第154話 命の賭け
天候が曇りということもあって、毛ほどの光の届かない深い海の中――
リズは仰向けに横たわっていた。
口に当てられているのは、《インフェクター》を収めていた鞘。その鞘が向かう先は、魔法陣によって穿たれた虚無の空間。
すなわち、《超蔵》の穴である。
先端を切り落とした鞘を筒代わりに、彼女は《超蔵》の空間から息を継いでいた。
前々から、《超蔵》の向こう側が、さほど危険ではないということは把握できていた。少なくとも、差し込んだ手に危害が及ぶような、悪性の空気が流れているということはない。
また、洋上での活動中に、こういったトラブルに巻き込まれる懸念はあった。
そこで、やり過ごす助けになればと、リズは海に潜る機会のたびにコッソリと、《超蔵》を用いての息継ぎ検証を行っていたのだ。幸い、吸っても平気な空気が流れていることは把握済みである。
この、異空間の向こう側に入れば、さらに安全かもしれないが……入り込んで、何かの拍子で穴が閉じた場合、戻ってこれる保証はない。
とりあえず、この場では息が続けば十分と、リズは割り切った。
直接的な戦闘が中断し、それなりに時間が経っている。
だが、あの強大な力を持つ兄の存在が今も感じられる。遠い海面の向こうに、ぼんやりと。海に潜ませた魔導書からの奇襲は、やはりというべきか、軽く対処されたようだ。
攻撃がうまくいかなかったものの、不幸中の幸いと言えることもあった。自分で急浮上させるはずの魔導書が、自分の意志とは無関係に海面へと引き上げられていったことだ。
おそらく、海中深くにも届き得る武器が、兄のレガリア《夢の跡》に名を連ねているのだと、彼女は察した。
その存在を先に把握できたおかげで、下手に身動きできないということもある。
自分の側から兄の存在を感じられるという事実は、かえって彼女の心を騒がせた。
水中の標的を探るのは難しいという通念はあっても――実は、視られている、感づかれているのではないか、と。
しかし……時間が流れていっても、海上に気がかりな変化はない。
ベルハルトは戦場から動かないようではあるが、変に手出ししないようでもある。
騒ぎ立てるのは自身の心臓ばかり。彼女を包む暗闇の海は、まったくもって静かだった。
鞘を奪われ、海水にむき出しとなっている《汚染者》も、今は大人しいものである。海中で抜き身となった時は、声にならない音を震わせて、何か必死で抗議しているようであったのだが。
それからも静かな時間が流れた。
こうなれば、我慢比べだ。当初、彼女が想定していたいくつかの道のうち、希望が持てる一つに乗ることができたようだ。
身を包む寒さの中で、彼女はホッと安堵のため息を漏らし……
海上への警戒は維持しつつも、《別館》で繋がる仲間たちへの事情説明も兼ね、これまでの事を振り返り始めた。
☆
拿捕した海賊船をラヴェリア側に押し付けることに成功した夜。船長室に集めた仲間たちに、リズは言った。
「降伏は……たぶん、意味がないと思う、国が私の存在を許すとは思えない」
これに対して反論は上がらないが……降伏しないということは、戦うということである。逃げるという選択肢がないこともないが、追いつかれれば、結局は戦いになることだろう。
では、武名を轟かせるベルハルトが、戦ってどうにかなる相手か。「勝算があるんですか?」と、やや暗く、心配そうな顔で尋ねるニコラに、リズは少し間を持たせ……ため息をついた。
「勝ち目がゼロとは思わない。やれるだけのことはしようとは思うわ。ただ……もう少し、別の考えがあるの」
考えがあるという彼女の言に、仲間たちが顔色を少し変えて身を乗り出してくる。
一際気遣わしい様子のセリアも、この言葉には息を呑んだ。
そんなー同を前に、リズは苦笑いで「話せば長くなるんだけど……」と切り出し、考えを口にしていく。
長話の内容というのは、継承競争についての考察だ。
論理展開の最初に、彼女は自身が標的になっている事実と、これまでの王室の在り方を指摘した。
ラヴェリア現国王バルメシュは、他の兄弟が全滅した中、一人勝ち残って玉座に着いたという過去がある。
そして、詳細不明な血みどろの惨劇を乗り越えた彼が、今では覇権主義国家の君主ながらも大きな戦を起こさず、太平の世の名君として称えられているのだ。
一応の実子であるリズとしては噴飯モノな話だが、腑に落ちる流れではある。
重要なのは、彼を支える諮問機関の枢密院の面々も、同様の悲劇を乗り越えてきたであろうということだ。そんな彼らが、今回の継承競争を承認し――
王命という形で王の子女にそれを強いている。
「たぶん、『前回ほどの悲劇にしてはならない』と、考えていると思う。一方で、『我々があれほどの大乱を乗り越えたのだから、当代の王室にも、それなりの試練はあって然るべき』とも、考えているんじゃないかと」
「だから……リズ一人が標的になる形に?」
「そう思ってるわ」
父王から直々に手渡された、継承競争の裏の歴史を収めた禁書。優れた師をつけてもらっての、勉学と訓練。それらが導き出す、リズにとっては妥当な結論であった。
話の筋は通っている。そこまでは認めているのだろうが……仲間たちの顔は暗い。おそらく、リズの事を気遣っての反応だろう。
そういう皆の有り様に、リズは「ありがとね」と口にした。
「ただ、話はここからが本番なのよ」
自身が儀式の生贄、それも大列強ラヴェリアから付け狙われている――そんな酷薄な前提をものともせず、彼女は考察を続けていく。
王、枢密院、各継承権者……それぞれの間で、継承競争に対する思考に違いはあるだろうが、共通している可能性が高いと思われる事項が一つある。
それは、リズ以外の兄弟間で確執が生じ、後に響くような事態を誰も歓迎しないだろうということだ。
いくらリズに後ろ盾がないからといって、それなりに標的として機能する人物に仕立て上げるには、相応のリスクとコストを伴ったことだろう。
そうして格好の標的を用意しておきながら、実際には兄弟間で争いが生じる――というのでは、関係者にとって本末転倒に思われる。
よって、良好な兄弟仲を害さないためのルールが、継承競争に存在するのではないかとリズは考えた。
もっとも可能性が高いのが、継承権者一人ずつで事を仕掛けるというルールだ。
実際、同時に複数の勢力から刺客が差し向けられることはなかった。
これは、明らかに何らかの理由があってのことと思われる。
なぜなら、リズが他国で野放しになっていること自体、計算できないリスクがつきまとうからだ。彼女の始末を重視するならば、多くの勢力で連動し、一気に決着をつけるのが合理的に思われる。
しかし、現実にはそうなっていない。
おそらく、合同で動いた時、誰の手柄とするかで衝突が生じることを憂慮しているのだろう。継承権者本人たちにそのつもりがないとしても、支持者までがそのように振る舞うとは限らない。
同時に複数勢力が動くことを容認すれば、妨害や横取りの可能性も出てくる。
……というより、それを警戒するようになる。兄弟間で暗闘が始まる可能性が高まるわけだ。
そうした事態は、王の実子一人を犠牲にしたことの趣旨にそぐわないのでは――
といった旨の見解を、当の生贄が仲間たちに言ってのけた。
当然、彼女はこれが推測でしかないことを認めた。ただ、この推論を支持するように思われる材料が、つい先日手に入ってもいる。
「あちらは、ここで長居できないって話だった。色々な部署が関わった案件だから、その都合で……みたいな話だったけど。そもそも、継承競争自体も、時間制限はあるんじゃないかと思う」
「確かに、継承競争が一人ずつ仕掛けてくるものとすれば、作戦行動を実行する期間について制限を設けるのが妥当でしょうね」
ニコラの言に、他の面々がうなずいていく中、リズは言葉を継ぎ足していく。
「各部署の都合に加え、今回の遠征を他国にも通達したというのも、長居できない理由ではあるでしょうね。ただ、そういう外部向けの理由付けの存在は、継承競争において時間制限が存在するという仮定を支持するようにも考えられるわ」
「なるほど……仮に継承競争上のタイムリミットがあるとしても、向こうは正直に言えるわけはない。であれば、それらしい別段の理由があることが、かえって向こうにはうまく働くと」
話を繋いできたセリアに、リズはうなずいた。彼女らの言葉に納得した様子のマルクが、続いて見解を口にする。
「さすがに、それで確定というわけじゃないが……相手方にとっての期日とやらが、実際には制約力がかなり高いものという可能性は、無視できないな」
「それに海賊船を押し付けましたしね。面倒が起きる前に、速く離脱したいという考えは当然あるでしょう」
こうした推定を前提に、リズは間近に迫る戦いについて、一同に考えを告げた。
「とりあえず、相手の方が明らかに強いと思うけど、一応は戦うわ。万一うまくいけば、相手の身柄を引き渡して、何らかの交渉に持ち込むつもり。でも、本命として考えてるのは時間稼ぎの方ね」
「相手の期日を超えさせるってことか」
「明確なリミットがいつなのかはわからないけど。でも、まともに戦うよりは、そっちの方が目があると思う」
もちろん、時間稼ぎがうまくいくという保証はない。相手が言う期日が、実際にどういう性質のものかも不確かだ。
その時まで粘って、引き下がってもらうというのは、希望的観測でしかない。
しかし――あの対話において、兄はあまり戦いたくなさそうだった。
では、引き返すための、ちょうどいい口実を用意すれば、そちらを選んでくれるのでは?
戦術の土台は不確かな憶測でしかない。
それでもリズには、普通に戦うよりは、随分と目のある賭けに思われた。




