第168話 VS第四王女ネファーレア④
左右の欄干で切り取られた視界の中、巨大な丸太が振り下ろされる。身をすくませるような重圧が、リズの身に迫る。
――そして彼女は、これを狙っていた。
振り回されるのではなく、振り下ろされる一撃。これまでの戦闘でほとんど無傷だった、船首に追い込まれることを。
上から迫る丸太、周囲の甲板に対し、彼女は《火球》を連発した。着弾の衝撃と爆風に押し上げられ、振り下ろされた丸太が急激に持ち上がる。
船首に満ちる爆炎が、曇天の下を紅蓮に染め上げる。
さらに、リズが放った魔法は、《火球》だけではない。併用された《風撃》が、爆風をより過大に演出している。
その爆風を隠れ蓑に、押し上げられた丸太の柱を陰に、彼女は船首を脱した。自身の脚力と爆風の威力で上空へと舞い上がり、ネファーレアの直上へ。
相手が見失っている一瞬の隙を突くように、リズは鞘に収められたままの魔剣を構えた。
落下の勢いを突き立てるのは、ネファーレアの右肩。
四肢を破壊してでも、まずは弱らせようという考えでの挙行である。
しかし――鞘ごと突き立てたこの一撃に、最初に音を上げたのは甲板であった。鉄塊に突き立てたような感触しかしないリズの目の前で、甲板に亀裂が入って窪みができていく。
次いで、落下による突きの衝撃で、鞘が完全に破断された。
もはや人の形をした鉄の台座を足蹴に、リズは大きく飛びのいた。
決死の反撃は、決して効いていないわけではないようだ。ネファーレアは少しよろめきながら丸太を取り落し、着弾点に左手を置いている。
身に宿る魔力にも、少し揺らぎが見受けられる。強烈な一撃から身を守り維持するため、応分の魔力を消費したのだろうか。
だが……効いているとしても、同じ手口は何度も使えない。依然として綱渡りを続けている事実は揺るがない。
そんなリズの手に、今は抜き身の魔剣が握られている。
鞘を失ったそれに目もくれず、甲板に突き立てようとした彼女だが、振りかぶったその動きの兆しに、魔剣は待ったをかけた。
『徒手で敵う相手か』
「だとしても……あなたには頼らないわ。人には使いたくないのよ」
『貴様には、あれがヒトに見えるのか?』
「私にとっては……まだ人なのよ」
少しの間、沈黙が続いた。聞こえているであろうネファーレアも、何かしら心動かされるものがあるのかもしれない。二者には割って入らず、ただ静かに佇んでいる。
すると、魔剣は言った。
『直接斬りつけなければ良かろう。攻撃を受け止めることもできよう。貴様は、その程度の使い方すら誤る使い手だというのか?』
リズは歯を食いしばった。
戦いに絶対はない。そのつもりがなくても、相手を傷つけてしまう恐れはある。今のネファーレアに、《インフェクター》の呪力が刻み込まれたらどうなるか。そんな懸念もある。
そして、どんな理由であれ、この魔剣を人に向けたくはなかった。直接斬られた者を見たことがあるからこそ、その刀身の邪法を、身を持って知っているからこそだ。
相手がヒトの域を脱しつつある化け物だからと言って、それを理由に刃を向けるなら……
自分もまた、道を踏み外しているのではないか。揺れる思いを胸に、彼女は――
覚悟を決めた。
ネファーレアがけしかけた魔剣が、今では自身に向けられている。
この運命の皮肉に、彼女は悲哀の微笑を浮かべた。
そして、彼女は駆けだした。右手を振りかぶり、リズへと一直線に。
対するリズは、両手で剣を構え、これを迎え撃つ。
急激に縮まる両者の距離――
その時リズは、不可解な魔力の動きを感知した。極限まで研ぎ澄まされた知覚が、一瞬の状況を切り出していく。
自分たち二人のちょうど中間点上空に、空間の亀裂ができていた。こじ開けられた穴から、何者かがここへ降りてくる。
その人物に、ネファーレアはまだ気づいていないようだが――思いがけない乱入者の顔に、リズは覚えがあった。
どうしたことか、第三王女アスタレーナが、この死闘の場にやってきたのである。
いきなりの出来事に思考がかき乱されるリズだが、巡る思考の中で「二対一になった」とは毛頭思わなかった。
なぜなら……こんなところに飛び込んできた姉は、王族にしてはだいぶ“常人寄り”だと認識しているからだ。
いきなりの乱入者を前に、気づいたであろうネファーレアは、突撃の勢いを弱めることも方向を変えることもできずにいる。
方や彼女の目の前にいるアスタレーナは、着地の衝撃で満足に避け切れない様子であり――
二人が衝突し、アスタレーナが大きく吹き飛ばされる。
一瞬の間の出来事が目の前で進行し、リズは泡を食った。剣を構える自分の方に、姉が飛ばされてくる。
気が付けば、リズは後ろに下がりつつ、剣を投げ捨てる準備をしていた。
「ごめん!」と魔剣に謝ると、彼女は後方へ投げ捨て、飛ばされてくる姉の正面へと回り込んだ。
この迷いない動きのおかげで、彼女は姉を受け止めることができた。放っておけば、荒れ果てた欄干の残骸が突き刺さるところであった。受け止めた胸元で、アスタレーナは小さなうめき声を漏らしている。
だが、彼女はすぐさま、リズから身を離した。強張った表情で、少しよろめきながらも後ずさりしていく。
そして、彼女は両腕を大きく広げ、リズの前に立ちはだかった。彼女の後ろでは、突然の出来事に放心したネファーレアが。
この状況に当惑を覚えているのは、リズも同じことだった。
いきなりの姉の出現に、大きく驚かされている彼女は――突然の事態でも、状況を正確に把握できたことが、その困惑をより一層助長している。
アスタレーナは、着地の衝撃で確かによろめいていたが……彼女は自分の意志で、ネファーレアの突進に身を晒しに行ったように、リズの目には見えていたのだ。
その心情は知る由もないが……自身の身を呈してまで、ネファーレアを止めに行ったのだとしたら――
それまで戦っていた二人が言葉を失う中、この中では最弱の乱入者は少し咳き込み、息を荒くしながらも口を開いた。
「レア、あなた……大丈夫?」
「は、はい……」
「また、生身の人間に戻ることは?」
背を向けたまま問いかけてくる姉に、ネファーレアは少し口を閉ざし……
「まだ、終わったわけでは」
「ネファーレア」
言いかけた言葉を、毅然とした声が遮った。
声を発せずにいるネファーレアに背を向けたまま、アスタレーナはリズに真剣な眼差しを向け……一度、強く目を瞑った。
少し間を開けると、彼女は苦渋の表情で、はっきりと告げていく。
「あなたがこのまま続けて人を辞めるというのなら、私はこの行いを告発する。フランゼル一族を……あなたの母上の家系を、ラヴェリアが族滅する」
「お、お姉様……」
「あなたまで国賊にしたくないの……もう、辞めて」
絞り出すような哀願の声に、ついに最後の線が切れた。今までのネファーレアを支えていたものが失われ、糸が切れた操り人形が、力なくその場にくずおれていく。
かすかなうめき声が聞こえるも、すぐに何の音もしなくなった。
未だリズの前に立ちはだかるアスタレーナだが、その表情には隠しきれない不安が滲み出ていく。
そんな彼女に、「心配なら、診てあげれば?」と、リズは両手をヒラヒラさせながら言った。
敵意がないことを示す彼女だが、安易に信じるわけにもいかないのだろう。アスタレーナは、硬い表情で応じた。
「念のため、一つ言っておきます。サンレーヌで近々、国際的な会合が開かれる見込みですが、私は出席の意を伝えてあります」
つまり、彼女の身に何かあれば、革命を共にした友人たちにも累が及びかけない。
リズには、これが出任せには思えなかった。姉から見れば、リズに確認手段がある懸念は大きいはず。その場しのぎの嘘が、自身の首を絞める可能性は高い。
となると――まさか、この戦いが始まってから準備したというわけもあるまい。今回の介入は、ある程度想定の範囲内だったのだろう。
危害を加えるつもりなど毛頭ないリズには、姉の準備の良さに、ただただ素直な感嘆を覚えた。
「こちらからも、一ついい?」
「……ええ」
「私は、この継承競争で私を殺しに来たものを、誰一人として殺していないわ」
それだけ言って、リズは反応を待たずに踵を返した。投げ捨てた魔剣の下へと、歩みを進めていく。
その背にかけられる声も、何か仕掛けようという気配もない。
ところどころ、陥没どころか大穴まで空いている甲板だが、魔剣は無事に突き刺さっていた。
近づくリズに『半端者』と声をかけてくる魔剣。
「うっさいわね」
さして考えるでもなく言葉を返したリズだが……魔剣の刀身にまとわりつく赤いきらめきに、心臓が止まるような恐怖を抱いた。
急いで振り返り、姉妹に目を向けるも、斬ってしまった様子はない。
最低限の安堵と残る当惑を胸に、再び魔剣に向き直ると、刃を濡らす血の始点はグリップであった。
右手に目を向けてみると、いつのまにか紅く濡れていた。潰れた血豆、飛び散った木片による創傷によるものだ。
この魔剣で、誰かを斬ってしまったというわけではない。
その事実に、リズは深く安心し……ホッとする自分に、乾いた笑いが込み上げてきた。抑えた笑いが込み上げる顔に、何の考えもなしに左手を当て――
不快感を引き起こす、ぬるりとした感覚が顔を覆う。
血濡れた顔のまま、急に色々とバカらしくなってきたリズは……大きなため息を吐き出した後、自身の顔に向けて魔法陣を一つ書き上げた。
放たれた《水撃》が、彼女の顔を打ち付ける。
水がしたたる顔で視線を向けてみると、突然の奇行にアスタレーナが唖然としているところであった。
「……妹さんはご無事?」
もちろん、生物学的には同じ血族だが……他人行儀に問うリズに、アスタレーナは静かにうなずいた。
「気を失っていますが……おそらく、別状はないものと」
「そう」
リズは再び魔剣に向き直り、気づけば汗まみれのズホンで手を拭った。魔剣を握り、甲板から引き抜いていく。
「もう笑わないのね」
『そうして欲しいのか?』
「あるいはね」
そう言われては、逆に興が削がれるのかもしれない。心底つまらなさそうに『フン』と返し、魔剣は静かになった。
それからリズは、ネファーレアに引き裂かれた魔導書に近づき、紙片で血濡れた刀身を掃除していく。
自然と帰り支度をしている自分に気づいた彼女だが、実際、もう戦う空気でもないだろう。
――この二人を手に掛けようという考えは、毛ほども生じなかった。
手短に掃除を終えると、彼女は二人に向き直り、声をかけた。
「特にご用件がなければ、このままお暇するけど?」
申し出に対し、真剣な眼差しを向けてくるアスタレーナ。
傍らのネファーレアを一瞥した後、彼女はリズに向き直って頭を下げた。
「助かります」
「……ずいぶんと、礼を以って応対してくれるのね」
「あなたも、一勢力の首長ですから」
姉としてではなく、一介の外交官としての価値観が、リズをそういう存在として認めているのだろう。
悪い気はしなかった。
去り際、リズは振り返って声を掛けた。
「私も……助かったわ。ありがとう」
それだけ言い残し、彼女は見る影もない甲板から身を翻し、薄暗い暗闇の向こうへ消えていく。
後に残ったアスタレーナの耳に届くのは、ごくわずかな波の音と、妹の小さく苦しそうな吐息だけである。
そして――彼女は腰が抜け、その場にへたり込んだ。




