第23話 追われる者として
ロディアンに戻ってからのリズは、中々忙しい日々を送った。
一番時間を費やしているのは農作業である。これは竜との約束もあって当然のことだ。
魔導書執筆業は、何の問題もなくすぐに完了した。一人で集中できる宿の自室ならば、彼女にとっては造作も無いことである。
他の余暇については、町人に対して魔法の訓練を行ったり、こどもとのチャンバラに付き合ってあげたり。
そうして、中々に充実した毎日を送るリズであったが、心温まる生活を満喫するだけというわけにはいかない。
彼女には、やらなければならないことがある。
町に世話になり始めて10日ほど経ったある日、農作業の合間を見つけて彼女は動き出した。場所の目星はつけており、足取りに迷いはない。
町を出たのは昼前というところ。周囲を見回しながら、彼女は駆けていく。
「馬を使っても」と町人は言ってくれたが、彼女は感謝しつつも「馬術に自信がないから」と、自分の足で行くことを選んだ。
ある程度町から離れ、周囲に人の気配がないことを認めると、彼女は走るスピードを上げた。
町から離れたところにある森へ突っ込むと、今度は一飛びで樹冠の上まで身を躍らせ、《空中歩行》で森の上を駆け抜けていく。
向かう先は森の中の狩猟小屋に、炭焼き小屋等々だ。人が常駐しない、特定の目的のための仮宿のような建物である。
そういった建物の一つに近づくと、リズは息を潜めて降り立ち、周囲の気配を探った。
何も居ないことを確かめた彼女は、建物の中に入り込み、物陰に隠れるようにして魔法陣を刻んでいく。
展開した魔法陣は、《遠覚》と呼ばれるものだ。仕込んでおけば、その周囲に魔力のある何かが接近した時、それを術者に伝える働きがある。
不要になれば遠隔で消すことができ、検出の範囲と閾値は調整可能。展開する数量等も合わせ、実力と応相談となる。
魔法陣を書き終わった彼女は、地図を取り出し、魔力のペンで印をつけた。
同様の印が、すでに十数箇所ある。
目を閉じ意識を集中させると、各所に展開した魔法陣の力で、彼女の感覚が広く引き伸ばされていく。
それでいて、ここにいる自分自身の感覚が損なわれることもない。
こうした感覚の持ちようは人それぞれで、外に仕掛けた魔法にばかり気が向く者もいれば、自分の身から感覚が中々離れられない者もいる。
理想的な、いいとこ取りの両立には、相当な修練とセンスが必要である。
展開した魔法陣は、ここのような無人の小屋がいくつか。後は主要街道の交差点や橋など、通行が多くなりやすい箇所付近の草むら――それも、ラヴェリア方面を重点的に。
母国からの逃亡戦において、リズは基本的に迎え撃つ側になるが、相手の動向を知らないことには、迎え撃つにも不都合がある。
しかし、相手の動きを知るのに、新聞の情報だけでは心もとない。行動を起こすなら国としてのものではなく、秘密裏に何者かを遣わせることだろう。
となると、紙面を賑わせる動きになる可能性は低いように思われる。リズとしては、新聞紙は情報の足しに……といったところだ。
また、《遠覚》の魔法陣は遠くの動きを察知する一方で、相手にそれを感知されれば、魔法陣をしかけた事自体がメッセージにもなりえる。
受け取り方は相手次第だが、「ここを見張っている」ということだけは確実に伝わるということだ。
おおむねロディアンに落ち着き、たまに別の町へ行こうという方針のリズとしては、この魔方陣の警戒網が、相手へのブラフになってくれればとも考えた。
つまり、付近一帯の町ばかりでなく、他の場所にも潜伏している可能性を相手に匂わせ、少しでも思考の枷にできれば……と。
(ま、気休めにしかならないかもしれないけど……)
対策を練って待つ側としては、今のうちにできることはしておかなければならない。
依然として、自分を追う立場の異母兄弟がどういう考えでいるのか、追跡する手立てがあるのかは不明だ。
しかし、確実にわかっている事が2つある。
なんであれ、連中にとってリズの命には価値があるということ。
そして……万一、あの町の人間が巻き込まれでもしたら――
不意に、目を閉じたまま精神を研ぎ澄ませるリズの耳に、少し騒がしい羽ばたきの音が聞こえた。梢で枝葉がかき鳴らされる音も。
そんな急な音に心をかき乱されることもなく、落ち着きを保つ彼女は、小屋の外に出てみた。
どうやら、小屋の周りにたむろしていた小鳥たちが、何かに怯えて逃げていくところのようだ。
ただ、周囲にさっと目を向けて気配を探っても、それらしい脅威はない。魔法陣の網にかかった様子もない。何も、小鳥たちを脅かすようなものは……
いや、ここに一人いる。
先程、暗いイメージを想起した時、リズの心の内から何かが漏れ出てしまったのかもしれない。察知した小鳥が逃げ出す程度の何かが。
梢の緑に隠れるようにして飛んでいく鳥たちの姿を、彼女は目で追った。細切れな青い空へと飛んでいく鳥たちは、ほどなくして見えなくなっていく。
残された森は、ただただ静かなものだ。森の清涼な空気を深く吸い込み、心を落ち着けた彼女は、もう一度目を閉じてみた。
何も問題はなかった。静かな湖面のような意識の中、広げた魔力の知覚をつぶさに感じ取れる。
自分の集中力が損なわれていないことを再確認した彼女は、困ったような笑みを浮かべ、長く細いため息をついた。
☆
その日の夕食の席にて。
「リズさんって、夜ヒマじゃないですか?」と、宿の利用客が何の気無しに尋ねてきた。
問いかけの意図がわからず、リズは曖昧な感じの微笑を浮かべている。
「ヒマというほどでもありませんが、どうして?」
「いや、都会の方って寝るの遅いって聞きますし……」
すると、卓を囲む一同の目が、フィーネの方に傾いた。彼女がいいとこの育ちというのは、町人には広く知れたことである。
少しあらぬ方向を見て考え事を始めた彼女は、やがて口を開いた。
「都会の方が、遅くまでやっている店が多いですから。それにつられてっていうのはありますね。後、農業やってるところは、人よりも自然や動物のスケジュールで動きますから」
「あー、なるほどね。単に、ウチらが早寝早起きってだけか~」
合点がいったようにうなずく若年層の町人たち。
実際、生活リズムの違いというものは確かにある。農業を切り上げてからの余暇を、魔導書作製のバイトに宛てているのは、時間の有効利用という面も。
そして、リズにとって、夜が暇などというのはとんでもない話だ。皆が寝静まる頃になっても、彼女にはまだやることがある。
夕食後、自室に戻った彼女は、魔導書作製に取り掛かった。
これで受注は2回目、その際の応対は初回とは違う受付係だったが、話は大変早かった。
どうも、例の受付の女性に覚えられた上、職場の事務方内で情報共有されたという話だ。ロディアンに逗留中のリズ嬢は、かなり精密な記述力の持ち主であると。
(この程度なら、顔と名を覚えられても構わないかしら……)
あまり情報を残したくないリズだが、あまり秘密主義が過ぎれば、行動の自由を大きく損なう自縄自縛に陥りかねない。
幸い、魔法組合から外部へと、利用者の個人情報が漏れるということはめったに無い。それこそ、司法行政上の、やむを得ない事由によって協力を求められた時ぐらいだ。
そのため、他国であるラヴェリアの手先が魔法組合を情報源にする可能性は、極めて低い。
リズは静かな部屋の中、ペンを進めていった。心を騒がせるような、何とも言えない微妙な懸念はあっても、指先は精密正確に動く。
ふと、彼女はペンを置いて目を閉じてみた。各所に仕込んだ《遠覚》の捜査網は、正常に機能している。それを感じ取ることもできている。
今の所、注目すべきことは起きていない。
しかし、そんな静けさが一層、何か良からぬ不安を掻き立てる。
(ナーバスになりすぎているだけかしら……)
天井を向いてため息をつく彼女の目に、薄い雲がかかる月が映った。
それから彼女は、モヤモヤを追い出すように伸びをして、彼女は机の上のカップに手を伸ばした。宿で入れてもらったハーブティーだ。
顔に近づけてみると、ふんわりと心安らぐ香りが漂ってくる。寝る前に一服すれば、ぐっすり寝られるというもので、疲労回復効果も期待できるという。
ハーブに頼らずとも安眠できる彼女だが、気がかりなことがある夜には、こういった助けが少し頼もしい。飲みかけだった茶を飲み干し、彼女は仕事に向き直った。
程なくして一冊仕上げたリズは、軽く柔軟を済ませた後に柔らかなベッドへと身を預けた。意識がすぐに闇の中に落ち、真っ暗な中をひたすらに沈んでいって……
彼女の夜は、ここからが本番である。




