第169話 姉妹喧嘩のあとしまつ①
リズが立ち去った後、少ししてから、アスタレーナは両の頬を叩いて気合を入れ直した。
ネファーレアとの激突で体が痛んでいるが、泣き言を言っていられない。こんな目に遭ったのは自分の意志に基づくものであり――
妹がこのようになっている責の一端は、きっと自分にもあるのだ。
彼女はネファーレアに寄り添い、細心の注意を払って触診を始めた。深刻な外傷はなく、関節は正しい方向に曲がっている。
また、身体を覆っていた禍々しい魔力は、完全に解かれたようだ。やや体温が冷たく感じられるが、怖気を引き起こすほどに冷え切っているわけではない。
それに、滑らかな肌には確かな弾性がある……生身の人間らしく。
最低限の確認を終え、彼女は大きなため息をついた。
妹は、依然として気を失っているようだが……閉じた目から、一筋の涙が零れ落ちる。
(夢でも見ているのかしら……)
妹の心中は、量りかねる部分がかなり大きい。アスタレーナは、幸薄い妹の顔に、優しく手を置いた。
彼女から見て、呆れるほどに愚かなことをしでかした妹だが……彼女の挙行に対して責めを負うべきは、当人以外にもいる。
彼女に血を分け与えた二人だ。
そして、それを糾弾できないでいるから、彼女がこのようになっている。
アスタレーナは妹の涙を指でそっと拭い、優しく身を寄せて彼女をかき抱いた。
と、その時、アスタレーナは不穏な気配を覚えた。背筋が悪寒で跳ね上がる。
その気配の方に目を向けると、見るも無残なマストの上から、亡霊が舞い降りてくるところではないか。
ネファーレアが操っていた亡霊だが、彼女による束縛が失われた今、自由に動けるようになったのだろう。
嫌な予感に顔を引きつらせ、アスタレーナは再び妹に向き直った。
彼女は肝が据わった才女ではあるが、それはあくまで外交や諜報上におけるものだ。不慣れな実戦の場において、彼女は一般人に近い。
焦る彼女は、気絶したままの妹に声をかけた。
「ちょっと、起きて! あなたが使ってた連中でしょ!? 最後まで面倒見なさいよ!」
しかし、やはりというべきか、返事はない。
揺さぶり引っ叩いて起こす気も起きず、彼女は妹を優しく寝かせ、上空を睨みつけた。
(最小限の覚えはあるけど……)
これまで身に着けてきた王族としての教養の中から、彼女は記憶を引き出し申し訳程度の応戦を始めた。《霊光》をその場に作り出し、《陽光破》で輝く槍に変えていく。
しかし、近寄る亡霊たちは、多少怯みはしても、あくまで足止め程度にしかならないようだ。
とてもではないが、妹の力には及ぶべくもない。
それでも彼女は、傷んだ体を奮い起こし、ネファーレアを守ろうと立ちはだかった。
「亡者が寄ってたかって! しがみつくなら、生きてる間にやれば良かったのよ!」
気丈にも声を上げ、必死の抵抗を試みるアスタレーナ。
だが、多勢に無勢であった。ネファーレアが、もしものためにと亡霊を温存していたことが、今の窮地に繋がっている。
それに、《霊光》は単なる光源であり、祓魔術で用いられるような、強い清浄の力を持つわけではない。
迫りくる邪気を必死に追い払おうとするアスタレーナだが、敵の数の前に、徐々に押されていく。
彼女は歯を食いしばり、妹に視線を向けた。
(いざとなれば、この子をおぶって逃げないと……)
逃げ切れるかどうかはわからない。それでも、やらなければならないことだ。
悲壮な覚悟を胸に、彼女は亡霊を押し留めつつ、妹に身を寄せていく。
この戦いに首を突っ込んだこと自体への後悔は、彼女の中に欠片もなかった。
ただ、見立ての甘さと不十分な準備を、彼女は悔いた。
あるいは――
(私がもっと勇気を出せていれば、この子が間違った勇気を出す必要なんて……)
自身を情けなく思い、彼女は悔しさに口を引き結んだ。
そんな彼女の前で、事態は進行していく。
加速度的に、悪い方へ。
穴だらけの甲板からも、亡霊が這い上がってきたのだ。
対応すべき方向が増えたことで、アスタレーナは迷わず決断した。痛む体に鞭打ち、気合一つで妹を背負う。
後は逃げ切り……どうにかして国へ帰るだけだ。
それにしても――名だたる大列強ラヴェリアの、外務省で諜報員を束ねる王族の自分が、こうも考えなしに横槍を入れて、その挙げ句に追い込まれているとは。
いつにない自分の有り様に、彼女は苦笑いを浮かべた。
押し留めた亡霊の群れは、もはや目前である。彼女は動き出し――
視界の端が、光を捉えた。
船の側方、闇の中から、白い光がせり上がってくる。
近づいてくるのが不死者を滅するための力だと、彼女は直感した。その増援が、どういう存在なのかも。
当惑と安心を覚える彼女の前で、実際に見立て通りの人物が姿を現した。
「お久しぶりね」と笑みを浮かべるリズが、声をかけつつ手慣れた所作で、魔法陣を宙に描いていく。彼女が身にまとう浄化の光が、鮮烈な一指しとなって亡霊を霧散させる。
「……どうして?」
助けられながらも、そうされている理由がわからないアスタレーナに、リズは答えない。
代わりに、彼女は右手から何かを山なりに放った。《念動》で制御され、アスタレーナの足元にコトリと着地したのは、銀製のランタンである。白い光が彼女らを包み込み、悪しき気配を退けていく。
そして、増援は一人ではなかった。リズに続いて女性が二人、船の側方から駆け上がって甲板へ。
やってきた片割れは、アスタレーナたちを一瞥した後、リズに提案した。
「そばについて差し上げては? あのランタンも、どこまで機能するかわかりませんし」
「そうね……そっちは大丈夫?」
問われたニコラは、セリアに視線を向けた。
セリアは何やら緊張し、強張った感じがあるが……しっかりとうなずいて返した。
亡霊退治はこの二人に任せ、リズは姉妹のもとへ。臆せず、継承権者二人に背を向けて亡霊に対処しつつ、彼女は言った。
「あなたたちに死なれては、私たちも困るのよ……わかるでしょ?」
その言葉に、アスタレーナはうなだれた。
国賊として追い回しているはずの相手に助けられている。死なれては困るという言葉に、どういう含みがあるとしても。
それに……自分たち二人に向けた、リズの無防備な背中が、彼女には眩しかった。
ラヴェリアだけのことを思えば、手を下すべきである。
それでも、それができずにいる。力及ばないこと、仮にそれだけの力があっても、きっと踏み切れないであろう甘さ。至らない自分への苦い思いに、彼女は顔をしかめた。
言葉を返すこともできずにいる彼女に対し、リズは出し抜けに言った。
「まぁ……恩返しもあるかしら」
「あなたに返される恩なんて……」
「色々あるのよ。こっちにはね」
それだけ言うと、リズは亡霊退治に専念した。
もともと、リズが前座である程度始末していたことに加え、今では増援もある。それも、確かな腕の魔法使いだということは、アスタレーナの目にも明らかだった。
あわやという事態も、程なくして片付き、陰鬱な空の下はにわかに静まり返っていく。
一仕事を終え、リズ側の増援二人はアスタレーナに視線を向けた。敵意や害意のようなものはほとんど見受けられず、何やら心配している様子だ。
もっとも、その心配も、視線を向けられる側ほどではなかろうが。この先のことに気を揉むアスタレーナに、リズが声をかけていく。
「幽霊船の調査が本来の仕事でね……どういうわけか、先客がいらっしゃったのだけど」
「そう……お邪魔してしまいましたね」
調査自体、実際に主目的ではあったのだろうと、アスタレーナは判断した。
先に制圧できたのなら、ネファーレアが使いそうな手を一つ潰せるのだから。
ただ、結果としては、互いにとって痛み分けのような格好になってしまったのだが。
言葉が途切れ、再び居心地の悪い沈黙が訪れる。アスタレーナの側からは、何か言おうという気はしなかった。向こうの気分を害しては……という思いあってのことだ。
一方、彼女の予想以上に、リズは鷹揚な態度で構えている。彼女は少し意地悪く微笑み、口を開いた。
「少々、よろしいですかしら、殿下」
「……なんでしょう?」
「いえ、帰りの足をご用意なさっているものか、不安に思ったもので」
などと尋ねられてはいるものの、答えはほとんどわかっているのだろう。
正直に答えるにはためらわれるものがある一方、この期に及んでそんな意地を張る事自体、思い上がりのようにも思われる。どう転んでも恥を覚え、アスタレーナは煩悶した。
と、そこへ、遠くから光る何かが近づいてくる。視線を向けてみると、それが船だと彼女にはすぐに理解できた。
「良ければ、どこか適当な島まで送り届けるけど?」
挑発でも嘲りでもなく、リズは真面目な顔で打診した。少し表情を和らげ、「色々お話してみたいし」とも。
これを断るだけの余裕は、アスタレーナにはなかった。




