第109話 勝利の味
エリザベータ・エル・ラヴェリア殿へ。
前略
貴女もすでに知っての通り、我が国及び王室は、次期王位継承競争のため、貴女と敵対関係にあります。
今回、サンレーヌでの会戦に我が国の武官を遣わせたことも、その一環とお考えのことと思われます。
この書状は、本件に関する弁明です。
今回の戦闘において、私、アスタレーナ・エル・ラヴェリアは、次期王位継承権者の一員ではなくラヴェリア外務省の一員としての決断を下しました。
まず、戦闘に先立って貴女が魔神殺しという勇名を流布していることから、実戦において相手方にそれとわかるよう、単騎で行動するのではないかと考えました。
あなた方も、相手側の陣容については、事前にある程度把握していたものと思います。正規軍側の構成が、大多数の新兵と少数の精兵という組み合わせと知っていれば、貴女が精兵側に向かうのも道理ではないかと。
ただ、貴女がこの戦闘で命を落とす懸念がありました。仮にそうなった場合、継承競争の上でも問題はありますが、外務省としてもそれは避けたい事態でした。
貴女の戦死が、この革命に多大な悪影響を及ぼすのではないかと。
この手紙を読んでいるということは、あなた方は戦いに勝ったのでしょう。
ですが――おそらくは傷つきながらも勝った者に対し、大変に失礼な物言いかとは思いますが――革命は、まだ終わっていません。
これよりサンレーヌ城まで攻め上がり、新権力を樹立させなければなりません。
その後も、領内が一通りの安定を見るまで、様々な面倒があることでしょう。
そういった流れの中、貴女になし得る役目というのは、決して軽いものではないと思っています。
ラヴェリア外務省としては、新権力がどうにか独り立ちできるまでの間、貴女には彼らを支えてほしいと考えています。
こうした請願に対し、貴女が反感を抱くのは当然のことと思います。
ただ……具体的には申し上げかねますが、ある程度の期間は、継承競争があなた方を煩わせることがないように、私がこちらを抑える考えです。
貴女が信じようと信じまいと、ハーディングの新権力と地域一帯の平和秩序のため、私はそのようにします。
なお、今回の戦闘において、ローレンス・マクダウェル殿を派遣したのには、もちろん理由があります。
まず、戦闘に介入して生き残り、そして貴女の助けになれる程の戦闘力があること。
軍属でありながら、一個人として外務省管掌下の特殊作戦に協力できる、政治や外交に広い見識と視野を持つ人材であること。
まかり間違っても、貴女と殺し合いにならないであろう人材であること。
以上を踏まえた結果、有望な選択肢はごくわずか。スケジュールの逼迫もあり、彼を起用する運びに至りました。
彼が貴女にとって、武芸の師の一人であったということは、私も当然知っています。知っているがゆえに、彼なら安全と判断した面もあります。
しかしながら、貴女が異国の戦場で彼と対面することで、心休まらない思いをする可能性の想定はありました。
私が明らかにしておきたいのは、彼はあくまで外務省の意向の下で動いただけであり、貴女がこの手紙を読んでいるということは、彼は誰にも恥じることのない働きをしたということです。
この件に関し、貴女が不愉快な思いをしたというのであれば、その非は我々ラヴェリア外務省にあります。
最後に。
今回、ラヴェリア外務省としては、貴女とある程度利害の一致を見ることとなりました。
とはいえ、この件で恩を売れたとは思いません。我が国の同胞が、ハーディングに行った仕打ちを思えば、償いにも至らないというのが実情でしょう。
そして、貴女と私たちの関係は、何一つ変わりません。
私たちラヴェリア王室は、依然として貴女の敵です。
☆
リズは無言で手紙を読んだ。魔力で刻まれた文章を、彼女は自分の中に刻み付けた。
魔法に頼らずとも、心が勝手に刻み込むようであった。
やがて、ひとしきり手紙を読み終えた頃。彼女が師の方に顔を向けると、彼はその場にじっと佇んでいた。
「読む?」と問いかけるも、師は首を横に振る。
「私ごときが立ち入るべきとはないかと……」
「こんな王室ごときに、もったいない人材だわ」
皮肉たっぷりに言葉を返す教え子に、師は微妙な笑みを浮かべた。
その後、手紙を丁寧に畳み、濡れっぱなしのポケットにしまい込むリズに、師は「これで」と言った。用が済み、この場を離れようというのだろう。
実際、彼がこの場に留まったのでは、後が面倒になるのは明らかだ。
しかし、リズには、彼に言っておくべきことがあった。彼に、というよりは、彼を通じてというべきか。
「待って」
「何か?」
「少し前、この領内で死霊術師が出たことはご存知?」
この言葉に、師の顔はにわかに真剣味を帯びて険しいものに。「初耳ですが」と彼は言った。
「……ということは、殿下が戦われたと?」
「まぁ、ね」
答えると、緊迫感を持っていた師の顔が、少し柔らかくなった。どこか寂しげな、哀愁を漂わせる微笑だ。
この表情の変化に、リズも思うところないわけではないが……年長者が見せた、優しい気遣いだと思っておくことにした。
実際、この先を思うと気が沈む彼女にとっては、ささやかだが確かな慰めであった。軽くため息をつき、彼女は続けていく。
「相手の名前はコルネリア・ウィスラー、出身地はサヴァノアってところ……そいつが死ぬ前に、それだけは絞り出せたわ。死霊術師が出た事自体、外務省は把握済みだとは思うけど、それ以上の情報はないと思って。然るべき相手に伝えてもらえるかしら?」
「かしこまりました」
死霊術師が相手ともなれば、ラヴェリアと敵対だのと言っていられる場合ではない。この情報共有自体、リズとしては当然の行いであった。
それに……この情報を、姉は外交的にうまく使ってくれるのではないかという目算もあった。
後は、ラヴェリア側もすでに知っていたであろう死霊術師の話題を蒸し返すことで、あの根暗な妹に恥ずかしい思いをさせ、次を牽制しようという考えも。
それだけ伝え、「以上よ」と結ぶと、師は深く頭を下げて立ち去っていった。名残惜しさも警戒心も見せず、ただリズに背を向けて、雨降りしきる中へと消えていく。
師の背が見えなくなるまでの少しの間、リズは目で追い続けた。
その後、ややあって、彼女のもとに川を超えてきた仲間たちが近づいてきた。傭兵連中が10人ほど。
リズの姿を見るなり、集団から真っ先に駆け出してきたのは、傭兵の中でもとりわけ仲のいいマルグリットだ。普段の軽快な明るさは鳴りを潜め、駆け寄ってきた彼女は、リズを無言で抱きしめた。
少し遅れてやってきた仲間たちは、神妙な顔をリズに向けてくる。安堵、敬意、申し訳無さ。銘々が思い思いの感情を視線に乗せ、しばらくの間、一行は無言のまま雨中に佇んでいた。
ただ静かに、再会の喜びを分かち合って少し後、リズは仲間たちに後事を引き継いだ。
降伏を装った騙し打ちの線は否定しきれないが……こういったことについては、仲間たちの方がプロである。
それに……仲間たちのいずれもが思わず心配してしまうほどに、今のリズは疲弊があらわであった。
結局、本隊へ合流しようと対岸へ向かう彼女に、マルグリットが念のための介添えとして同行することに。
《空中歩行》で川を渡る間も、二人は無言であった。繋がれた手は、お互いに雨で濡れきっていて冷たい。
ただ、握っているだけで、暖かさを取り戻すようではあった。
やがて対岸に着いたリズは、友人から手を離すことに若干の抵抗を覚えた。そこへ、心中を察したかのように、友人のしめやかな声が。
「もう少し、ついてく?」
「……いえ、いいわ。大丈夫」
「ホント?」
「おかげさまで」
本隊の様子は、戦闘中も気がかりでしかなかった。だが、今では、そちらへ向かうことをためらわせるものがある。
そんな中、友人と肉声で言葉を交わしあえたのは、大きな安らぎであった。さほどの時間は経っていないはずなのに、いつぶりだろうかと思ってしまうほどの孤独を、芯から癒される思いであった。
本隊の今に向き合うことに、やはり恐ろしさはある。
それでも、どうにか向き合えそうだ。リズは柔らかな笑みを浮かべ、「また、後でね」と口にした。
彼女に対してマルグリットは、普段よりもだいぶ控えめな笑みで「うん」とだけ返し、再び川の向こうへと足を向けていく。
一人になり、リズは振り向いて本隊の方へと歩を進めていった。
最初に気づいたのは、当初陣形を構えていたところよりも、集団が後方に寄っていることだ。視界が通りにくい雨の中、目安になるようなものもない。それでも彼女は、見間違いとは思わなかった。
これは、戦闘中に退いたものではないだろう。おそらく、戦いが終わってから、その場を離れるように陣を動かしたのだ。
――領民同士で殺し合った、その凄惨な現場から離れるために。
戦闘が終わったのは明らかであり、相手が降伏したということは、革命勢力が勝ったということだ。
だが、勝者としての喜びは、そこにはなかった。降りしきる雨の音、緩んだ土を踏む湿った音だけが、リズの耳に届く。
幸いだったのは、戦力の大多数を占める民兵が、落ち着きを保っているように見えたことだ。
これは、相手が騎兵隊という少数勢力で、中央突破を狙ってくれたことが不幸中の幸いとなった。リズはそのように考えた。
つまり、相手の突撃が、戦術的な効果を狙った局所的なものだったおかげで、民兵の大半は誰かの死に触れることなく、この戦いを切り抜けることができたのだ。
民兵たちは、射撃に耐え続けるという形で戦闘に関わっても、勝利には直接貢献したわけではない。
そうした彼らの、戦いへの関わり方が、終わったという事実に安堵を感じさせ、一方で勝利の実感を乏しくさせているようだ。
ともあれ、民兵の間に感情の激発はない。主導部としては上々の出来と言っていいだろう。ここで大きく崩れるようであれば、この先もおぼつかないところであった。
しかし、肝心の革命主導部、会議で幾度も顔を合わせた仲間たちは、どうなっているのだろうか。リズは彼らの今を案じた。降伏受諾後の連絡では、誰も死んでいないという話だったが……
気がつけば、彼女は駆け出していた。
彼女の接近にいち早く気づいたのは、当たり前というべきか、傭兵の仲間たちであった。
彼らによれば、戦闘面のリーダーであるダミアンは、仲間を十数名連れて相手側の士官たちと戦後処理を進めているところだという。
「クリスたちは、まだここから動いていない。『リーダーには、ここを支えてもらった方がいいだろうな』ってさ」
「そう、わかったわ」
「……あんま、無茶するなよ? リーザもクソ大変だったろ? なんなら、ここで休んでくれたって」
傭兵の一人が、心底気遣うような表情で声を掛けてきた。クリストフのもとへ向かおうというリズが、いかにも「またひと仕事」という風に見えたのだろう。
実際、クリストフたち主導部に顔を見せれば、確実に心労があるだろうという予感が、リズにはある。
それでも彼女は、仲間の気遣いに礼を言いつつも、務めを果たすことを選んだ。
「行けばまた何かあるでしょうけど……終わったのだから、顔は出さないと」
「そうか……先に言っておくけど、クリスは無事だ」
「つまり、割と平気にしている感じ?」
「ん」
ということは、他の誰かが、あまり平気ではないということだ。
それが誰なのか、事前に聞く気があまり起きず、リズは「ありがとね」と口にしてその場を離れた。
やがて、横陣からほんの少し離れた後方に、ちょっとした集団があった。革命幹部たちの集まりである。
その中に、クリストフの姿があった。近づいてきた彼の顔を見て、リズは思わず表情を歪めた。
右の頬に、切り傷がある。雨で血は洗い流されているようだが、裂けた傷口は痛々しい。
守られて然るべき立場にある彼が、こうして手傷を負ったということは……本当に、どう転ぶかわからなかった戦いだったということだ。
――そして、皆で勝ったのだ。
無言で寄ってきた彼は、リズに一冊の本を手渡してきた。彼女はそれに見覚えがあったが、大きな変化もあった。本の表紙中央に、大きな切り傷と穿孔痕。
「大いに役立ちました」と言った後、クリストフは頭を下げた。
「このような形でお返しすることになり、申し訳なく思います」
「いえ……本で身を守るのは、私もよくやることですし」
その後、「センスありますね」とでも言おうかと思ったリズだが、やめておくことにした。
仮にリップサービスだとしても、戦う力を褒められて喜べる状況でもなし、そういう相手でもないだろう、と。
代わりに彼女は、彼の顔を見て少し悩んだ後、「無事で何よりです」と言った。間をおかず、「あなたも」と一言返ってくる。
この戦いの中で、彼の中に何があったのかは定かではない。
ただ、命の危険にあったことは疑いようもなく、それでいて落ち着きを保つ今の姿は、何か壁を乗り越えたことを思わせるものであった。
しかし……二人の間が不意に静かになり、お互いに言葉を交わすのが、どことなくためらわれる感じに。
先に口を開いたのは、クリストフであった。
「クロードが」
「彼の身に、何か?」
「いえ……少し、頑張りすぎたようで」
婉曲的な表現だったが、何を頑張ったのか、クリストフの顔を見れば自明のように思われた。親友を救おうと、クロードもまた必死に戦ったのだろう。
少し間を開け、クリストフは続けた。
「よろしければ、何か声を掛けてもらえませんか。僕が言うと、かえってキツいんじゃないかと……」
「ええ、喜んで」
「ありがとうございます……後で落ち着いたら、僕からもきちんと話しますから」
クリストフに頼まれ――頼まれずとも、結局は同じことをしただろうが――リズは、さらに歩を進めていった。
幹部集団が集まる中、少し遠巻きに見守られる形で、例の彼が四つん這いになってうずくまっている。全身に雨打ち付ける中でのその姿は、リズの胸を締め付けてくる。
彼女は駆けつけ、泥のこともまるで気にせず、彼の前に片膝をついた。
「クロード?」と優しく問いかけると、彼は顔を上げた。顔にはいくつかの切り傷があるが、さほどの深さではない。
彼がどういった戦いの中に身を置いていたのか、推定することしかできないが、文民あがりの民兵としては、かなり上出来である。おそらく、彼の中には武才の種があることだろう。
だが、その才が似合う青年ではないようだ。鎖帷子の胸元あたりに、雨で洗いきれなかった血と、吐瀉物らしき痕跡。
リズと顔を合わせた彼は、しばらくの間、言葉も出せずにいた。やがて、震える声を絞り出し、彼は言った。
「す、すまん」
「どうかしたの?」
「だ、だって、そうだろ。お前の方が、ずっとたくさん……」
彼はそれ以上続けられなくなって、口からは嗚咽が漏れ始める。
その言葉の続きを、リズは求めなかった。彼女はクロードに身を寄せ、その首に両腕を回して抱き寄せた。声を抑え、全身をかすかに震わせる彼は、嗚咽の合間に言葉をねじ込んだ
「汚いぞ」
「そんなことないわ。私は、気にしない」
細かな飛沫が身を汚してくる中、二人は抱きしめあった。
雨のせいか、お互いがただただ冷たかった。
それでも、冷たさの内に確かな暖かさがある。それが幻想でないことを、リズは心の底から信じた。




