第18話 竜との謁見②
寛大な竜の言葉に再び頭を下げた二人は、周囲の地面を探し始めた。
赤褐色の地面には、よくよく見てみれば、そこかしこに淡い光を放つ何かが散在している。
竜本体と周囲の雰囲気に圧倒されて、二人はこれまで気づかなかったが、かつて竜の一部であったものが、無造作に転がっているのだ。目が飛び出るような末端価格の、薬師界垂涎の高級素材が。
その中から、フィーネは爪のかけららしきものを拾い上げた。
いかに竜の爪といえど、生きた組織でなければ、一般的な道具でも削ることはできる。
これを処方しようと定めたフィーネは、再び竜に向き直って頭を下げた後、「リズさん」と呼びかけた。
リズはうなずき、「お願いします」と返した。表情から、緊張に取って代わって安堵がにじんできている。
フィーネはまず、荷物入れから愛用の道具を取り出した。折りたたみ式の三脚を展開し、下には小さな鉄の皿。上には耐火性の強い陶器の小鉢。その小鉢の中に、彼女は水筒から水をいくらか注ぎ入れた。
次いで彼女は、薬湯のベースとしても用いられる、枯れ草に油分を含ませたキューブを皿に置いた。小さな棒状の魔道具から火花を放ち、小さなキューブを燃料に火をおこしていく。
湯沸かしが始まったところで、彼女はメインである爪の加工に取り掛かった。文献のメモを片手に、小刀で必要分だけこそぎ取り、ヤスリのようなおろし金で粉にしていく。
乳鉢に粉末がたまり始めると、そこが淡い光源となって、幻想的な光の霞が現れた。
竜の爪に、清浄の気が宿っている証拠である。
初めて見る強力な素材を前に、フィーネは生唾を飲んだ。尊敬する父でさえ、これほどの素材を扱ったことはないかもしれない。
しかし、もしかすると自身の栄達を可能にするかもしれない、この希少素材を手にしても、彼女の内に邪な気が起こることはなかった。
彼女はただ、自身の患者と、寛容な素材提供者に誠実であり続けた。
粉末を小指で舐め取り、味を確認するフィーネ。見た目は神々しくもあるが、無味無臭である。舐め取った程度では、体に変化が訪れる様子もない。
彼女が手際よく作業を進めていく中、リズと竜は静かに見つめていた。
不意に竜が、こぼすようにつぶやく。
「日がな寝るか、空を見つめるばかりの毎日……あまりに退屈でのう。来客は歓迎しておる」
「左様でしたか」
「とはいえ、長居する奴はおらんが。用を済ませたら、皆そそくさと帰っていきよる」
リズとフィーネも、そのクチである。言葉に加えて、ジロリと見つめる竜の視線。
チクリと刺されたようないたたまれなさに、彼女らは微妙に背筋を震わせ、申し訳無さそうな顔を作った。
一方……彼女らの反応に対し、半目で気だるそうな竜は、楽しく笑うような唸り声を上げた。
程なくして湯が湧き、フィーネは最終段階に取り掛かっていく。コップには爪の粉末を入れ、爪がついた固定具で小鉢を掴み、沸かした湯を注ぎこむ。
匙で混ぜ合わせた後、水を足して程よい温度に。「できました」と言って、彼女はリズにコップを手渡した。
ただ、口をつける前にやるべきことがある。リズに向け、フィーネは《呪毒相写法》を展開した。
リズの中には、依然として忌まわしい病魔がはびこっている。
しかし、この薬湯さえあれば――息を呑んで見守るフィーネの前で、リズはほのかに光を放つ薬湯を、のどへ静かに流し込んでいく。
普通の薬と違い、魔力的な霊薬であれば、効果の発現は早い。
――はずなのだが、目に見える変化は現れない。
無礼を承知で、フィーネが縋り付くような目を竜に向けると、爪の提供者もそれまでより目を大きく見開いている。
人とはまるで違う顔だが、「そんなはずは」と言いたげな感情が伝わる相貌だ。
なんとも気まずい、沈んだ空気の沈黙が流れて数秒。リズはハッとしたような表情になった。
と同時に、病魔を映し出す魔法の皿にも変化が訪れた。得体のしれない呪いの小胞たちが、スッと輪郭を失って消えていく。
彼女の体はほのかな光の粒子に覆われており、彼女の中で何が起きているのか、フィーネに直感させた。
やがて光が落ち着くと、皿に映し出された病魔は跡形もなく消えていた。
竜は満足そうな顔をしており、もはや疑う余地はない。
フィーネは、リズよりも早く竜に向き直り、ひざまずいて深く頭を下げた。
彼女にほんの少し遅れ、元患者も膝をつく音が聞こえる。
「ありがたきお力の一片を賜り、不浄の気が祓われたようです」
「そのようだのう。少しばかり、効きが悪いようにも思ったが……」
「いささか、厄介な者に狙われておりまして……」
さて、解呪に関しては落着となったが、その対価の提示がまだである。フィーネは緊張に見を固くした。
竜の爪といえば相当な高級素材である。人間の値付けなどに心動かされる竜でもないだろうが……
予想に反して鷹揚で、どこかノンビリしたようにも見える竜は、フィーネには考えが全く読めない存在だ。
やがて、竜は言った。
「では、その手で育てた野菜でも、献じてもらうとするかのう……」
「……かしこまりました」
呆気にとられるフィーネ。リズは粛々と受け入れている。
そうした様子に、逆に竜の方が戸惑いを覚えたようだ。
「『そんなもので』などとは言わんのか?」
「農耕を営む町の世話になっておりますので……率直に申し上げれば、さらに得難い物をご所望かとは考えておりましたが」
「なあに……枯れたこの身には、星空と偶の客人があれば、それが得難き宝よ」
そう言って竜は楽しそうに笑った。
対価として提示された野菜が、リズにとって重い請求かどうか。これには様々な要素が絡み合うところではあるが、払おうと思えば払える対価ではある。
こうして事なきを得た二人は、立ち上がって深く頭を下げ、リズの口から暇が告げられる。
「用だけ済ませて帰るご無礼、どうかお許しいただければ」
「忙しないのう……まぁ良い。今度は野菜を抱えて来るのだぞ」
「……はい、必ず」
リズの返答に、竜は軽く鼻を鳴らした。
別れの挨拶を済ませ、二人は竜に背を向けて山道に向かって歩き始めた。
しかし、ほとんど日が沈み、あたりはかなり暗くなっている。明かりをつけながら慎重に動けば……といったところだが、フィーネは本能的な恐怖に身を揺らした。
一方、傍らに立つリズは、平然としている。暗闇の中に沈んでいく下り道に、何ら怖じる様子はない。
先程まで病人だったはずだが、血色はよく、健康そのものだ。
この立ち直りように、フィーネはあの薬湯の効能を思った。
あるいは、これがリズの本来の姿なのかも……と。
「お元気になってよかったです」と、表情を柔らかくしてフィーネが言うと、リズは頭を下げて「ありがとうございます」と返した。
「二回も救われてしまいました」
「二回?」
「川で溺れていた分です」
「あの時は、正直、大したことはなにもしてなくて……」
過分な感謝を寄せられるようで、フィーネはむずがゆさに身を小さく震わせた。
そして、足元の下り道が視界に入り、さらに体が揺れるフィーネ。そんな彼女に、リズは微笑みかけた。
「あなたに何かあったら、困りますね」
「自分は絶対大丈夫みたいなノリですね……」
「ええ、まぁ」
特に気負いもなくサラリと言ってのけるリズ。
そんな頼もしい彼女は、フィーネに一つ、提案を持ちかけた。
「おぶりますよ」
「えっ?」
「その方が速くて確実ですので。馬のところまで戻って、近場の馬宿へ行きましょう」
実際、この山の最寄りの馬宿に寄った際、そこで夜を明かせればという話はしていた。降りるペース次第では、夜が深まる前に間に合いはするだろうが……
今のリズは、目に見えて活力に満ちている。
一方、病み上がりの元患者に、医者がおんぶしてもらうというのもどうなのか。職業倫理が強い抵抗感となる。
そこでリズは、しぶるフィーネを試しにおぶってみた。
彼女の足腰の動きは、柔らかくて滑らかだ。それでいて、どっしりとした安定感もあり、フィーネを背負っても何ら負担になっている気配はない。
思いがけず、身を預けられる安心感を覚えてしまったフィーネは、任せてしまった方が安全なのではと思い始めた。そして……
「……お願いします」
「ええ、喜んで!」
腰を紐で括りつけ、二人の足には《空中歩行》を展開。万一への備えを進めていく。
一通りの準備が済むと、リズは竜に改めて挨拶を述べた。
「大変、お騒がせいたしました」
「暗くなってから、相方をおぶって降りる娘とは……長生きしてみるものだのう」
心底珍しそうなものを見る目と口で、竜は応えた。
それから、リズは下り道に足を向けた。正確に言えば、彼女だけの下り道へ。
「リ、リズさん。そちらには道が……」
「山道そのままでは長引きますし……私を信じてください」
リズはそういうと、後ろに軽く振り向いて、「さっきまで病人でしたけどね」と苦笑いで言った。
そして、リズは一歩を踏み出した。道なき道の透明な階段を、確かな足取りで下っていく。
一応、《霊光》で辺りを照らしてはいるのだが、深い闇への恐怖をかき消すほどの光ではない。
しかし、そんな恐怖も、次第に和らいでいくのをフィーネは自覚した。
二人分の命を運ぶリズは、足取りに何一つ迷いを感じさせない。本当に、そこに階段があるかのように、泰然と歩を進めていく。
(そういえば……《空中歩行》の極意って、『我行くところに道アリ』だっけ?)
竜の前では慎み畏まっていたリズが、さっきまでは病人だった彼女が、今では道なき道を我が物顔で闊歩している。
それが、フィーネにはなんとも頼もしく感じられた。




