第174話 王女姉妹ふたり②
9月24日。ネファーレアとアスタレーナの二人は、ラヴェリア王城ラナリアへの帰還を果たした。
もっとも、これからがまた別の戦いの始まりと言えなくもない。継承競争の結果がどうあれ、後宮で務めるネファーレアが、ご報告に向かわないというわけにはいかないのだ。
そのご報告に同席するため、アスタレーナは妹に同行することに。
後宮への立ち入りは厳しく管理されており、王妃の実子であっても、よほどの事情がない限りは中に入ることができない。例外は、ここで務めるネファーレアのみだ。
しかし、今回はそのよほどの事情というものがある。
姉を入口よりも中へと進めるため、ネファーレアはまず配下たちへと事情を伝えに向かった。継承競争の事をよく知る者たちである。
彼女が一同の前に姿を現すと、場は安堵の空気に包まれた。
しかし、そうした雰囲気に、すぐに不安と緊張が入り混じっていく。その理由は、ネファーレアには言われるまでもないことだった。
黙して固唾を呑むばかりの配下に、彼女は今回の顛末について大筋を語っていく。
さすがに、自身がリッチになりかけたたことは伏せておいたが……エリザベータとの戦闘で、双方が抜き差しならない状況にまで達したところ、アスタレーナが調停のために介入した、と。
これは、紛れ込んだ本人が提案した言い訳である。ネファーレアの下に就く者にとっては、受け入れにくい部分も多分にある話だ。
そもそも、互いに邪魔しないようにと、継承権者に釘を刺されたところなのだ。ネファーレア自身もただでは済まない死闘にまで進展したとはいえ……これを正当な救助と取るか、恩着せがましい干渉と取るか。
主君の無事を喜びつつも、配下たちの内心は定まらぬ様子である。
そんな中、筆頭格である年配の女官は落ち着いたものだ。彼女は穏やかな口調で言った。
「本件の関与について、アスタレーナ殿下もクラウディア妃殿下へのご説明に向かわれるというのですね?」
「はい。異例の事態ですので、容認されるかどうか」
上下関係にうるさいネファーレアも、配下であるこの女官には一目置いている。
というより――幼少の頃からの面倒見という点では、実母を軽く上回る恩人だ。
この頼れる人物は、神妙な表情のまま言葉を返した。
「アスタレーナ殿下の人品を疑う、などという考えはございません。ですが、事情が事情だけに、競争上の理由から何かしら含むところがないものとも限りません。ご報告内容につきまして、後ほど共有していただきたく存じます」
「では……」
「ご同席に関し、差し支えないものと考えます」
他の官吏たちも、この提案には異を唱えない。
アスタレーナの考えがどうあれ、ご報告でその一端に触れることができるのなら、同席の許可はむしろ妥当と言える。
問題は、二人の決戦に割って入り、決着を妨げた当人が、あの王妃の前に出るということだが……
後宮の守り人たちからの承認を受け、ネファーレアは後宮入口へ向かった。
「許可が下りました」
「そう。良かった……と言っていいのかしら」
先行きを思ったのか、アスタレーナは渋面でぽつりとつぶやいた。
☆
ついにその時がやってきた。
強度の緊張で強張ったネファーレアが、実母に事のあらましを告げていく。主観を排し、客観的な事実だけを赤裸々に。
実子が口を開いたその時から、王妃クラウディアは暗い表情で静かに佇んでいた。
娘が“逃げ帰ってきた”ということだけは、最初から把握していたのだろう。なにしろ、勝利者の歓喜には程遠い様子だったのだから。
だが……
「……エリザベータが剣を構え、そこに私が攻め込もうと走った時、お姉様が」
「お姉様が、何?」
冷たい声で先を促す母に、ネファーレアは体を震わせた。
戦う当人にとっては、命がけの場だった。それは王妃も重々理解しているはず。そうした死地から、愛娘が無事に帰ってきた。
だが、そうした一切合切は、彼女の思考の外側にあるらしい。
この酷薄な王妃と、彼女を前にして恐れ怖じる妹を前に、アスタレーナは唇を引き結んだ。
実母を前に、体をかすかに震わせるネファーレア。彼女は強く瞑目した後、うつむきながらも、言い淀んでいた言葉の先を続けていく。
「お、お姉様が戦場に転移で飛んでこられ……私の盾となってくださいました。そして、これ以上は続けないよう」
しかし、話の先を乾いた音が遮った。部屋の中の時が止まる。
頬を打たれて、ネファーレアは何秒か魂が抜けたように立ち尽くしていた。あまりに突然の事態に、アスタレーナも身動きが取れないでいる。
そんな王女二人を前に、王妃は急に薄ら笑いを始め、口を開いた。
「ふっ、ふふふ……続けないよう、何? 続けていれば、何の問題もなく勝っていたのでしょう? ねぇ、ネファーレア」
母に尋ねられても、ネファーレアの反応は遅い。色白の肌が一層に血の気を失い、彼女はただ荒い息遣いを続けるばかりだ。
そこへ「妃殿下」とアスタレーナが割って入るも、王妃の対応は冷淡だ。
「“邪魔”されたのは、我が娘の方でしょう? それとも、お得意の口車で弁明しようとでも?」
「その娘御が、不死者になりかけていたのですよ」
「だから何だというの?」
あまりの切り返しに、アスタレーナは言葉を失った。
しかし――すぐに、怒りが沸き起こってくる。これまで胸を痛めながらも向き合ってきた自分の責務を、国際秩序を、この王妃は愚弄したようにしか感じられない。
そうして身を焦がす憤激に襲われながらも、彼女は長く息を吐きだし、努めて冷静であろうとした。
「あのまま続けていれば、妃殿下の一族から、本当の国賊が発生するところでした。お家の名誉を重んじる殿下であればこそ、御自ら律して然るべきでは?」
「フッ、ククク……お家の名誉ですって? 国賊一人、仕留めることもできずにのさばらせ……雪辱の機が来たと思えば、見当違いな配慮が横槍を入れてくる。勘違いしたあなたが、私たちの名誉を云々しようと?」
「だからと言って」
「私たちの間に立ち入るな!」
激昂する王妃を前に、アスタレーナはたじろいだ。実子も、母には顔も合わせられず、ただ身を震わせている。
「あなたに私たちの何がわかる! 罪人の後に孕まされた後宮の女の、殺されるためだけでしかない国賊の後に生まれた娘の、一体何を理解しているというの!? あなたの見当違いな慈悲と配慮で、誰を救ったと言うの!?」
「……でしたら、同じことを陛下に直訴なさってはいかがですか」
冷ややかに応じ返すと、部屋の空気が凍てついた。
そして――王妃の手が飛んでくる。
平手ではなく、握り拳が。
気づいた時には、アスタレーナは腰をついていた。鼻っ柱に熱感を伴う痛みがある。
「お母様!」
これまで母の前に何もできずにいたネファーレアも、これにはたまらず動き出した。母を押さえつけようと立ちはだかる。
だが……アスタレーナを殴りつけた後、王妃は息を荒げながらも、こみ上げる笑いに身を震わせていた。捨て鉢な笑みが涙で濡れていく。
母と姉の間に立ち尽くし、ただうろたえるばかりのネファーレア。彼女の戸惑いぶりを見つめながら、アスタレーナはスッと立ちあがった。
これ以上ここにいても、かえって妹を苦しませるだけだろう、と。
「失言でした」と一言謝り、彼女は部屋を立ち去った。
部屋を出てすぐ、彼女は口に垂れてきた粘液に気づいた。服を汚すわけにもいかず、素手で軽く拭った後、天井を見上げる彼女。
すると、背の方でドアが開いた。誰が来たのかは、外すわけのない二択だ。息を荒くする後ろの気配に、彼女は振り向きもせず言った。
「ネファーレア」
「は、はい」
「ご母堂について差し上げなさい」
それが妥当ではあったが、しかし、口にすると胸を締められる感もある。
あの王妃を、妹一人に押し付けるようで。
妹に対する言いようのない自責の念に暮れる彼女に、その妹は「ごめんなさい」と沈んだ声を投げかけ、部屋に戻っていった。
こうして、広く長い廊下に一人となったアスタレーナは、後宮の管理者たちのもとへと足を運んでいく。
(鼻血でどこか汚したかもしれないし、伝えておかないと……)
その理由は、何もないところで転んだ、といったところか。




