第220話 お礼参りの旅inマルシエル
大列強マルシエルの中枢、大講堂の一室にて。
関係者以外の立ち入りが固く禁じられ、直接繋がる通路の端から端に、見張りが立つほどの厳戒態勢が敷かれている。警備の中央にあるその一室では……
マルシエルの首長その人が目を輝かせていた。
彼女の他には、少し広めに部屋にリズしかいない。二人きりの中、議長は興奮した様子で「もう一度見せてくださりませんか?」と尋ねた。
ずっと年上の、しかも重責ある人物が童心に帰ったかのようである。
頼まれるリズとしても、自分の技でこのように興奮されていることは、かなり誇らしくある。心くすぐられる高揚感を胸に、彼女は「もちろんです」とうなずき、リクエストに応えることにした。
足元に魔法陣を展開し、半目になって部屋の一点に精神を集中させていく。目印になっているのは、絨毯の特徴的な模様。意識を注ぐ一点が、視界の中でより鮮明に、他の一切合切はぼやけて輪郭を失っていく。
次第に、その場に立っているという体の感覚も、集中力の外側であいまいになり――
視野が完全に溶解したかと思えば、次の瞬間、混ざり合った視界が逆再生で急速に再構築されていく。
しかし、それまでの視野とはまた少し違う光景が広がっており……耳に届くのは惜しみない拍手であった。
「まさか、独力での転移が可能とは……」
感嘆を隠そうともしない、この大列強の長を前に、リズは姿勢を正してから嬉しそうに頭を下げた。
ファルマーズを捕虜とした約20日の間、リズが打ち込んでいたものの一つが、この転移術の習得である。
まずは虚空の中で転移を可能にし、実現できたら今度は孤島の中で。それもうまくいけば、今度は島と船の間を行き来できるように――
そうして段階的にステップアップし、ついには人間離れした術を手にするに至ったのだ。
指導者の魔王によれば、もとからそれを可能にするだけの素養はあったという。
リズが嗜んでいる時間・空間系の禁呪は、転移系とかなり関連性の深いものである。
加えて、転移によって空間に穴をこじ開ける感覚は、《超蔵》である程度経験済みだったのだ。
もちろん、王族としての生まれが、この人外じみた魔法の手助けになっている面もある。
ただし、いかにリズと言えども、《門》を使わない自力転移ほどの禁呪となると、使用にはかなりの制約がある。
「視界内の移動であっても、今のようにいくらか時間を要します。正直な話、横着せずに歩くべきですね」
冗談めかして言うリズに、議長は朗らかに笑った。
「ですが、お話を伺う限りでは、もっと遠くに行くこともできると」
「はい。今までに行ったことがあり、確かにイメージできる場所であれば……時間はかかりますが、現地と繋ぐことはできます」
そうした転移の場合、イメージを確立して空間の接続を安定させるまで、距離に関係なく十数分程度の時間がかかる。
また、今の実力では、あの魔族たちのように他人を連れて飛ぶことはできない。転移一回でそれなりに消耗もする。
常設の《門》が、少なくとも技術的には誰にでも使えることを踏まえれば、自力転移は相当高くつくと言えるが……
「驚異的な魔法、ですね」
真剣な表情になった議長に、リズもまた緊張感のある顔でうなずいた。
人間社会で《門》の存在が許されているのは、出入り口がわかりきっているからだ。そのため、《門》の出入り二人を配し、効率よく監視することができる。
だが、《門》に頼らない転移ともなると話は別だ。
――極論してしまえば、リズに悪意がある場合、この議長を暗殺することなどたやすい。
今回、リズがこうして報告に来たのも、そういった点を踏まえてのことである。
「ご報告もないままに運用すれば、あまりに信義を欠くと思い、こうして一席設けさせていただくことになりました」
「ご配慮ありがとうございます。確かに、ご説明いただかないままでは、もしもの時に混乱してしまうでしょう」
「もちろん、この力は決して悪用しないよう、心に決めておりますが……」
「そのあたりは信じておりますわ」
さらりと返ってきた信用の念に、少し呆気にとられながらも、リズは強い安堵を覚えた。
しかし、理解を示してくれるこの大人物に対し、次第に後ろめたい思いが募ってくる。それが表に滲み出てしまったようで、議長が尋ねてきた。
「どうなされましたか?」
「いえ……最近は色々あったもので、隠し事をするのが後ろめたく」
とは言ったものの、議長は興味を惹かれたような素振りを見せず、穏やかな微笑を浮かべたままだ。促すことも追及することもない。
ただ待つばかりの彼女を前に、リズは気後れの理由を口にしていった。
まず、転移術習得が事後報告になったこと。
追われる身への理解と同情があれば、今回の習得も大目に見てもらえるのでは……という目算こそあったが、一方で国際社会に対する潜在的脅威と見られても仕方ないという認識もあった。
それでも、事前の相談なしに習得に踏み切ったのは、まずは確実に自分の力とするため。
もっと言えば自分の都合である。
第二に、転移術習得は逃亡生活のかなり初期から考えていたことであった。
マルシエルとの関係を結べたのは単に幸運たったが、協力関係構築後、同国からの要望に応えて活動したのは、転移術のお目こぼしに繋がれば……という打算がそれなりにあった。
転移術習得に関し、その方法もいくつか考えていた。本命は、ダンジョンの最奥にいるという魔王に教えてもらうということであり、実際にそのようになった。
しかし、別の案としては、何らかの国や行政機関と協力関係を結び、どうにか禁書庫へのアクセスや禁呪習得を容認してもらおうという構想も。
マルシエルとの関係構築について、他にも理由は色々とあったが、禁呪習得という面での思惑も相応にあったのだ。
そういった諸々の、含むところを打ち明けていったリズだが、議長は少し戸惑った。
「こういうお話をされますと、こちらからも何か、隠し事を申し上げなければ……という気持ちになりますわね」
「いえ、そのようなつもりでは……」
「わかっておりますわ」
にこやかに答えた議長は、一度視線を外して天井を見やった後、話し出した。
「殿下ご自身の生き残りがかかった事項ですから、多少の隠し事も、お気に病まれる必要などないのでは?」
「そう言っていただけるとありがたいのですが……」
「殿下との関係を続けることが我が国として国益に適うという前提があればこそ、こうしてご協力させていただいています。生き延びていただく努力に、否の唱えようもありません」
それから、議長は優しく微笑んだ。
「一個人としても、殿下とはまだまだ末永くお付き合いさせていただきたいと思ってますわ。立志伝中の人物が目の前にいるようで、密かに憧れの念もありますもの」
「……お上手なんですから」
「お仕事柄ですかしら?」
笑ってすっとぼけて見せる議長だが、向けてくれる親愛の念に疑う余地はなかった。
実際、憧憬の念を向けられているのは、転移のデモンストレーションの時から明らかである。
今日の会談に礼を告げ、これからさっそく遠地へ飛ぼうという流れになったところ、議長の目が再び好奇で輝いた。
これほどの人物に熱視線を向けられることに、どこかむず痒いものを覚えつつ、移動先をイメージしようと努力するリズ。
「見られると、その……緊張しますね」
「お邪魔ですかしら?」
「いえ、お邪魔したのは私の方ですから」
「意外と余裕そうですわね」
と、軽口を交わし合ううちに、浮足立った気持ちも落ち着いてくる。
立場も年も大きく違うが、それでも心地よい繋がりを感じられる。見つめられているのではなく、見守られていると思うと、気持ちがより一層安らいだ。
集中した意識は一点に深く沈みこみ、移動先の光景が鮮明なイメージへ。
いよいよ、向こうと繋がる感覚を得たリズは、お別れにと口を開いた。
「では、これで失礼します」
「次はもっと気楽においでくださいね」
(……まったく)
互いの立場を思えば、とてもそうはいかないだろうに――
その“おいでになる”方途に転移を指しているようでもあり……気安い冗談に微笑みを返し、リズはその場から姿を消した。
その場には光の粒子がかすかな人型を成したが、それもすぐさま消えてなくなっていく。




