第167話 VS第四王女ネファーレア③
自分たち二人が、決して相容れることのない不倶戴天の仲だとしても……このような戦いは、あってはならない。人であることを捨て、不死者に身をやつそうなどとは。
それも、古の大英雄ラヴェリアの血を引く者が。
しかし、思い留まらせようというリズの叫びも虚しく、ネファーレアは再び動き出した。
その動きは、これまでと少し傾向が異なり、急激な突進ではなく牽制の《魔法の矢》を多めに織り交ぜている。
力任せの猛進を控えているのは、彼女自身の迷いがあるのかもしれない。
一方で、溢れんばかりの力の手綱を、掌握しつつあるようにも感じ取れる。
もしかすると、身体の不死化が進行し、身体強化の力がより馴染んできているのかも――
洗練とまでは言わないまでも、動きから粗暴さが薄れていくネファーレアとは対照的に、リズは少し精彩を欠いていた。
回避と守りの技術に陰りはないが、ネファーレアを迎え撃つ攻撃に、迷いが生じている。
人間相手を制圧するような、生半可な攻撃では意味がない。攻撃が全く効いていないというわけではないが、絶好の機を活かした奇襲に全力を投じ、ようやく怯みを見せる程度のものだ。
だからといって、相手の身を全く顧みない攻撃を選択することに、リズは二の足を踏んだ。
殺されたくはないが、殺したくもない。
殺せば、互いに後がなくなる。
相手の魔力が尽きるまで戦うことができれば何よりだが、それもか細い希望である。一撃が命取りとなりかねない中、長期戦を続けるのは至難だ。
そもそも、相手を消耗させようにも、自分の側が先に枯渇するような気がしてならない。それほどまでに、ネファーレアに宿る禍々しい魔力は、圧倒的な存在感がある。
徐々に動きが良くなっていくネファーレアに対し、揺れ動く感情と焦燥が、わずかにリズの動きを鈍らせてくる。
そして――突如として突進したネファーレアに、彼女はついに捕まってしまった。甲板へ押し倒された彼女の首に、ネファーレアの指が迫る。
今まで見せつけてきた暴力に反し、のしかかってくるネファーレアの体は軽い。指も色白で華奢だが、その力はリズの首など容易にへし折ることだろう。
彼女は妹の両手を掴み、必死で抵抗した。
目の前にある色白の顔は、今や悲壮感に満ち満ちており……両目には黒紫の魔方陣が浮かび上がっていた。
目だけではない。かすかにではあるが、露出した肌には黒紫の魔力が走っている。それが力の源泉なのは間違いない。
しかし、今まさに殺されかけているリズの目に、妹に刻み込まれた魔力は縛鎖のようにしか見えなかった。
「唾吐けば、当たるわよ」
迫る両手に抵抗しながら、リズは軽口を叩いた。
そんな彼女に、生暖かい雫が垂れてくる。宿願を果たす好機をその手に握りながらも、ネファーレアは瞳を潤ませている。
そして、彼女は哀しげな微笑を浮かべた。
「あなたさえ……あなたさえいなければ、こんな私たちにはならなかった」
「だったら、あの男でも去勢なさったら?」
「全てが終わったらそうするわ」
冗談交じりの軽口に、ネファーレアはあっさりと応じた。リズの顔が真顔になっていく。
この妹は、本気なのだろう。ここで自分を殺し……玉座に就こうが就くまいが、彼女なりの復讐を果たし――
何もかもを終わらせるつもりなのだ。
今まで自分一人の命を長らえるために、逃亡を続けてきたリズだが、それは彼女だけの問題ではなかった。自分の命とはまた別に、その背に負うものが何かしらあった。
今日の重荷は特別だ。
迫る手を押し留めるも、ついに指先が彼女の首に触れた。ぞっとする寒気が全身に走る。
「本当は、止めてほしいんじゃない? 素直になったら?」
殺されるまであとわずか。
それでも気丈に振る舞うリズに、ネファーレアは笑った。
「止めてほしいのはあなたの方でしょ?」
「あなた自身がどうかって、聞いてるのよ……!」
ネファーレアは押し黙った。真顔の彼女から、涙が零れ落ちる。
恐ろしい魔力を今も身にまとう彼女だが、そんな彼女から滴り落ちた雫が不浄だとは、リズは思わなかった。
そして、ネファーレアは声を震わせた。
「あなたにだけは……そんなこと、言えるわけない」
「でしょうね!」
言っている間にも、指先が首筋に迫ってくる。一本、二本……触れる指先の包囲が狭まり、逃げ場を確実に塞いでくる。
最期の時が目前に迫る中、リズは目を強く瞑った。
これを、観念と見たのだろうか。ネファーレアは、力を緩めるようなことはしないが、その顔には悲哀が満ちる。
だが、リズはそういうつもりで目を閉じたのではない。
首へ迫る手を握り、押し留めながらも、彼女はそれとなく右の人差し指をフリーにした。
そして、一瞬の間に魔方陣を書き上げていく。二人の間に描かれた魔法陣から光が走り、周囲を白に染めていく。
それでも、ネファーレアは驚くことなく、リズの首に迫る力の緩みはない。
だが、《閃光》は布石であった。
辺りを白い光と魔力が染め上げる中、リズはこれを煙幕代わりに、本命の記述に入った。一瞬で書き上げた魔方陣に、ギリギリまで魔力を注ぎ込んでいく。辺りを染める光が去っていくまで。
そして、視覚に他の色が戻ってきたその時、彼女は本命の魔方陣を起動させた。凝集された大気の塊が二人の間に生じ、瞬く間に膨張していく。
全力の《風撃》で甲板に押し付けられる苦しみに、彼女の内奥から空気が漏れ出る。
しかし、彼女は意識を強く保ち、覚悟を決めて手の力を解いた。暴力的な風に押し上げられ、ネファーレアが上へ飛ばされていく。
引き剥がされた彼女の指は、ただリズの首をわずかにかすめて交差するに終わった。
どれほど体に力を漲らせようが、皮膚を鎧のように硬めようが、質量そのものを操れるわけではない。
それに、絞め殺そうとしていた時は、全身的には静止状態であり、強烈に押し上げる力には無抵抗だったのだ。
目論見通り、ネファーレアが上空高くへ吹き飛ばされていく一方、リズは下へと押し込まれていた。
これまでの暴れっぷりで痛めつけられていた甲板に、今回の強烈な《風撃》がトドメになったらしい。大きくきしみ、やがて断末魔を上げて、腐りかけの木版が崩壊していく。
そうして彼女は、甲板下の船室に叩きつけられた。
背に力を込めるも、打ち付けられた衝撃と上から押しこむ風の圧に、全身が強く押し潰されるようだ。口から漏れ出る熱い呼気に、苦味と酸味が混じる。
しかし、寝ている暇はない。彼女はすぐさま起き上がり、ロから粘つく塊を吐き出した。
すえた匂いがする船室の闇の中に潜んでいた、おぼろげな気配の先客に睨みを飛ばし、《空中歩行》で再び戦場へ。
空中戦は苦手だろうという見込みはあったが、実際にネファーレアは、空中でなすすべがないようだった。
それでも、リズが今まで空中戦を仕掛けなかったのは、足元の空気を踏みつける感覚を妹に体得されたら、かえって手が付けられない事態になるからだ。
空中の彼女に追撃することで、経験を積ませるのも危うい。そもそも、この距離では大して効くものではない。
落ちてくる妹から距離を取りつつ、リズは心身の安定を取り戻すことに専心した。息を落ち着けつつ、落ちてくる妹に目を向け続け――
頃合いを見計らって、次の行動に移った。狙うのは妹ではなく、落下地点付近。彼女は数発の《火球》を放った。
爆風が広がるが、幽霊船の木材は湿気りきっていて、燃え上がることはない。
そして、爆炎が残る中、ネファーレアは甲板に着地した。大きな衝撃音が響き渡るが、彼女自身は無事だろう。
しかし、着地された甲板は、そうでもないようだ。妹が着地した瞬間、甲板全体が少したわむ。さらに着地点では妹の体が少し沈むのを、リズは見逃していなかった。
着地の衝撃は、他にも伝わっている。《火球》の連射で被害を受けたのは甲板だけではない。
――根元の大半をこそぎ取られ、傾きつつあったマストが一本。ネファーレア着地の衝撃が完全にトドメになったようだ。大柱が最後の悲鳴を上げ、彼女の背に襲い掛かる。
動き出そうにも、今の足場では満足に踏み切ることもできないだろう。力のコントロールが繊細でなければ、マストに押し倒されるはず。
そういう目算あっての仕掛けだが……
倒れてくる大質量に、ネファーレアは真っ向から対峙し――両手で受け止めて見せた。
まさかここまでの力があるとは思わず、驚きと苦渋で顔を歪ませつつ、リズは相手の背めがけて魔弾を連射していく。
それを意に介さないかのように、ネファーレアはゆっくりと荷を下ろした。そして、甲板に視線を巡らした後、まだ頑丈な部位に彼女は足を置き、彼女も《魔法の矢》を放っていく。
しかし、その狙いはリズではなく、マストの側枝。落下の衝撃による破損に加え、今度の射撃で完全に破壊され、マストが一本の柱に近づいていく。
やがて、余分なパーツを弾き飛ばし終え、彼女はマストに手を突き立てた。リズを絞め殺そうとしたその手を。
改めて、力の程を思い知り、リズの心臓が跳ね上がる。
そして、マストを抱え上げたネファーレアは、リズ目掛けて振り回してきた。
この大柱は、今のネファーレアには程よい長さと質量の武器になっているらしい。最初こそゆっくりとした動きではあったが、振りは徐々に鋭くなっていく。
生身であるリズが直撃を受ければ、それだけで大きく形勢が傾くことだろう。
振り回される丸太を、リズはすんでのところで回避していく。飛び跳ね、しゃがみ、後ろに避け。ギリギリをかすめる質量体の風をきる音が、心臓の鼓動を加速させる。
一方、ネファーレアは落ち着いた様子で歩を進め、徐々にリズを追い詰めてくる。
彼女の破壊的なー振り一振りが、船の欄干を塵芥のように薙ぎ払い、不快極まる湿った木片の欠片が、辺りに飛散していく。
振り回される丸太を避けながらも、リズはネファーレアへの攻撃を繰り返したが、まるで効いている様子はない。
やがて、彼女は船首へと追い込まれた。疲労の色濃く、肩で息をする彼女は、ネファーレアを真っ直ぐ見据えながら額を拭った。
船首付近だけは欄干が健在で、飛び上がって避けようにも邪魔になる。
ネファーレアも、これを狙って温存していたのだろう。これまでよりもずっと鋭い動きで、彼女は武器を高らかに持ち上げ、リズ目掛けて振り降ろした。




