第117話 初航海
外洋に出るほどの船舶に乗るのは、リズにとって初めての経験だ。
港から離れていく船の中、乗組員の邪魔にならないように気をつけながらも、彼女は甲板の上を歩いていった。
船首付近に立つと、眼前の壮観が圧倒してくる。
果てしなく続くように見える、深い青色の海原。その上に重なる空は、水平線から上に向かうにつれて徐々に色合いが変わっていく。
光景の雄大さもさることながら、波で少し揺れる足場の感覚も新鮮だ。
こうして様々な初めてが押し寄せる中、しばし立ち尽くすリズだったが……
(私ばっかり感銘受けてるってのも、どうなのかしら……)
雇用主としての自覚が不意に芽生え、彼女は軽く咳払いして三人の方へ振り向いた。
マルクは、甲板右手の方に寄っており、彼なりに航海を堪能しているようだ。
リズの近くには、ニコレッタとアクセルがいる。前者は実に平然とした様子でいるが、こういうキャラというわけでもないだろう。
この慣れ具合に思い当たる節があるリズは、彼女に向かって口を開いた。
「やっぱり、何回か乗ってる感じ?」
「海洋国の生まれでしたので……」
そもそも、ニコレッタは海外からハーディングへやってきた諜報員だ。それに、商業盛んな海洋国の生まれということで、過去にも似たような仕事をこなしていたのかもしれない。
とはいえ、周囲の目もあって、リズは深くは追及しなかった。上の都合で辞めさせられた仕事について、蒸し返されるのも嫌だろう。相手に対する気遣いから、リズは話題の矛先をもう一人に向けた。
残る一人、アクセルはというと、船自体が初めてのようだ。やや落ち着かない様子で、リズほど素直ではないが、ちょっとした興奮が見え隠れする。諜報員としての働きぶりと比べれば、かなりギャップのある姿だ。
これにはニコレッタも気づいているらしく、どことなく目を細めている。
「な、何ですか」
「何でもありませんよ~」
そのままのにこやかさで応じる彼女に、アクセルは照れくさそうに顔を背けて海の方に向いた。
今までの仕事を思えば、お互いにずいぶんと友好的である。こういった傾向は好ましくあり、リズも表情を柔らかくした。
そうしてしばらくの間、船乗りたちの邪魔にならないようにしながら、一行は思い思いに過ごしていた。
甲板には他の客も何人かいる。皆が開港を待ちわびていたということもあってか、そこかしこで歓談に花が咲く。
そんな中、「せっかくだから外で」と考え、甲板上で海を空を見つめてボンヤリしていたリズは、船乗りたちによく話しかけられた。
似たような水兵服を着ているとはいえ、彼ら船乗りが、彼女を同僚と見間違えたというわけではない。むしろ、彼女の装いをダシにして声をかけに来ているという風であった。
さすがに、リズが客であるという認識はしっかりあるようで、ナンパのような度を過ぎるような振る舞いはないが。
ただ、こうして話しかけられること自体、彼女としても幸いであった。彼ら船乗りたちは、リズよりもずっと広い世界を知っている。
出港後、ある程度は船の仕事が片付いたところで、彼女は暇そうな乗組員たちに船旅や海外の国々について尋ねていった。
聞かれること自体が嬉しかったのか、喜んで話を始める船乗りたち。こうして聴く話は、リズの期待通りに中々興味をそそるものであった。
リズの仲間三人も、情報というものに目がないのか、自然とこうした会話に混ざることに。
そうして、甲板の一角にちょっとした集まりが出来上がった。話したがりにも見える船員が、我先にとばかりに話し込む。
と、その時。「サボってんじゃないぞ、お前ら」と一同に声をかける声が。
しかし、声の調子に刺々しさや威圧感はない。声をかけられた船員たちも、「休憩ですって」と軽い調子で返した。
やってきたその男性は、船の船長だ。彼の登場に、リズは自分の服を見直して立ち上がった。
「あの……紛らわしい恰好で、やはりご迷惑でしたでしょうか?」
本職の船乗りたちは、まるで気にしなかった彼女の装いだが、責任者の感じ方はまた別かもしれない。乗船時に彼とは顔を合わせており、その時は指摘を受けはしなかったが……
浮かれた部分があったことを今更ながらに認め、少し恥じるものを覚えるリズだったが、船長は笑い飛ばした。
「ハッハッハ! いや、気分を味わいたいということで水兵服を選ばれるお客様は、ままいらっしゃいます。お気になさらぬよう。部下の顔も覚えておりますので」
「ありがてえありがてえ」
船員の一人が軽口を叩くも、船長は困ったような苦笑を浮かべてひと睨みするのみ。船長直々の許しを得て、リズは安堵した。
しかし少しすると、船長の方は、何やらためらう様子を見せ始めた。まだ何か話があるらしい。
それも、すぐには切り出せないような何かが。
やがて、彼は口を開いた。
「乗客名簿を確認しておりましたが……失礼ながら、お名前をお伺いしても?」
「エリザベータです」
行政サービス上、この名前ですでに手続きを済ませている。今更名前を偽る理由もなく、リズはあっさりと名乗り、記名入りの乗船券を提示した。
ただ、彼女の名乗りに対し、船乗りたちはざわつき出した。
彼らは仕事柄、あの革命については興味が尽きなかったことだろう。新聞を賑わしたあの人物が、自分たちと同じような装いで、つい先程まで歓談していたのである。
船長も、名乗りに対しては少し表情を引き締め、彼は問いを重ねた。
「では、あなたが例の?」
「はい」
すると、船長は頭を下げて陳謝した。
「乗客に対する詮索は、あるまじきことですが……安全保障上、やむを得ず。ご理解いただければ」
「いえ、大丈夫です」
と、そこへ今度はマルクが口を挟んだ。
「安全保障というのは、海賊の件でしょうか?」
「はい」
即座に認めた船長だが、船乗りたちに驚きの反応はない。だいぶ真剣な表情になっただけだ。
「これは、あくまで軍が対応する問題です。他のお客様が、念のためにと私兵を同乗させてもいます。ですが……」
「万一はあり得るという話ですね?」
リズが尋ねると、船長は渋面でうなずいた。
ただ――リズにしてみれば、こうした事態はむしろ想定内だ。彼女は船長に微笑み、声をかけた。
「よろしければ、この件について、もう少し詳しくお伺いしても?」
「ありがとうございます。では」
船長が一行を船室へと促し、リズ以外の三人が立ち上がった。
すっかり真面目モードになった船乗りたちに、リズは「またね」と明るく声をかけた。返ってくる彼らの笑みは、どこかぎこちない。
そんな中、リズの腰を軽く小突き、マルクは小声で尋ねた。
「むしろ、喜び勇んで首を突っ込む予定だったとか?」
「こういうの、好きだと思って」
この小声は、他の二人にも聞こえていたらしい。
何やら巻き込まれに行くような雰囲気の中、リズの仲間たちは、何とも微妙な笑みを浮かべた。




