第110話 革命の顛末
6月3日、朝。
革命勢力は、サンレーヌ城下町を包囲した。
その陣容は、もともとの賛同者に加え、降伏した正規軍の一般兵を大勢含むものであった。主だった将官は捕虜として捕縛され、それ以外を自勢力として併呑したのだ。
この包囲に対し、城内で指揮を振るう上層部は、表立って反応を示すことがなかった。
革命勢力に対抗しようにも、残る戦力は城内の守備兵と、城下町の官憲程度。本格的な戦闘に対応できる武力ではない。
包囲開始から2時間後。上層部よりも先に動いたのは、サンレーヌ市街の市長であった。彼は、恐れ怖じながらも単身で姿を現し、請願した。
「官憲は動かさないように働きかける。その代わり、市街戦だけは避けてくれ」と。
これを、革命主導者クリストフは了承し、革命勢力は戦闘行為なく、その包囲をさらに狭めた。城下町全体を囲うものから、サンレーヌ行政区画の包囲へ。
市中に入り込んだ革命勢力に対し、一般市民の反応は、静かなものであった。
必死で声を抑えているような緊迫した静寂の中、今度は行政区画の壁を挟んで、睨み合いが数時間経過。
この包囲に対し、各所の門を守る門衛隊は折れなかった。いかなる要請も勧告も、彼らは頑としてはねつけた。
結果、市長をはじめとする責任者の苦渋の決断を経て、一つの決断が下されることに。
門の武力制圧である。
市民の目の前で、こういった手を下すこと自体には、革命勢力として抵抗があったのも事実である。
だが、協力者となった各勢力の諜報員たちが、ここは良い仕事をしてくれた。彼らのおかげで、負傷者こそ出たものの、比較的流血少なく各所の門を制圧。革命勢力は、さらに包囲を狭めた。
同日夕刻。サンレーヌ城を包囲して数時間後。
未だ声明を出さない上層部。そこでクリストフは、全軍に城内突入を命じた。
結論から言えば、城内の守備兵は、ものの敵ではなかった。領主が王室から呼ばれるという想定があったのか、守備兵のかなりの割合が会戦の方に回されていたのだ。
加えて、諜報員たちの働きも甚大であった。
もともと、街に忍び込んで仕事をするため、腕を磨いてきたような者たちである。城内の構造を事前に把握できていたということもあり、こと室内戦闘においては、むしろ彼らの庭といった様相であった。
彼らの働きぶりは、もしかすると、免罪のためということもあったのかもしれない。
彼ら諜報員たちと、その背後にある各組織・集団は、今では協力者であるとはいえ、自ら進んでそうしたわけではない。ことの経緯から、革命勢力に対して後ろめたい部分があったのも事実だろう。
実際、モンブル砦の確保においては、敵対的な行動もあった。
そうした影を払拭し、新たな権力の立役者として心証をよくしようという意図は、やはりあったものと考えられる。
突入が始まって以降、徐々に、確実に、革命勢力は城内を制圧していった。
制圧において中核的な働きをした、諜報員たちやリズ、そして傭兵たちは、クリストフの意をよく汲んだ。
敵は可能な限り殺さないように、というものである。
それは、城近辺の住民感情を慮っただけのものではない。高官たちには、生きて負ってもらわねばならない責めがある。
だが、そういった考えがあっても、命だけは助けておきたい当の相手が混乱の極みにあっては、死傷者が出てしまうのも場の流れであった。
主だった犠牲者は、軍拡にあたって辣腕を振るった武官、セドリック・コーベット。
しかし、彼を殺したと名乗る者は、ついに出なかった。
そして、完全に日が沈んだ頃。城内の地下から頂上まで、完全に掌握するに至り、クリストフは同志たちとサンレーヌの民に宣言した。
「これで、戦いは終わった」と。
☆
戦闘という意味での戦いは終了したが、別方向での戦いは、むしろ始まったばかりといったところだった。
終戦宣言をしたクリストフ自身、そういった想定はあったが、後に始まった政治的な激動は、彼の予想を少し上回るものであった。
サンレーヌ占拠の翌日。ルグラード王国王室は、係争地ハーディングに隣接するクレティーユを始めとする国内各領主との総意に基づき、今回の革命について公式な考えを示した。
「条件付きであれば、この革命勢力を正式な統治機構と承認し、領内の統治権を認める」と。
その条件というのは、主に2つ。
1つは、領内の元上層部の各高官・重臣に対する各種処罰において、各領主の見解を熟慮した上で、王室の名のもとにこれを行うということ。
2つめが、領内統治にあたり、十分に安定したと認められるまでの期間、隣領クレティーユと王室からの出向者を上層部に置き、その監督権を認めること。
革命勢力――改め、ハーディング領新政府としては、これを呑む以外の選択肢はなかった。
お目付けがあるということ、そして、サンレーヌ占拠直後に間を置かずの申し出は、こうなることを待っていたようであり……いいところをかっさらわれた感が否めないのは事実だ。
だが、民意を実際の政治に反映させたいという、当初の目的からすれば、むしろお目付け程度の枷でしかないのは、過ぎたる大権と言っても決して過言ではない。
実際、革命直後の領内を安定させるにあたって、出向してきた経験者たちの見識は大いに役立った。
加えて、元の権力者たちに対する処罰について、他の領主たちも関わってくると公式な宣言があったことは、新政府の負担を大きく軽減することとなった。
新政府の新人たちでは振るえないほどの大ナタが、呆れるほど縦横に前任たちを裁断したのである。
今回の政変において、まず責任を問われたのが、前領主ハーディング伯である。
彼自身に大きな咎があったわけではない。
ただ、部下たる武官・文官を、意のままに監督・運用できなかった不明は大きい。
あまつさえ、革命成立直前という大一番で、配下に裏切られて身柄を売られそうになるというのは、領主としてあるまじき失態であると。
そのため、多少の斟酌を加味しつつも、ハーディング伯爵家は取り潰されることとなった。
伯爵自身は爵位を剥奪の上、王室監視下で、一族とともにほぼ軟禁されることとなる。
次いで、軍備増強の流れに乗じて私腹を肥やした者たちの存在が、各種会計記録から明るみになり、処罰される運びとなった。
官位が高かった首謀者は、投獄後に獄中で処刑。片棒を担がされたものと思われる会計係等の実行犯は、官位剥奪の上で流罪、禁固刑など。
また、これら横領と着服の横行においては、サンレーヌ占拠の折に死亡した武官、セドリック・コーベットの名が浮上した。
おそらく、彼は多くの事情を知っており、そのために口封じで殺されたのだろう。真相は不明だが、今回の一連の処罰においては、それが公式見解となった。
こうして、領内上層部を占めていた武官・文官は、ほとんど一掃されることとなった。
その席を埋めるのが、今回の革命を主導した者たちであり、補佐役として出向した者たちであり、そして領内から推挙された者たちである。
文官のポストが埋まっていく一方、ハーディング領軍部については、国境を守っていた部隊から将官を中央に招くことになった。
結果、中央から離れて僻地を守っていた部隊においては、繰り上がりも多発。
政変から遠くにあった彼らにしてみれば、中央で勝手に物事が進むのは、あまりいい気がしなかっただろう。そうした多少の不満は、今回の抜擢が帳消しにした。
領内の人事が大きく動く一方、外交関係もまた、大きな動きを見せることとなった。
ハーディング領とラヴェリア聖王国の間にある、隣国セントアムに対し、ルグラード王国は、不用意な軍備増強という形で安全を脅かしたことを正式に謝罪した。
領内主導陣の刷新、領主の爵位剥奪と伯爵家取り潰しを断行したのは、この罪過の重大さを認め、前任者の誤りを正すためのものであると。
そして、ルグラード王国を通じ、セントアム王国には迷惑料が支払われることとなった。
これに対し、小国セントアムは、謝罪を受け入れるとともにハーディング新政府の樹立を承認。近く会談を申し込む考えを表明した。
また、セントアムはルクラードに対し、国境近くの戦力を削減することを要求。
ルグラード王国とハーディング新政府は、これに即応し、平時において相当量と認められる部隊のみを残し、後の兵を領内の各所へと移動させた。
そこへ噛みついたのは、ラヴェリアの外務省である。
過分な軍備増強であったと認めるのならば、退かせた兵は兵のまま運用するのではなく、退役させるのが妥当ではないか――というのが、彼らの主張だ。
これに対するルグラード新政府の言い分は以下である。
まず、不適当であったのは、セントアム方面における軍備増強のみであった。革命が成立したことからも明らかなように、領内の自衛能力には不均衡があり、これを放置するわけにはいかない。
当然、自発的な退役は尊重する。しかし、前政府が行った募兵とはいえ、それに応えた者たちから権力の手で武器を取り上げるのは、形を変えた圧制ではないか。
この言い分を、ルグラードと交易関係にある商業国の多くは支持した。
曰く、今回の騒動で海上封鎖され、多大な実害を被った。新政府に対しては、バランスの取れた軍事感覚を期待すると。
こうなっては、ラヴェリアも矛を収めるしかなかった。




