第147話 兄と妹
継承競争開始よりもずっと前から、そのことを知っていたのでは――
ベルハルトからの問いに、リズは一度そっぽを向いた。
周囲の官吏と目が合うと、それとなく視線を逸らす者もいれば、居心地悪そうに表情が固まっていく者も。このまま聞いていい話題かどうか、戸惑っているようにも感じられる。
ただ、問いかけてきた当人を見る限り、人払いしようという考えはないようだ。彼はただ、リズにまっすぐ視線を向けていた。
「……逆に聞きたいんだけど、どうして前々から知ってたって思うの?」
「覚悟も備えもない奴の立ち回りとは思えなくてな。知っていた上で自分を研ぎ続けなければ、生き残れはしないと思った」
実際、自分の運命を知っていなければ、ここまで生き永らえることはできなかっただろう。称賛の響きもある兄の言は正しい。
彼への返答を、はぐらかすことはできる。
ただ……言ってしまうことで、大きな問題が起きるとは考えにくい。
それに、聞いてくれる相手、言える場というのは貴重だ。特に、こういう話題は。
リズは思い切ることにした。
「先に言っておくけど、グチっぽくなるわ」
「それはお互い様だ」
「あと……こんなところで、私相手に不敬だとかなんとか言わないでね。その咎を問おうものなら、きっと反抗するわ」
この宣言の意味するところを、すぐさま察知したようで、兄は少し顔を引きつらせた。周囲の官吏に比べれば、まだずっと余裕があるようだが。
それからリズは……誰かに面と向かって話すことになんとなく抵抗を覚え、頬杖をついてその辺の壁を見つめつつ、ポツリと零していく。
「そうハッキリと知らされたわけじゃない。ただ、私の方がそう察した感じで……」
「何かきっかけが?」
「まぁ……数年前、あなたのお父上から、本を一冊手渡されて」
ベルハルトの父上と言えば、言うまでもなくリズの父でもあるのだが……あえて持って回った表現に、わざわざつまらない指摘を入れる兄ではない。
彼はただ、「どんな本だったんだ?」と、話の続きを促した。
「代々の継承競争の……勝者と犠牲者が記されてた。メインは死人の方ね。どういう家系の人間で、どうやって競争に関わって死んだか……歴史の表舞台に出ない分まで、詳細な記述があって。たぶん、枢密院と祭礼省でも、最上部しか知らない機密書だったのだと思う」
言葉を切ると、場が静まり返った。多弁な方であるベルハルトも、今は神妙な表情で黙している。
その視線に慈悲深いものすら感じつつ、リズは先に進めた。
「私みたいな境遇の人間も、結構見つけてね。本を受け取ったのは宵の頃だったと思う。それで、自室に帰って読み始めて……私と似た人を一人見つけてから、本当に食い入るように読み込んだ。気がつけば夜が明けてて……外がやけに眩しく見えたのを、今でも覚えてる」
「……そうか」
一言、どうにかと言った感じで返した兄だが、それきりで後が続かない。そんな彼に、リズは言葉を続けていく。
「それで……読み終えてから呆然として、涙が出てきたことも覚えてる。殺されるために生まれて、生かされてきたんだとか、そんなことを考えてた記憶もある。ただ……」
「何かあったのか?」
「……最初は死にたくなったけど、泣き止んで落ち着いて……数日もすると、考えが変わってきた」
そこで、リズは深く息を吸い……恐れ知らずな言葉を繰り出していく。
「実の娘に、こんな運命を背負わせるつもりで、しかし勅命や説明を自ら口にするわけではない。ただ本を渡して文字に語らしめ、本人が察するに任せる……そんな卑しい男が実の父だと、名だたる大列強の君主だと思うと……本っっ当にやりきれなくなって、泣いてたのもバカらしくなって。アレの血を引いてる事実に泣きたくなるぐらいで」
口にしている間、どういうわけか、彼女は少しだけ楽しくなってきた。沈鬱な過去を語っているはずなのに、心が解放されていく快感すらある。
いや、口にしたのは、すでに乗り越えてきた過去なのだ。打ち克ってきたその時の心地のままに、言葉を続けていく。
「死んでやれば、それはそれで復讐にはなるかも、とは思った。競争の標的がいなくなれば、嫌がらせになるかと思ってね。でも、そういう形でしか復讐を果たせないのも、せせこましい限りだと思って……」
そこで彼女は一息入れ、兄を――自分を殺しに来た、ラヴェリアが誇る勇士を――真っ直ぐ見据えて言い切った。
「だから、生き延びようと思ったのよ」
そして今、こうしてここにいる。
彼女の言葉に対し、兄は笑い飛ばすでもなく、真剣に受け止めているようだ。しばしの間、彼は瞑目した。
言葉を待つリズは固唾をのみ、膝の上に置いた拳には力がこもっていく。
やがて、彼は口を開いた。
「本はどうしたんだ? さすがに、もう手元にはないだろうが」
「裏庭でメイドのみんなとお芋を焼いたときに、ちょうどいいと思って使ったわ」
「そ、そうか……たくましいな」
実を言うと、焼却した本に記されていた情報は、全てリズの中に刻み込まれている。
それに、実父から与えられた本は、今話した一冊だけではない。時間・空間系統の禁呪のうち、初等クラスらしきものが収蔵された、いわゆる禁書も与えられている。
あらかた読みつくした後、それも焼き捨ててしまったが。
そちらの一冊の存在も、彼女が自身の運命を察する助けになっている。
すなわち、「これでも読んで、競争の体裁を保てる程度には永らえてみせよ」といった、実父からのメッセージだったのではないか、と。
その後、しばらくの間、場が静かになった。
残る話題は、あと1つ。軽くため息を付いた後、リズは真っ向からそれを問いただした。
「こんなところまでいらっしゃった理由、最後の1つは?」
「ああ……継承競争のためだ」
落ち着いた口調の明言に、リズの胸中で鼓動が増していく。
その時が来たのかもしれない、と。
生き延びようと思って、ここまで生きてきた。それも、近い内に終わりかもしれない。諦念と覚悟は胸の中に確かにある。目の前の相手が自分よりも強いことに、疑う余地はない。
それでも諦めきれないのは、ここまで生きてきたからこそだ。
胸裏に這い上がってきている暗澹としたものを吐き出すような、深く長いため息の後、彼女は先を問いかけた。
「一騎討ちがいいって話だったけど……場所でも変える?」
「いや……」
答えた彼の態度には、煮え切らず迷いがあるようで――
もっと言えば、あまりその気がないようにも。
戦いを間近に控える身とは思えないほどに、どこかアンニュイな様子の彼は、目を閉じて息を吸い込んだ。そして……
「お前が、私の部下になるのなら……いや、別に仕えるのが私じゃなくてもいいんだが、ともあれ……お前に降伏する気があるのなら、私は助命嘆願しようと思っている」
すると、周囲の官吏たちが一気にざわつき出した。
これまで、会話の流れに気を揉みながらも、静けさを保っていた彼らだが……これは、予想を遥かに超えるお言葉だったようだ。
彼ら官吏たちは、ラヴェリア側ということで一括りにしても、各々が抱える事情は違っているのだろう。
ただ、継承競争という面においては、この場の官吏たちは第二王子へのお目付けで共通しているようである。そういう印象を、リズは抱いていた。
そして……戦わずに済ませるという王子の選択に、彼らは泡を食っている。
そんな彼らの反応から、リズは一つの閃きを得た。
(この継承競争は……単なる勝ち負けではなく、私の殺害を要件としているのね……)
ベルハルトが口にした助命嘆願という言葉、周囲の戸惑いは、リズの死を以って競争の勝者を定めるというルールの存在を思わせる。
それに、彼女には前からちょっとした手がかりもあった。魔神との戦闘において盗み見た契約書では、彼女の殺害を目的とする旨の明記があった。
もっとも、魔神との契約というものは、往々にしてそういったものであるのだろうが……判断材料の一つにはなる。
これらの材料を元に、継承競争のルールを仮定してみれば……降伏で以って事を決しようというベルハルトの考えを、周囲の官吏たちが受け入れられないように見えるのも腑に落ちる。
そうして思考を巡らせていき、一つの気づきを得たリズは、こんなことを考えるほどの余裕がある自分の落ち着きに気づき、ハッとした。
争わずに済ませようという兄の言葉を、無意識に信用していたからこその、この余裕だったのかもしれない、と。
実のところ、話はどのようにも転び得る。助命嘆願がうまくいくというのは楽観的に過ぎるように思われる上、周りの反応を見れば、そもそも“ラヴェリアとして”降伏を受け入れられるかどうかも微妙なところだ。
そして、周囲の官吏たちは、ベルハルトの申し出に対して何か申し上げねばと考えているらしい。困惑から逡巡へと切り替わり、そのうちの一人が果敢にも口を開いた。
「殿下、そのようなご提案は……」
「何か問題が?」
「恐れながら……他のご兄弟に示しがつかないのではありませんか。ましてや、殿下は我が国が誇る英雄でもあらせられます。それが……」
そこで口を閉ざし、彼はリズに一瞥をくれた後、強く目を瞑った。少し間を開けた後、相当ためらっていたであろう言葉を口にしていく。
「殿下ほどの勇者が、国賊相手に剣も抜かずに降伏を促し……あまつさえその命を赦すなどとは。事の背景を知る者は、これをどのように捉えましょうか。どうか、ご自身に向けられる臣民の目を、今一度顧みられますよう……」
言い切った彼は、真剣な表情のままだが、体にはかすかな震えが見て取れる。
どちらに感じている畏怖であれ、内面を抑え込んでの諫言に、リズは少なからず感服した。国賊呼ばわりされたことのへの皮肉も込め、「よくぞ申し上げた」と、彼に声を掛けていく。
実際、彼は大したもので、継承競争におけるルールに何ら触れることなく、ベルハルトと周囲の関わりについて言及するだけで彼に再考を促している。
おそらく、リズへ与える情報を最小限にという意識はあったのだろう。
諌められた本人も、果敢な進言には相応の敬意を払った。「君が言う通りではある」と認めつつ、その上で言葉を続けていく。
「ただ、私たちが本当の殺し合いを始めれば、お互いにタダでは済まないだろう。仮に私が勝ったとしても……不具になったかつての勇者を、それまでの功績だけで王に認めようと? それとも……その上でなお、不具の君主が戦場に立つことを、我が臣民は熱望すると?」
皮肉を含む冷ややかな言葉に、諫言を呈した彼もたじろいだ。
しかし、ベルハルトは急に表情を柔らかくし、「君は悪くないよ」と穏やかな声音で言った。取って付けたような言葉ではなく、本当に心から口にするような。
それから彼は、リズに向き直って話を続けた。
「戦わずに済ませたいのは本気だ。私も長生きはしたい。それに、お前ほどの人間を殺してしまうのは……なんというか、もったいないからな。とはいえ、いきなりこんな話を持ちかけられても、即断はできないだろうが……」
「それは……ええ」
「それでも、考えてくれてるだけ嬉しいよ」
そう言って、どこか寂しげに笑う兄の顔を見て、リズはハッとした。
話をするためにここに来たというのは、本心だったのだろう。それに――
もしかすると、彼はこれまで切り伏せてきた敵将たちとも、こうした場を設けたかったのかもしれない。
あくまで、彼が持ちかけたのは提案であり、その胸裏まで明かしたわけではないが、リズはその心情に少し触れたような思いを抱いた。
ただ、諸々を勘案したとしても、にわかに応諾できる提案ではない。それは本人も重々承知らしく、自ら問題点に触れていく。
「こういう言うと悪いが……お前の存命一つとっても、説得は難しい。まずは兄弟を説き伏せないといけないが、多数派に持っていけるかどうかってところだ。その後に、枢密院と陛下へのご説得が控えているわけで……」
「それだけで気が滅入るわね……こんな話を持ちかけるだけ、あなたが一方的に損するだけなんじゃない?」
この場にベルハルト直属の部下は少なく、ほとんどが関係諸機関の官吏だ。上への報告義務はあることだろう。
果たして、今回の降伏勧告をどう捉えるか。あくまで、彼が王子ではなく軍人としての立ち居振る舞いを優先したと見ることもできるが、相手は国賊であり、継承競争下という事実も話を複雑にする。
結局の所、今回の降伏勧告は、彼自身も危ない橋を渡っている。本人ほど理解しているわけではないにしても、リズは彼が抱えているであろうリスクに思い至っている。
そんな、彼女が口にした言葉に、彼は小さくため息をついた。そして、直接の回答をすることなく、話を続けていく。
「助命嘆願が成らなくても、即座にお前が殺されるってことはない……と思う。枢密院は、まだ競争という体裁を保ちたいだろうしな。仮にお前が降伏したとしても、その事実はウヤムヤになるだろう。私に何らかの罰則は与えられるとは思うが……説得が失敗した時点で、私は王権に挑むための諸々の権利を返上するつもりだ」
「……本気で言ってる?」
「失敗した時点で敗戦の将だからな、当然だろう。なんなら、念書を交わしてもいいぞ。ちょうど、法務部門の人間もいるしな」
ただ、口でそうは言いつつも、その担当者に視線を向けるほど、彼は鬼ではない。リズをまっすぐ見つめ、彼は続けた。
「ともあれ……対話でこの競争を終わらせるのなら、お前には私に帯同して貰う必要があるだろう。それで……仮に失敗したとしても、再び逃げ切る自信があるのなら、お前にとっては悪い話ではないと思う。私が勝手に脱落するだけだからな」
直接戦えば無事では済まないと認識しつつ、戦わずに済ませれば別のリスクが待っている。その上で、彼は今回の提案をしてみせた。
どう転んでも何らかのリスクがあるのは、リズにとっても同じことだった。
ただ、こうして先行きが不透明な中で、選択に迷いが生じるということは……自分の中にこの兄の言葉への、少なからぬ信頼があるということだ。
その信頼ゆえに、彼女は迷った。
だが、いずれ決断を下さなければならない。
一度静まり返った中、再びベルハルトが口を開いた。
「先にも言ったが、色々な部門が今回の遠征に関わっていてな……早い話、多方面に迷惑をかけてるわけだ。成果を出しているのは事実だが……」
そう言って苦笑いした彼は、すぐに真剣な表情になって、こうしていられる限度を告げていく。
「お前を捕捉した今、そう長居はできないんだ。悪いが、こんな重要な選択でも、あまり時間は与えられない」
「……少しはくれるの?」
「まぁ……5日ってところか。8月22日までだな」
あまり考えず、キリ良くといった感じで答えた兄だが、予想よりも猶予があることにリズはむしろ驚いた。
ただ、下手な事を口にして、期日を前倒しにされても困る。
この期日自体、他の官吏たちから言うことはないようだ。特に口が挟まれない中、彼女は了承の意を告げた。
「わかったわ……それまでに決める」
「それと……これはお前の自由だし、余計な世話かもしれないが」
「ええ、わかってる。後の事も考えて、色々と済ませておくわ」
相手方に与える情報を減らそうと、彼女は言葉だけははぐらかした。
腹を括ったのなら、他のみんなにもそれを伝えようということだ。
もっとも……そうした含みは、兄も十分察するところだろう。彼は寂しげに微笑んだ。
「こんな国で、すまないな」




