。両手で振っていたこれまでよりは、振りの力強さも鋭さも若干劣る。
それでも、リズとは拮抗するか、現状でもやや上回ってくるほどだ。彼女が打ち込んだ一太刀は巧みに受け流され、すかさず鋭いカウンター。
一瞬、刃きらめく突きをすんでのところでかわした彼女は、サイドステップを踏みつつ今度は《魔法の矢》。接近戦の間合いで放つ、避けようがない一発だが――
これをルキウスは軽々と《防盾》で打ち払い、生じた閃光と魔力の霞を隠れ蓑に、長剣の横薙ぎを繰り出した。
迫る刃に対し、下向きに剣を立てて刃で受け止めるリズ。それ以上押し込まれないことを手の感覚で即座に察知するなり、彼女は大きく退いた。
後退しつつ、緩急織り交ぜての《魔法の矢》、続けて《追操撃》の連撃。
この連撃も、まるで息するような自然さで対処されてしまう。迂回させた誘導弾で奇襲しようにも、引き寄せに逆らうのは徒労に終わる。弾速は遅く、舵取りは鈍い。
空中で戸惑うような動きを見せる誘導弾に対し、進行方向に置くように《防盾》を構えるルキウス。
結局、進路を大きく変えるほどの自由はないまま、誘導弾は相殺されて宙に消えた。
だが、これ見よがしに優位を示しておきながら、彼に得意げな様子はない。先ほどのように、彼はやや暗さのある表情で降服勧告をした。
「まだ諦める気はないか?」
「……ええ」
「そうか。まだ試していない魔法があれば、遠慮はするな」
彼もリズには十分に警戒していることだろうが……主導権を与えようという彼の言葉を、リズは慢心からくるものではないと悟った。
言われて彼女がイメージしたのは、《火球》である。まさか、人間相手に撃つわけには……しかし、誘いに乗って相手の反応を引き出すのも有意義だろう。
そこで彼女は、《霊光》を作った。光の加減を調整し、暖色系の光を放つものを。これを兄の元へと飛ばしていくと……
寂しげな笑みを浮かべた彼は、「優しいな」と言って左手を球に向けた。
そして、その手から魔弾が放たれる。二つの魔法がぶつかり合い、相殺されて宙に散っていく。
「やっぱり、そっちは普通に使えるのね」
「ああ」
(とは言ったものの……)
実のところ、彼の魔法だけが機能する原理は不明である。所有者の魔法にだけ反応させないともとれるが、左手に巻き付けた旗から生じる誘引力を、初速で離脱させているだけかもしれない。
一度でも十分に離れてしまえば、もはや引き寄せられることはないというわけだ。
ただ、何であれ大幅な不利があるのには変わりなかった。あちらの魔法で、《火球》までもがこうも易々と相殺されるとなれば――
まだ使っていない魔法は、《貫徹の矢》。もともと対処が難しい魔法ではあるが、リズは期待できる気がしなかった。
きっと、この兄はすでに乗り越えた道だろう。
もはや、物は試しという、物見遊山にも似た気分で貫通弾を放ってみると……
ルキウスは左手のナイフを水平に構えた。刃の切っ先は貫通弾へ。刃は魔力の光を帯び始め、彼の左手へまっすぐに迫る貫通弾が、切っ先からスッと呑み込まれていき――
彼は何事もなかったかのように、左手を構え直した。左のダガーナイフに蓄えた魔力で、貫通弾を相殺したということだろう。実際、貫通弾対策として似たような防御魔法はある。
「うまくできていらっしゃいますこと」
素直な感嘆と、このどうしようもなさへの呆れが入り混じり、ため息とともに言葉が漏れ出る。
しかし、優位を見せつけておきながら、ルキウスはやはり――
「これでも、まだ戦おうというのか?」
「……悪いけど、私は諦めないわ」
「……そうか」
すると、彼は瞑目した。
ここが戦場という認識はあるのだろう。構えや緊張感に緩みはない。
やがて眼を開けた彼は、「つまらないことを聞いたな」とだけ口にし、顔からは憂いの色が消えていく。
そして、戦いが再開された。
彼は右手一つで、それなりの長さと重みがある長剣を巧みに操り、左手はゆとりを持たせて自身の防御に。機敏な足さばきで詰め寄り、まずは横薙ぎ。
バックステップするリズの前を、刃がスレスレのところをかすめ――左脚で追加の踏み込み。
この兆しを、彼女は見逃さなかった。地面を伝わってきた感覚により、さらに間合いを詰めて伸びる薙ぎ払いに、反応がどうにか間に合った。足運びに加え、体を反らしてこれを回避。
一瞬の攻防でわずかに驚きのような感情を示すルキウスだが、彼も見切りは迅速だ。遊ばせている左手から、今度は《魔法の矢》。
狙いが胸元であることを認めると、リズはこれを体で受けることにした。着弾予想点に魔力を集め、体表を守る魔法、《鎧皮》を展開。
瞬時に見切った狙いへ、現実の魔弾が襲いかかり、着弾。打ち込まれた魔法の衝撃も合わせ、後ろに跳ねてまずは距離を取っていく。
そうして飛ばされつつ、今度は空中で魔法の連発。やや方向を変えた貫通弾を、わずかに緩急つけて数発。
さらに、注意を前方に引きつけた上で、ルキウスの背後の地面に《追操撃》の魔法陣を展開。
この波状攻撃は、全て彼の左手に飲み込まれ、殺到することだろう。致命傷にはなるまいが、どこまで対処できるものか――
すると、彼はまず左手のナイフを貫通弾に向けて構えた。少しずつ角度とタイミングをずらして迫る弾を、的確なナイフさばきで呑み込んでいく。
背後から迫る弾に対しては、着弾直前に右手で《防盾》を構えて相殺。
この一連の攻防の中、貫通弾の一部が左手を撃ち抜くのを確認したリズだが……ナイフの握りが甘くなった様子はない。
見事に切り抜けられ、変な笑いが込み上げてくる。「さすがね」と口にすると、ルキウスは「やりづらいな」とだけ応じた。
撃たれる魔法の全てが、半ば彼の支配下から逃れられないというのに。
その心情を思い、リズはこれ以上何も言わないでいることにした。神妙な顔で口を閉ざすと、ルキウスの顔に悲哀の色濃い微笑が浮かび……
それもすぐに消えて、彼は再び攻勢をかけた。リズよりもリーチのある剣での連撃、彼だけが自由に操れる魔法での追撃。
対応するリズは、致命傷を受けないようにするので精いっぱいだった。かわし、受け止め、切り抜ける。
それでも、徐々に負傷が増えていく。時折受ける浅い傷が、少しずつだが着実に彼女の体力を奪っていく。剣の力量では敵わず、魔法も有効打とはなりえない。
一通り試した中では、貫通弾だけが有望だった。それでも、狙えるのが左手だけとあっては……相当量を当てても、手がしびれさせるぐらいの戦果しか得られないだろう。
だが、それで構わなかった。
地面を用いての魔法陣展開も、ルキウスの対応力の前には、目立った成果を上けられずにいる。
奇襲に用いようとも、自分の手を離れた個所で展開するだけに若干の無理がある。普段の魔法陣よりレスポンスが悪く、互いに足を動かしての近接戦闘メインでは、中々力を発揮する暇がないのだ。
そのため、あらかじめ地面に書きかけを用意しておき、これ見よがしな罠としてチラつかせるぐらいのことしかできないのだが……
結局は左手に誘導されるとわかっていれば、脅威にはなり得ないのだろう。あまり意味のある脅しにはならなかった。
そうして、自身の手立てを封じられたリズだが……封殺されたことへの憤りどころや悔しさすら薄く、胸の内には素直な尊敬の念があった。
ルキウスが、あの旗の能力に目覚めた時、最初は普通に柄のある旗として現れただろう。手に巻き付ける用法は、彼ならではの工夫と、その意志の現れのように思われるのだ。
つまり、配下を――臣民を守るための旗をも、自分の手で堅持してみせよう、と。
魔法によって狙われるのが左手とわかっていれば、確かに対処は容易になるだろう。
だが、読めている魔法に対し、的確に対処できるかどうかは別問題だ。
そして彼は、その力を存分に生かすだけの技術を身に着けている。左手へ殺到する魔弾への対応速度、周囲への見切りの速さ、ナイフさばきに代表される独特の防御技法。
他に類を見ない力を十全に生かすため、これらの力を自らの手で築き上げてきたのだ。
――最後になるかもしれない敵が、これだけ尊敬に値するのなら、それは幸せなことなのかもしれない。
優勢は常にルキウスの側にあったが、実際のところ、攻め手にかける部分は確かにあった。
それだけ、リズが粘り強く食らいついていたということだ。
一方で彼女の側も、あまりに堅牢な兄の守りを突破できずにいた。
成果がないこともない。隙を見ては何発も貫通弾を撃ち込み、赤いものが滲み始めたルキウスの左手は、今や真紅に染まっている。
だが……
昼過ぎから始まった死闘は、二人が気が付いたころには夕刻に差し掛かっていた。
そして、リズはついに膝をついた。
彼女の衣服には、四肢を中心として、おびただしい数の赤い線が刻まれている。いずれも浅い切り傷、急所をかわしているのはさすがだが……もはや体力の限界である。
それでも歯を食いしばり、地に突き立てた剣を杖替わりにして立ち上がろうとするも――
地に着いた彼女の右ひざを、魔力の矢が射抜いた。
痛苦に悶え、彼女は剣を手から離し、地面に突っ伏した。その耳に、兄の声が届く。
「すまない」
顔を見ずとも、表情だけは思い浮かぶ、そんな痛切な響きの声であった。
追撃は来ない。その気配もない。地に突っ伏したリズの顔の、唇の端が釣り上がる。
そして彼女は、身に残る力を振り絞り、ゴロンと寝返りを打って仰向けになった。
空には沈みゆく茜色と、これから来る宵闇が混ざり合っている。去り行く陽の帳の奥から、そこにいた星々の光が浮き上がっていく。
これまでの戦いが嘘のような静寂が彼女を満たし、少しの間瞑目して、彼女は口を開いた。
「ねえ……」
「ああ」
「ちょっとだけ、お話しない?」
すると、持ち掛けから数秒後、彼女にほど近い場所で腰を落とす音が聞こえた。
「そうだな」




