第150話 血戦の前に
欄干から軽やかに身を躍らせ、《空中歩行》で海面まで駆けていくリズ。
ありがたいことに、後ろは静かでいてくれた。この調子なら、心騒がせるものもなく、戦いに専念できることだろう。
我が事ながら、思っていた以上に落ち着きのある自分を感じながら、彼女は海原の上を走った。
ややあって、向こうからも一人、同様に近づいてくるのが感じ取れた。
事前の取り決めがあったわけではない。しかし、まるで示し合わせたように、二人は二隻の中間へと向かっていく。
そして……凪いだ海面の上、二人は無理なく声が届く位置についた。
見たところ、ベルハルトは徒手である。
一方、リズは腰のホルダーに魔導書を携えており、念のために《インフェクター》も、自室からすでに帯剣している。
だからといって、油断しようという気などまるで起きはしない。
そうして身構えるリズに、まずは兄が問いかけてきた。
「決心がついたようだな。聞くまでもないって感じはするが……一応、聞いておこうか」
「降伏はしない。戦うわ」
正面から堂々と、彼女は言い切った。その宣言に対し、顔に若干の悲哀の色が差す兄に、彼女は言葉を足していく。
「私は……あなたの言葉は、信じられるとは思ってる。だけど、国は信じない。だから戦うわ。それに……降伏した私の助命なんかで、あなたが立場を悪くしてしまうのは、なんだか寝覚め悪いもの」
「そうか……そんなことは、気にしなくていいんだけどな」
「優しくて、物分かりいい所見せた方が、色々と甘くしてくれるかと思って」
冗談と本気が半分ずつの発言に、兄は苦笑を浮かべた。
それからすぐ、彼はため息をつき、柔らかな口調で話を持ちかけた。
「お前がそのつもりなら、私も戦おう。ただ……せっかく、周囲に邪魔がいないんだ。少しくらい話をしよう」
「またグチっぽくなる?」
リズの返しに、彼から含み笑いが漏れる。これから決闘しようという雰囲気ではない。
ただ……他に誰もいない中、言葉を交わしたいという気持ちは、彼女にも理解できた。
事が始まれば容赦する兄ではなかろうが、思う所あるならば、今のうちに聞いてあげてもいい。そういう、思いやりにも似た気持ちも。
彼女は、少し緊張を解いた。この機に乗じるほど、卑しい兄ではないという信頼あってのことだ。
そうした空気感を会話の了承と捉え、彼は「悪いな」と口にしてから、ただの雑談のような調子で言葉を続けていく。
「一つ、思ったことがあってな。お前が、今の継承競争の標的ってことは……ある意味では、次の王が誰になるか、それはお前次第という部分もあるってことだ」
「まぁ、そういう面はあるでしょうね。王位に継がせたいやつのために死ぬって道も、ありえなくはないでしょうし……」
「そこまでは言ってないさ。ただ、次代のラヴェリア王を定めるなんて、誰にも持たせられない強権だ。そのごく一部を、国賊とされているお前が握っているってのは、なんとも皮肉な話だと思う。お前を追い出した連中は、そこまで考えてないかもしれないけどな……」
そう言って苦笑いした後、まがりなりにもここが戦場という自覚はあるのだろうが、彼は瞑目した。
彼の堂々とした佇まいに、リズは呆気にとられた。この隙に、などという気持ちすら起きない。彼女はただ、黙して兄に視線を向けた。
やがて、彼は目を開け、神妙な面持ちで言った。
「私が戦わないと、他の兄弟への示しがつかない。そんな諫言があっただろ」
「ええ、覚えてるわ」
「彼の発言は正しい。降服を受け入れられなかったのなら、戦うしか道はない。一戦も交えずに取り逃がすなど、我が国にも私にも、あってはならないことだからな」
彼はあくまで、自身が置かれた立場からくる責任や使命から、この戦いに臨むようだ。そして、彼は続けた。
「お前と一度、戦ってみたいとは思っていた。実際にどれほどのものだろうかと」
「そう……ちょうどよかったじゃない」
「そうでもないさ……」
寂しそうにつぶやき、彼は右手を軽く海面に向けた。
すると、その手が青白く輝き始め、光の粒子が整列して形を成していく。
瞬く間に出来上がったのは、青白い優美な刃を持つハルバードであった。
「レガリアっていうのは……まぁ、知ってるとは思うが」
「そ、それはそうだけど……」
話の流れに、リズは当惑した。まさか、自己紹介でもする気なのではと。
それも――歴史家の間ですら、その存在を明言しないよう配慮が感じられる、レガリアについてを。
これが駆け引きの一環か、それとも単に話したいだけか。内心を読み切れない彼女の前で、彼は堂々と続けていく。
「これが私のレガリア、《夢の跡》。この手で直接破壊した武具や兵器……あるいは、私自身が殺めた人間の得物を、この手で私なりに再現できる」
「……そんな重要なこと、言っちゃってよかったの?」
「ま……別にいいだろう。すぐに知れることだし、私の部下も、私がこういう力を操るってことは知っているからな」
そう言って彼は、きらめく白刃をリズに向けた。
「私が手の内を紹介したからと言って、お前にもそれを求めるつもりはない。なんというか……国家ぐるみでお前のことを付け狙い、嗅ぎ回ってたからな。いや、その調査に関わった者を批判するわけじゃない。ただ……このままでは、私の果たし合いとして、あまりにもアンフェアだと思ったんだ」
「何言ってるの? 実力差がそもそもアンフェアでしょ。ついでに両腕でも縛りなさいよ」
向けられた刃に臆せず、冗談交じりの要求をするリズに……兄は笑った。
そして、もしかすると見納めになるかもしれないその笑顔が、少しずつ自嘲じみた冷笑へと変わっていく。
「私の"コレクション"が増えること自体、私にとっては決して望ましいことじゃない。無生物の破壊であっても……何かを作れる奴の方が偉いと思っている。壊すしか能がない奴よりはな。だとしても、私みたいなのが戦い続けなければ、私たちの国は自壊してしまうのではないかと危惧しているんだ。だから私は、戦う姿を……王族がしっかりと強いところを、臣民に示し続けなければならない」
世界に英名を轟かせる圧倒的な強者でありながら、彼は悲壮感すら滲ませる様子で、自身と国を語って見せた。
ラヴェリアという国が、その頂点に座す王室がそういうものだということは、リズもおおむね感じ取っていたことである。
王族という紛れもない強者が、力を示し勝ち続けることで、権威と敬意が保たれている。
それが損なわれれば、王室が今まで抑えつけてきた、優秀な人材の野心が解き放たれる。残るのは、その野心と才能で分断されかねない版図だけだ。
人一人の意志では、もう引き返せない領域にある。国も、王室も――
そして、リズたちも。
静かな海面の上、退治する二人の間に緊張感が満ちていく。
やがて、彼は言った。
「悪いな、付き合わせてしまって。殺したくないのは本音だが、こうなっては戦わずに済ませることができないのも本当だ。だから……」
最後の言葉に、かなり逡巡する様子を見せた彼は……ついに、請願するような声音で、その言葉を口にした。
「どうか、生き延びてくれ」
「……バッカじゃないの!?」
そうは言われても、兄から立ち昇る闘志の気は、とても手加減で済ませようというそれではない。
殺したくないと言いつつ、戦いは本気にしか見えない。たとえ、そうせざるを得ないのだとしても――
妹の鋭い声に、彼は苦笑いし……そして、ゆっくりと振りかぶった。




