第122話 初めての海戦
しばらくの間、リズはボートを走らせ続けた。
小型とはいえ、ボート自体が重量物であり、しかも四人乗っている。これを推進させるとなると、相当の力が必要だろう。
海の男として、そういった点が気になったらしく、エリックはリズに尋ねた。
「相当な負担がかかっているのではないかと思うのですが……」
「いえ、大丈夫です。接近してからのこともありますし、前段階で無理をしないようにと心得ております」
その後、リズは気遣ってくれた青年に「お気遣い、ありがとうございます」と続けた。
一方で、仲間二人は何も心配してくれていないようで、リズに背を向けて海をじっと眺めているが……彼女がどれほどの者か知っていれば、こういう態度はむしろ自然かもしれない。
これも信頼の表れと思い、彼女は仲間の背に力なく笑った。
実際、彼女ほどの魔力があれば、十分にスピードが乗ったボートを動かし続けるのは容易だ。
真っ直ぐ進むだけであれば。
少しずつ、前方の不審船が大きくなっていく。距離が詰まってきている証拠だ。そして――
ドォンと、重低音が前方から響き渡った。不審船が撃ったものだ。
さすがに、軍人であるエリックの行動は早い。彼は《遠話》の紙にすぐさま叫んだ。
「発砲を確認!」
『了解。対象を敵対船と認識する』
と、その時、この会話の間に割り込むように、放たれた砲弾が海に着弾。高速の質量体により、ボートからだいぶ離れたところで海面がえぐられ、大きな水柱が上がる。
前方の怪しい船は、明確な敵へと移行した。旗を掲げない船が、先に艦砲を放ったのだ。
こうして、相手に先手を促し開戦の宣言を行わせたことで、本格的な海戦が始まった。
戦闘が始まったものの、この距離で小舟相手に的中するはずもない。まずは威嚇といったところか。
先の砲撃も、リズの目には避けるまでもないもので、予行演習ぐらいの感覚で回避行動を取った程度だ。
とりあえず、全員に余裕があるうちにと、彼女はエリックに指示を尋ねた。
「何か指示はありますか?」
「まずは、このまま前進を。敵船正面から少し横を目掛けて、距離を詰めていきましょう」
「了解しました」
大砲を持つ艦においては、大砲が整列する両サイドからの攻勢が大きくなる。
逆に、前面は大砲が少なく、攻撃力は側面より劣る。また、正面から軸をズラして近寄られたのでは、回頭しなければ、うまく狙いをつけられない。
そこに付け入ろうというのだ。
しかし……敵のほぼ正面へ、小舟でどんどん距離を詰めていく。この行為を蛮勇と捉えているのか、エリックの顔は冴えない。
そんな中、他のクルー三人はケロッとしたものである。仲間としては頼もしかろうが、それでも彼は、他の三人の精神構造が気になるようだ。彼は、戸惑いもあらわに口を開いた。
「みなさんは、その……恐ろしくはないのですか?」
「いえ、特には……」
「私も、そこまでは」
一応、この策は理にかなったものという、艦長からのお墨付きはある。大船同士の戦いともなれば、損害が出る可能性は高まる。それに比べれば、大海原の中の小舟に砲弾を当てるのは、至難の業だ。
実際、初弾に続く砲撃も、ボートから外れたところ海面を揺らすのみ。さほど恐ろしい攻撃ではない。
しかし――時には中々いいものも飛んでくる。リズが「右に重心を!」と鋭く口にすると、三人はすぐに応じた。重心移動と魔導書の舵取りで、ボートの船首が急激に右へ。
その後の急発進で、四人はボートに体を押さえつけられる格好に。
この機動の後、今までよりも良い狙いだった砲弾が、一行からそう遠くない海面を揺らした。跳ね上げられた海の飛沫が、もう少しで降りかかろうかという位置である。
「もう少し、別の位置へ回りましょうか」とリズは尋ねた。問いに対し、エリックは額を袖で拭い、少し間を開けて返した。
「まずは、敵を分断させたいというのが、我々の考えです。一隻はこちらに引きつけられていますが……あまり近づくと、もう一隻がフォローに入る可能性も否めません」
「確かに。近づいて無力化させるのが目論見ですから、そこをカバーに来る懸念はありますね」
マルクが指摘を入れ、ニコレッタが続いて口を開いた。
「では、近づく前に、もっと引き剥がしたいと」
「はい。二隻から同時に狙われない位置取りを継続しましょう。一隻には撃たせ続け、その船をもう一隻からの盾にする。撃てない船を、遊ばせ続けるような賊でもないでしょう。矛先は、我々の艦に向かうはず」
つまり、一隻をこちらのボートで受け持ちつつ、もう一隻はあの軍艦に任せようというわけだ。
母艦に敵を向かわせることについて、エリックは不安視していない。そこは海軍としての自負があるのだろう。互いに一隻であれば、負けはしないと。
それでも、軍に何かしらの被害が生じれば……懸念を払拭しきれないリズだが、彼女はエリックの考えに乗った。
「では、ちょうどいい位置で動き回り、引きつけて撃たせ続けます」
「は、はいッ!」
エリック自身が提案した策ではあるが……囮役のボートに乗り込んでいるわけで、やはりそういう不安はあるようだ。緊張した面持ちでいる。
ただ、彼はしっかりと仕事を果たした。リズの了解を得た彼は、《遠話》で母艦へと献策していく。
現地の彼が提案するということは、実際に囮として機能する感触があるということだ。これを艦長は承諾し、互いに一隻ずつ受け持つことに定まった。
『本艦は商船の盾になりつつ、敵船を一隻受け持ちます。そちらは負担と危険の大きい役回りとなりますが……ご武運を』
「尽力します」
淡々とした連絡の後、リズはボートを走らせていった。
敵方は、斜め後方にいた二隻目が前へと進んできている。もう少しで二隻が並列になるだろう。
そこで、敵船前方へ近づくのを一度やめ、彼女は大きく迂回して敵船の側方をうかがうように操船した。
これはつまり、敵からより多くの火砲を受けるわけだが……リズの仲間二人に、さほどの不安はない。
やがて、敵船は本領の攻勢を見せつけてきた。側方に並ぶ大砲を一斉に放ったのだろう。轟音の連続の後、いくつもの砲弾が海へと飛来する。
ただ、弾のほとんどは、当たらないとわかりきっていて放つだけの脅しだ。怖じないリズたちには、何の効果も見込めない。見極めるべき砲弾はわずかだ。
この頃になると同乗者も、もはや慣れたものだ。体に伝わる船の動きで多くを察し、リズが言葉を発するよりも前に重心移動が始まる。
波間を縫い、砲弾の連続がそこかしこで水柱を上げる中、ボートは海原の中を蝶のように舞う。
さすがに、敵船側方ともなると攻撃頻度は高く、ボートに海水がかかることもしばしば。しかし――
「もしかして……」
「何?」
「わざと、ギリギリの線を狙ってません?」
勘のいい指摘をする笑顔のニコレッタに、リズも不敵な笑みを返した。
敵船を一隻、こちらに引きつけておきたい。となると、連中に「もう少しでイケる」と思わせる必要はある。
そうした、手の届き得る標的を演じているわけだ。
相手側の考えは不明ながら、事は彼女らの目論見に沿って進行した。敵船一隻が、逃げ回るボートの対応に手を焼く一方、そのボートを狙いに行けない片割れは、軍艦の方へと舵を切った。
そして――ややあって、まともな海戦が始まったらしい。遠くで、大砲が何発も放たれる音が響き渡る。
こうなると、ボートに乗る一行の心境はガラッと変わった。
自分たちが狙われることについて、何ら心配していなかったリズたちだが、軍の側が無事で済むようにと、今の表情には不安と緊張の色が入り交じる。
一方、このようなボートで火線の間を縫う中、落ち着かない様子でいたエリックは、同僚たちが実際に交戦状態に入っても、それを憂う感じはない。
そんな彼の有り様が、リズたちの不安を解消していくようであった。そして、彼が一言。
「みなさん、我が艦のことを心配してくださっていることと思いますが……向こうの方が、こちらをより強く案じていると思いますよ」
――と言った矢先、賛意を示すかのような水柱が、そう遠くない海面で噴き上がる。
「ごもっともかもしれません」と、リズは苦笑いで返した。
本格的な海戦が始まった中、ここで新たな動きをしようという考えは、リズたちにはなかった。まずは囮としての役目を継続し、あちらの形勢が定まってから改めて次の行動に移ろう、と。
そして……程なくして、状況が動いた。素人ゆえの見誤りもあるが、リズが思っていたよりもずっと早く、ケリが付いたらしい。《遠話》を通じて朗報が響く。
『敵船撃沈!』
「被害状況は?」
『特にない。そちらで引きつけてもらえたおかげで、先に良い位置を取れたのが奏功した』
未だ、ボートへの砲撃が続く中ではあったが、リズはひとまず胸を撫で下ろした。
後は、こちらの仕事である。




