第164話 前哨戦
海の上を走っていくリズ。
一人で向かうことに大きな不安はない。しかし、不審船に至るまでの間に、彼女の脳裏には一つの疑問が浮かんだ。
何らかのルートで、ネファーレアが幽霊船の情報を掴んでいる可能性は、十分にある。
知ったからといって、現地に向かうには別の問題があることだろうが……それもどうにでもなると、リズは考えていた。
相手には飛行船、あるいは《門》での転移などがある。秘密裏に使うのは難しいだろうが、船以外の移動手段も考慮に入れるべきだ。
思い返せば、《インフェクター》との戦いも、サンレーヌ会戦における介入も、何かしらの特別な移動手段を用いた可能性が高い。
その詳細はともあれ、ネファーレアがこの海域にいるとしても、それは驚くべきことではない。
そうした前提の上、リズが少し疑問に思ったのは――
もしも、本当にあのネファーレアが噂の船にいるとしたら、どうやって日々を過ごしているのだろうか……ということだ。
不死者の巣と思わしき船に、余人を連れていけるはずもない。事が露見すれば大変なことになるからだ。不死者をコントロールする上でも、友軍に生者がいるのは不都合となりかねない。
しかし、リズといつ接触できるか不明な中、幽霊船に一人でいるネファーレアというのは……イメージするのが少し難しい。
一時的なそういう生活に我慢できないからと言って、リズを殺す機会を棒に振る彼女かというと、そういうわけでもないようには思われるが。
そんなことを考えながら走っていったリズは、自分の船からある程度離れたところで、少し立ち止まった。
一度後方を振り返ってみて、向こう側の様子がほとんどわからないのを確認し、彼女は前方に向き直って魔法陣を一つ書き上げていく。
出来上がったのは《超蔵》だ。虚空の収蔵庫に手を突っ込み、中から《汚染者》を引き抜いていく。
妹に向けて使おうという考えはないが、物理的実体のある不死者相手に使うかもしれない。そのための装備だ。
ベルハルト相手にやり過ごした際、鞘の先端を切り取っていたが、今ではしっかり新品を調達してある。
とはいえ……当時の、この魔剣への仕打ちを思い出しながら、リズは鞘から引き抜いてみた。
「御機嫌よう、閣下」
『……何だ』
やはり不満に思っているであろう、棘のある音の響きが返ってきた。
いかに邪悪な剣とはいえ、前の戦いはあんまりだろうという自覚がリズにはある。彼女は少し申し訳無さそうに苦笑いした。
「今日はきちんと、武器として使うつもりだから。よろしくね」
『……フン。何を斬ろうというのだ?』
「不死者よ」
不死者が関わるという戦闘自体、相応の水準になりがちではあるが……魔剣はそれでも、お気に召さないようだ。魔剣はただ、『前よりは望ましいか……』と、沈んだテンションでつぶやいた。
「アレは、その……悪かったわ。ごめんなさいね」
『……貴様が使い手であろう? 我の事など気にせず、好きに使えばよいではないか』
すねたように刀身を震わせる魔剣に、リズは困ったような笑みを浮かべ、鞘にしまい込んだ。
悪性の思考が宿っているのは疑いないが、初対面よりは丸くなった感がある。刀身にリズの筆圧を叩き込むという躾が効いたのかもしれないが。
やがてリズは、不審船のほど近くまでやってきた。
ここまで接近すると、噂の船で間違いないという実感がある。甲板には、わずかに黒ずんだ空気が滞留しているようで、悪しき魔力の存在を思わせる。
それに――実際に、お出迎えが飛んできた。リズのもとへと飛んでくる、三体の亡霊。接近を許し、肌に直接触れられると、心身を蝕まれてしまう。
しかし、今のリズには《光輝の法衣》がある。
甲板に上がる前に、その力のほどを確かめたくあったリズは、敵の動きを見極めて鋭く動いた。両手のような突起を前方に伸ばす亡霊をひらりとかわし、その後背を撫でるように手を近づける。
すると、手に帯びた光と悪霊の間に、魔力の火花が生じた。
これにリズが痛みや熱を覚えることはないが、亡霊には効いているようだ。空気を震わせる甲高い悲鳴が耳を打つ。
勢いよく接触すれば、法衣を貫通して亡霊の瘴気が侵食してくることだろう。ただ、触れさえしなければ効果的なのは間違いない。
撫でてやった亡霊は、リズの横を過ぎ去っていくなり、先ほどの突進とは打って変わって日和ったように浮かんでいる。
そこへ、今度は《陽光破》による攻撃を試みるリズ。書き上げた魔法陣が集光レンズさながらに、法衣からの光を集束させていく。以前の対アンデッド戦と同様、晴天下と遜色ない輝きを放つ光の槍が、亡霊を突き刺し焼き払う。
魔方陣を動かし、残る亡霊にも槍で軽く薙ぎ払い。亡霊たちは一振りで露と消えた。
こうして前哨戦を終えたリズの脳裏に、一つの疑問が沸き起こった。
この亡霊は自然発生的なものだろうか?
船へ接近したところ、リズを囲むように動いてくる亡霊の様子は、何らかの人為が加わっている感じが否めない。死霊術を用いた下手人が、誰なのかはわからないが。
ただ、この船にネファーレアが乗っているとしても、彼女がこうした魔法を施した可能性よりは、もっと前に誰かがこの魔法を施し、それが噂になった……という方が自然な流れであろう。
(ともあれ、まずは上がってみないとね)
この先に待ち受けるモノの事を思いつつ、リズは甲板へと駆け上がっていく。
すると、最初のお出迎えは、本当に小手調べだったと判明した。甲板の至る所に、動く骸骨が立ち、ぼろぼろのマストには亡霊が控えている。
いかにも待ち構えていたという風だ。
そして……姿を現した彼女の下へ、不死者たちが襲い掛かってきた。真正面からは、軽快な足音を立てる骸骨の一団。上からは亡霊の群れ。
迫る亡者たちを前に、リズは魔剣を抜き放った。骸骨目掛け、軽く一閃。放たれた三本の魔力の刃が、骨という骨を切り裂いていく。
だが、これは足止めにしかならない。
『まさか、効く相手と思ったのではあるまいな?』
「生肉以外は専門外かしら?」
魔剣の当て擦りに、リズも皮肉を返していく。
死霊術によって使役される骸骨は、骨の芯にまで浸透した魔力が本体と言える。斬っても斬っても、魔力が骨同士を繋ぎ合わせてしまうのだ。
ただし、骨が粉々に砕ければ、魔力を留め置くことができなくなる。そのため、効果的な対処法は、斬撃ではなく打撃による粉砕。あるいは、魔法による焼却だが……
初交戦となる骸骨を前にして、リズは冷静だった。本格的な対処は、まず上方からの亡霊たち。光を束ねて宙を薙ぎ払い、上への道を確保していく。
上方から包囲するように迫ってきた亡霊たちを、彼女は一度退けた。すかさず骸骨たちの上を取るように動いていく。
すると、彼女に合わせて、骸骨たちが甲板から飛び上がってきた。
軽量化を果たした上、魔力によってバネのある動きが可能な骸骨たちは、生前の数倍に及ぶ跳躍力を見せつけてくる。
そして……飛び掛かる骸骨の右手。その軌跡を見極め、リズはギリギリのところで回避した。骨の手が光の法衣を突き破っていく。
だが、亡霊と違って、骸骨はまるで怯みもしない。清浄の光に触れているはずなのだが。
(うまくできてらっしゃいますこと)
骨の芯に宿る魔力こそが骸骨の本質であり、骨は構造を保つための材料にして、芯を守る保護材なのだろう。法衣そのままでは力の密度が足りず、骨の芯にまでは至らないようだ。
そこで、リズは腰のホルターから魔導書を飛ばした。甲板から迫ろうかという骸骨に向け、《魔法の矢》の雨を降らせていく。
一発一発の威力は控えめだが、その分連射密度に力を注いだものだ。
骸骨は動きに勢いがある相手だが、弱点は明白だった。
軽すぎるのだ。
骨の大群を押し返すだけならば、さほどの威力は必要ない。魔導書による射撃の圧で、骨同士がもつれ、動きが阻害されている。
その間に、リズは亡霊の対処に取り掛かった。四方八方から迫りくる亡霊たちを《陽光破》で薙ぎ払い、自身の周りから遠ざけつつ、その数を減らしていく。
しかし、こうした亡霊の始末も、結局は前座でしかない。
悪しき気が渦巻く甲板の中、リズは、亡者たちよりもずっと強い気配を放つ存在に気が付いていた。
そういう気を隠そうともしない愚か者が、ここで待ち構えているのだ。
リズは残してきた仲間に、現状の報告を入れていく。
『幽霊船だったわ。現在交戦中。妹らしき気配もある』
『……わかった。増援が必要になれば言ってくれ』
『ええ』
とりあえず、今はまだその必要はなさそうだ。
空の亡霊を制圧していく傍ら、連中の攻勢がかなり弱まったのを認め、リズは甲板に足をつけた。
魔導書からの連射で押し返されていた骸骨たちは、着弾の衝撃で関節が外れに外れたらしい。今となっては、人体の構造などにはまるで頓着なく、名状しがたい骨格の化け物と化しつつあった。
これで軽さを補おうという″考え″があるのかもしれない。
初めて遭遇する骸骨たちの戦いぶりを前に、リズの脳裏に浮かんだのは群体という言葉であった。
海中で何度も見たクラゲの中には、小さな個体が寄り集まって、より大きな一個体になるような挙動を示すものがあった。
この骸骨たちも、そういう存在なのだろう……と。
そんな不可解な骨の怪物の中で、彼女は魔力が高まる兆しを認め――
次の瞬間、骨組みの中から触手が伸びた。巻き付こうというのではなく、刺し殺そうという勢いで。
しかし、こうした投射物による攻撃の可能性を、リズはすでに見抜いていた。
伸びる骨の貫手をわずかな動きで回避し、伸びてくる骨の連なりの根元へ、魔剣で鋭く一振り。
魔剣が放つ魔力の刃は、狙い通りに骨の繋がりを断ち切った。母体から切り離された骨の長蛇が、リズを飛び越えて海へと一直線に向かう。
それを繋ぎ止めようというのか第二射、加えて別方向からも迫る別の骨触手。
しかし、連撃も物の数ではなかった。
左斜め前から迫る骨の突きを、鋭いバックステップで回避したリズは、滑らかな動きで剣をその骨の隊列にあてがった。
彼女が剣先で骨をそっと持ち上げると、別の連なりが直撃。他にも伸びて来る骨の槍に、リズは返す刀で刃を飛ばした。
破断された骨が一瞬の間に飛び散り、ぶつかり合って統制を失っていく。
触手攻勢で得るものはなく、逆に骸骨の集合体は、無視できない量の骨を海に喪失した。
すると、今度はまた別の動きが。
密集した骨の塊が急激に膨らみ、船の欄干から欄干へと、骨のアーチが幾重にも展開されていく。
(包囲しようっていうのかしら……)
身構えるリズに対し、骨の集合体は彼女を取り囲むように白い檻を構築した。人体になぞらえるなら、肋骨の中、あるいは骨の掌中か。
そして――その白く禍々しい監獄は、彼女を握り潰さんとして、急激に収縮を始めた。
そこで彼女は、狭まっていく骨のドームの天頂に《火球》を一発放った。炸裂の衝撃と火勢、骨の握りが強引に振りほどかれる。
その包囲が弱まった隙をついて、彼女は勢いよく飛び上がった。
骨の包みから脱するや、待ち構えたように迫る亡霊たち。
しかし、リズはこれも読んでいた。そもそも、先のやり取りで亡霊たちの包囲は腰が引けている。彼女は光で適当に薙ぎ払いつつ、足元の骸骨に注意を向けた。
彼女を握り潰そうとした勢いは、まだ残っているようだ。動きの切り替えができていないまま、骨の集まりが密集度を高めていく。
その中心に、彼女は追撃の《火球》を叩きつけた。一撃で木っ端みじんに吹き飛んでいく骨たち。互いを引き寄せ合おうというのか、骨の断面から相互に魔力が伸びる。
これを引きはがすため、リズはさらに一押しを加えた。未だ爆炎残る下方に向け、《風撃》の激流を解き放つ。
上方からの暴風と爆風が合わさり、空気が暴力的に膨らむ中、骨同士が繋がり合おうという努力は徒労に終わった。
それでも、まだ繋がりを維持しようという骨のある小集団に、リズは追撃を加えた。剣舞を思わせる軽やかな動きの連撃で、周囲の骨を断ち切っていく。
すると、風と刃の力により、結ばれることなく引き裂かれた骨片が、海に、マストに、船尾に――互いの魔力が届かない隔たりで分かたれ、やがて沈黙した。
一瞬の暴風により、爆炎も薄暗い闇の中に飲まれて霧散し、リズは甲板に降り立った。
足元では、折れた小骨同士が繋がり合おうと、カタカタ音を立てている。
これを彼女は、無感情に踏み砕いた。
と、その時。船の奥に潜んでいた気配が動き出した。




