第226話 お礼参りの旅inラヴェリア
今後の対応を巡り、国王を除くラヴェリア指導層最高部が数時間にわたる議論を繰り広げる、まさにその日の夜。
リズは王都の近くの森に転移した。
葉を失った枝に白い雪がのしかかり、木々の賑わいも痩せ衰えて、モノクロの世界は寂寥感を漂わせている。
森に訪れる生き物も、今となってはほとんどいないのだろう。ひっそりとした静けさは、もしもの出会いを避けたいリズとしては、望ましい限りであった。
彼女は辺りを見回し、魔法の力も用いて警戒しつつ、森の外へと歩を進めていく。
何事もなく森を抜けた彼女は、周囲を今一度警戒した後、一度森の中へと引き返した。
外縁を構成する木立の一つに身を隠し、今度は《超蔵》を展開。おもむろ上着を脱ぎ始め――
彼女は全身真っ黒、ウェットスーツを思わせる格好になった。船上生活を送っていた頃、文字通り自分の手で大魚を捕らえる際に用いた装いだ。
水中の寒気に耐えるような素材ではあるが、寒いものは寒い。身を縮めつつ、彼女は脱いだ服を虚空にしまっていく。他にもいくつか服を収納してあり、もはや衣装用の魔法である。
服装を整えた後、彼女は魔法陣を刻んだ。
この魔法陣は、転移における出口用のものだ。長距離転移では移動先のイメージを始めてから十数分ほどかかるが、事前に移動先を用意しておけば、かなり短縮できる。
もっとも、転移そのものが超高等魔法ということもあり、この魔法陣も決して扱いやすい代物ではない。魔法陣そのものが異空間に溶け込もうとするのか、不安定で揮発性のような性質がある。
そのため、用意してから数日ほどで、勝手に消えてなくなってしまう。
よって、これはあくまで非常用の出口である。次に移動した場所で、万が一の事態が生じれば、まずはここに逃げ込もうというのだ。
もちろん、そうならないのが好ましいが……落ち着かない気持ちを、彼女は息とともに吐き出していく。小雪舞い降りる中、月明かりが白い息を照らし出す。
やがて精神を研ぎ澄ませた彼女は、移動先を思い描いた。候補はいくつかあるが、リスクが少なそうなところ、イメージしやすいところから。
うまくいくことを願い、心騒がせる興奮と不安を押さえつけながら、彼女は想像した。
――全てを睥睨するような、あの白亜の城を。
城の遠景、とりまく建物、王都の街並み……少しずつイメージの輪郭が出来上がっていく。
そして、思い描いた光景を見つめている、その視点も。
繋がりかけた向こう側に、想定通り他の気配がないことを感じ取った彼女は、意を決して空間を跳躍した。
やってきた先は、王都に鎮座する人口湖である。
さすがに、夜分ともなると利用客はほとんどいない。真冬ということもある。この湖を遊興に用いるような層は、湖の縁の方でムードを愉しむ程度の利用に留まっている。
そうした中、湖ど真ん中に全身黒ずくめで佇むリズには、まず気づくこともないだろう。念のためにと、水中へ潜って身を隠すプランもあるのだが……
(さすがに、これで泳ぐのはね……)
本当にそうならないことを祈りつつ、彼女は周囲を見渡して、より人の気配が少ない方へと歩を進めていく。
幸いにして、王都の街並みには人影がかなり少ない。好都合だが、実は想定済みのことでもある。冬の夜だからというのもあるが、それとは別に文化的要素も。
長きにわたる魔族との戦いを、600年ほど前に大英雄ラヴェリアが終結させ、後の世を切り開いた。そうした冬の時代と、それに続く人の世の春の切り替わりを、今の世は年末年始に重ね合わせている。
まず年末、冷え込みが一番厳しい時期は、魔族におびえるように閉じこもる。そうした中、ラヴェリアの血を引く現王が儀式を執り行い、正式に年明けを迎える……
英雄信仰が根深い、このラヴェリア聖王国においては、こうした毎年の行事も神聖視されている。
そのため、大列強の王都という世界有数の大都市ながら、年末の夜はかなり閑散としたものとなるのだ。出歩いても変に思われはしないが、他に出歩く者は少なく、単に寒々しいだけである。
もちろん、王都を守る門は、昼夜の別なく堅固に守られているのだが……
一度入り込んでしまえば、しめたものである。
人通りが少ない方へ向かい、水上から脱したリズは、手近な建物の屋上へと身を躍らせた。
さすがに、この装いのままで歩き回るわけにもいかない。再び《超蔵》を用い、彼女は着替えを取り出した。
今の装いは夜に紛れる黒尽くめのものだが、次に重ねて着る服もまた、全身的にかなり黒い。スラックスとジャケットは少しタイトな作りで、白いブラウスも、ジャケットの前を閉めれば黒の内にこもってしまう。
そうした、やや堅苦しくも品のある装いに、ちょっとしたブローチとマフラーを加え、リズは屋上から躍り出た。
今度は目立たない格好である。人の目をあまり気にすることもなく、彼女は街を歩いていく。
たまにすれ違う者も、今の彼女には違和感を覚えないようだ。出くわす者とは、互いに無言で会釈する程度に留まる。
そうして向かった先は、大通りから少し離れたあたりの宿だ。さほど客単価が高い宿ではない様子。王都らしく整った店構えながら、内側はあまり気取ったところがない。
さっそくリズが受付に向かうと、係の若い女性が朗らかな表情で話しかけてきた。
「こんばんは。お一人様でよろしいでしょうか?」
「はい。できれば、上の方の部屋が」
「ちょうど最上階が空いてますよ」
これは計算通りである。外から見た時、最上階の明かりが少なかったからだ。
それから、受付の女性は料金表をスッと差し出した。比較的庶民向けの宿と思われるが、さすがに大国の王都ともなると、それなりに値は張る。
もちろん、リズのこれまでの稼ぎを思えば、何ということのない支出ではある。しかし……
(今更になって、この街の物価を知るっていうのもね……)
さほど思い入れこそないものの、生まれ育った地には違いない。自分の境遇と、施された教育というものがどれほど特殊か、再認識して思わずため息が出そうになる。
それでも柔和な表情を取り繕い、リズは数日分の宿泊費を取り出した。
「屋上の角部屋が空いていれば、そちらに」
「かしこまりました。お名前をお伺いしてもよろしいでしょうか」
「ニコレッタ・ローレンです」
シレッと友人の名前を偽名に用いた。本人からは了承済みである。名前の提供者はともかく、罪もない民間人を騙すようで気が引ける部分はあるが……
実害を与えるつもりはないからと、リズは割り切ることにした。
「ニコレッタ、ローレン様ですね」と、受付の女性は宿泊者名簿に記していく。
その後、彼女は部屋の鍵を手渡してきた。
「ごゆっくりどうぞ」
「ありがとう」
フレンドリーそうな宿ではあるが、雑談は起きなかった。おそらくは客に合わせるタイプなのではないか。
何であれ、深入りされたくないリズとしては好都合だった。特に誰ともすれ違うことなく、階段を上に進んで最上階へ。
そう突出して高い建物というわけではないが、それでも周囲の商店よりは背が高い。
部屋に入るなり、まずは窓の方へと向かったリズは、林立する建物を収めたその光景に、少しの間目を奪われた。雪が覆う街並みには月明かりと街の灯りが差し、白と黒の豊かな陰影が窓枠の間いっぱいに描かれている。
この光景を目にし、リズはふと思った。
自分が生まれたあの城はともかくとして、この街には悪感情を抱いていない、と。
それはそれで、きっと良いことだろう。
少なくとも、次に動き出すまでの待機時間、それなりに心安らかに過ごせそうである。ささやかに月明かり差し込む部屋の中、窓際のべッドに寝そべった彼女は、手荷物から適当な本を取り出した。
自前の明かりを近くに灯し、しばしの間、彼女は静かに読書を楽しんだ。
やがて、街から明かりが次第に消え始め、冬の夜がより一層静まり返ったその頃。
彼女は立ち上がった。
窓を開けて街の様子をうかがい、明かりが少ないラインを繋ぎ合わせ、目標への道筋を定めていく。
ルート策定を終えると、彼女は帰還用に転移の出口を記し、窓から躍り出た。
《空中歩行》を巧みに使い、可能な限り音を立てないように、夜陰に紛れて夜の街を疾走していく。
目指す先は、彼女もよく知る建造物。
ラヴェリア聖王国大図書館である。




