第237話 歴史の結節点
話の後、三人は玉座の間から転移した。
前もって虚空に設けておいたらしいその空間は、単に暗い灰色の壁で区切られただけの広間だった。光源はなく、かなり薄暗い。
そんな中、ルーリリラは《霊光》を灯し、リズお手製の禁書を開いて見せた。開けられたページには一つの禁呪が記されている。
「過去に精神を遡らせる禁呪、《追歴》です。これで、直接体験していただこうかと」
「私の口から話しても、正直な話……君が信じてくれるかどうか、かなり微妙ではあるからね」
と魔族二人が言うものの、リズは不安であった。
「お二人のお力を疑うわけではないのですが……このような大魔法がうまくいくのでしょうか」
いかに魔族と言えど、対象とする魔法は禁呪。系統としては、リズも扱える《家系樹》と似たようなものだが、難易度は大きく異なる。
しかも、禁書を渡してさほど経っていないのだ。
だが、疑念を口にする彼女を前に、二人はいくらか余裕を見せて請け負った。
「事をうまく運ぶための要素が、いくつかあるからね」
まず一つ目に、お互いの出自だ。
《追歴》は対象者の精神を過去に遡らせる禁呪だが、無制限にというわけではない。より遠い過去へ向かわせるほど難度は高まり、得られる知覚に占めるノイズの割合が増していくという。
だが、この術者や対象者と、見せたい過去との関わりの深さが、この禁呪を扱う助けとなる。たとえば本人の過去であれば、どれだけ遡っても鮮明に。血縁を辿って先祖の経験も、赤の他人のそれよりはずっと鮮明なものとなる。
そして、術者と対象者に共通する過去の接点ならば、魔法によって得られる過去の精細さはさらに増すという。
「私の祖父と、君のご先祖が関わった時点であれば、相当の大昔でもたどり着けると思う」
「なるほど」
「それ以外の工夫もするしね」
禁呪に加える工夫ということで、興味と若干の不安を覚えるリズに、魔王は続けた。
「今で言うダンジョンは、もとは大魔法の補助に用いられる空間から始まってね」
魔族の手を以ってしても、難度が高い魔法は世にいくらでもあるという。今回挑む禁呪も、まさにそれである。
そうした大魔法の使用を邪魔されないように、失敗しても余波が外に出ないように、空間そのものを魔法行使の助けにできるように――魔族は自分のための空間を創ってきたという。
「ダンジョンの原型は、いわば自分専用の儀式の間だったんだ」
そして、今回の儀式の間には、すでに色々と準備を施しているとのこと。難度が高い禁呪を用いるにあたり、術者を助けて安定化させるための、補助的な魔法陣の用意などだ。
さすがの魔族二人でも、知って数日程度の禁呪を思うままに使えはしない。
そもそも、ダンジョンにこもりっぱなしであったがゆえに、そういった創造的な魔法は得手とするところだが、他は今ひとつだという。今回の禁呪は完全に覚えるのも難しい。
だが、得意のダンジョン操作術を禁呪の助けとすることで、使うだけなら現状でも何とか……というところらしい。
実際、自分たちを被験者として試したところ、結果は良好だったとか。
こうした準備があったこと自体、元からリズに先祖の件を伝えようという考えはあったのだろう。
禁書庫からの戦利品として提示したリストから、このための禁呪を……と、禁書にアタリをつけたようにも思われる。
そうした諸々に思い至り、彼女は深く頭を下げた。
一方、魔王は彼女の陳謝に対し、柔らかな感じで言葉を返した。
「私も、こういう禁呪には興味があったからね。それに、祖父からの言い伝えが本当かどうか、この目で見てみたいという思いもあった」
というわけで、彼とルーリリラにとっても、今回の試みは十分に意義のある行いらしい。
それでも恩を受けたという気持ちは拭えないが、微笑を浮かべる二人に合わせ、リズも少し表情を柔らかくした。
それから、魔王は禁呪の儀式を始めた。部屋のそこかしこから赤い光がきらめき、光が集って線となる。線は寄り合い、壁に刻まれる魔法陣へ。
側壁を覆う魔法陣からは下へと光が伝う。床へと流れ落ちた光の筋は、三人が佇む中央へ。集い来る光が円をなし、巨大な魔法陣を構築していく。
やがて足元に赤い魔法陣が出来上がると、リズは四方八方から押し込まれるような不思議な圧力を感じた。音のない衝撃で視界がかすかに揺らぐ。
目にするものは次第に暗い赤へ染まり、壁を走る魔力とともに今度は赤から青へ。
青が紫へと遷移すると、視界が少しずつ暗さを増していき、肌に感じる全方位からの圧力が視界にも反映される。目にするもの全てが歪み、空間状の一点へと押し込まれ――
空間が引き裂かれた。全てを吸い込んでいく空間の一点がまばゆい光を放ち、割れて砕けた空間の断片を照らし出す。
そうした断片には、よく見ると何かの記憶らしいおぼろげな光景が写っている。
だが、よく観察するだけの時間はない。一つ一つに別個の記憶が刻まれた小片たちは、すぐに遠くへと去っていく。遠目にはただのカラータイルにしか映らない。
それらのタイルは列をなし、虚空の闇に二重の螺旋を構成した。留まることのない螺旋の渦が、次第にその回転を速めていく。螺旋の中央、最奥にある一点の光は、さらにその光度を強め……
やがて、光は全てを飲み込んだ。
☆
白に染まった視界に、少しずつ事物の形が浮き上がってくる。
そこでリズは、禁呪がうまくいったのだという確信を得た。自分の姿はどこにもなく、それでいて身に覚えのない何かを体験しているという直感がある。
やはり、相当の過去へと飛んだということだろう。目にするものは全体として淡い色合い、輪郭もぼんやりしている。
それでも、どういった場所で何があるのか、識別するだけのことはできる。
周囲は草地、つい先ごろ何かしらの闘いがあったのだろう。地に刻まれた戦禍は、不確かな視界の中でもそれとわかる。丈の低い草の緑の中、そこかしこに亀裂と陥没があった。
そんな中で、人間と魔族が20人程度、静かに佇んでいる。中央の輪に数人、外側の残りといった並びだ。内側の面々が、この集まりの中心人物と思われる。
不思議な感覚だった。その場に自分の姿はなくとも、この場の一員としての知覚があるように感じられる。大気を感じ取る肌を持たずとも、やや肌寒いその場の空気を感じ取れる。
そして、場に溶け込む存在ながら、自分自身の思考があり――現実のその場に居なかったとしても、確かにこの場には居る。そうした奇妙な実感が、リズにはあった。
そのままでも、この場で見聞きできるようだが、体はなくとも多少の自由はあるらしい。
リズは試しに、自分を動かすイメージをしてみた。すると、思った通りに視点が動いていく。
感覚的には幽霊をさらに薄くしたものと、彼女は得心した。目と目が合っても無視されるのは……目に見えない亡霊になった感じよりは、むしろメイド時代の事を思い出させるが。
しばしの間、リズは姿なき亡霊となって、水彩画の世界を泳いだ。そんな彼女の内側に、語りかけてくる声が。
『そちらはどうかな?』
声は魔王のものである。その時になって、リズは興奮している自分に気づき、そこにない胸を落ち着けて応じた。
『周囲に20名ほど、人間と魔族が。おそらく、同じものをご覧になっているものと思われます』
『こちらも同様です』
割って入ったのはルーリリラ。大掛かりな禁呪ではあったが、おそらくは思惑通りに機能しているということだろう。
そこで魔王は、状況について説明を始めた。
『皆さん、じっとしていらっしゃるだろう?』
『はい』
『まずはこちらの方で、時を止めていてね……彼らの話を聞くのにちょうどいいポジションにつけたら、そう伝えてほしい』
なんとも気の利く魔王もいたものである。ルーリリラともども、例のダンジョンについてはホスピタリティを重視しているようで、これは二人の気質といったところか。
『お気遣いありがとうございます』
『いや、せっかくの禁呪だから……何度もやるのも、ありがたみに欠けるとは思うしね。この一回で、十分な体験としてほしい』
『承知いたしました』
『それと、彼らが話し始めたら、私たちは黙るよ。私たちが話し合うのはいつでもできることだし……私たちの余分な言葉抜きで、彼らの話に耳を傾けるべきだと思う』
彼の考えを、リズも正当だと認めた。
まずは、自分たちの言葉を交えることなく、この場で見聞きするものに心を開かなくては。
そこで彼女は、良いアングルを探し始めた。
もっとも、行くべきところは決まりきっている。場を囲む一行、二重の輪の中心である。
そこへ音もなくすり抜けていった彼女は、それぞれの顔を見渡し……時が止まった。
居て当然ではあるが、そこに彼女の先祖、大英雄ラヴェリアがいる。
本名はマティウス・エル・ラヴェリア。絵画や伝記にある通り、青年時代の彼は割と女顔である。
後世に伝わる絵画で目にしたように、この場の彼も独特の戦装束に身を包んでいる。魔法との親和性が高い法衣は、生地の遊びがないようにベルトと紐で適度に縛られ、四肢の小手とレガースには魔法の文様が刻み込まれている。
そして、左右の腰に下げた二本の長剣。戦うたびに一本は確実にダメにするという逸話の持ち主だ。
彼の勇姿は、王城のメイドであれば絵画という形で幾度となく目にかける。
事実、リズは数え切れないほど目にしてきた。彼の英雄譚を読み返すたび、数限りないほどに思い描いてきた。
そんな大英雄が、今ここに居る。不確かでおぼろげな視界の中でも、今まで見てきた偶像より、ずっとはっきりと鮮烈な存在感を以って。
「いい場所につけたら」という話ではあったが、リズが魔王に合図を送るまでは、いくらかの時間を要することとなった。




