第108話 ひとまずの勝利
騎兵突撃に呼応し、動き出したハーディングの精兵たち。攻め寄せてくる彼らの攻勢を、リズは幾度も凌ぎきってきた。
ふとした拍子に膝を折りそうなほど、全身は強い疲労感に襲われている。それでも彼女は、弱みを見せまいと姿勢を崩さずに堪え続けた。
たとえ、雨で互いの視界が遮られようと、彼女自身の目があった。
戦場には、顧みられることもない人体が、至るところに転がっている。何十人も――いや、百人以上は無力化、ないしは殺しただろう。
だが、いくら兵を失おうと、敵勢の攻め手は緩むことがない。一度宙に浮かされれば動きが鈍くなるものの、攻めに見せる連携ぶりは冴え渡り、リズが防戦一方になるまで追い込まれることもしばしばであった。
彼女を追い詰めたのは、自身の戦闘ばかりではない。
《別館》を通じて繋がる本隊側の決戦もまた、彼女にとって確かな負担となっていた。
《別館》経由で送り出す魔力消費もさることながら、精神的な負荷もあった。色々と気遣いしがちな、あのクリストフが、今も大量の魔力を用いる戦闘に直面しているというのだ。
目が届かないところにある戦場に馳せる想いが、送り出す魔力と相まって、彼女の心身を絞り続けた。
魔力を使われている間は無事――そう言い聞かせるも、ふとした時に消費が途絶えるだけで、体中に悪寒が走る。
容赦なく打ち付けてくる雨でさえ、今の体よりは暖かく感じられるほどであった。
だが……そんな死闘に、潮目がやってきたようだ。
不意に、攻め寄せる波が去っていく。いきなり距離を取り始めた敵勢は、戦闘開始当初に近い、かなり控えめな包囲陣形へ。
やがて、扇形の敵陣中央から、一人の兵が歩み出てきた。
何か予感するものがあったリズは、気づけば膝に両手を当てていた。上半身は折れても、どうにか顔を上げて、近づく者に顔を向ける。
こうなるほどまでに追い込まれたとはいえ、一対一の戦闘であれば、後れを取る道理はない。彼女を攻め立てたのは、十分な訓練を積み重ねてきたであろう、敵方の連携力にこそある。
それを放棄し、一人で近づこうものなら、自殺行為である。
加えて、彼女の方へと寄ってくる彼は、何ら戦おうという構えを見せていない。交戦の間合いに入っても、単に《防盾》を構えるのみだ。
そして彼は、リズと十分距離を開けた状態で、叫んだ。かすれた喉から絞り出すような声であった。
「我が軍は、貴軍に対して降伏を申し出る! この旨、どうか受諾されたし!」
その、震える叫びに、リズの心中もまた大いに揺さぶられた。
終わったという実感が、意外なほどに沸いてこない。相手の言葉が真実だと、心は疑いなく信じられるというのに。
騎兵突撃と、本腰入れて動き出した精兵との戦闘以降、本隊との《念結》は使わなかった。お互い、自分の方に専念し、生き残るためである。
向こうの状況を確認するまで、何も終わってはいない。
降伏を申し出た使者に、リズは大声を返した。
「これより友軍に確認を行う! 貴官はその場で待たれよ!」
これに相手は了承の意を示し、雨が打ち付ける中、不動の姿勢で構えた。
さっそく、リズは《念結》で、相手に声を届けようと念じ……なかなか、心が言葉を結ばなかった。
言い知れない恐れがあった。
それでも、立ち止まっていられない。交戦時に劣らない覚悟を持って、彼女は念じた。
『……もしもし』
『ああ、無事だったか! どうぞ』
待ちかねたと言わんばかりの応答に、リズは胸を撫で下ろした。
あちらは待ちの態勢だったらしく、それはつまり、あちらも終わったということだ。魂が抜け出るようなため息の後、リズは本題を続けた。
『降伏の申し出を受けたわ』
『こちらもだ。もちろん、受け入れたぞ』
それは当然だった。正規軍が戦えなくなるようにし、降伏を引き出すのが作戦目標だったのだから。
ただ……降伏を受け入れられない状況になっている可能性が、決してゼロではなかった。
現時点でも、とりあえず降伏の受諾ができたことだけは安堵できる点だ。
しかし、聞くべきは他にもある。心が重くなる次の質問の前に、彼女は自身を落ち着け、尋ねた。
『被害は?』
『民兵に、死傷者が多数』
返答は早い。しかし、心に伝わる声に沈んだものがあり、リズは『……そう』としか返せなかった。
『主導部、諜報員たちは無事だ。俺たち傭兵も、負傷者はいるが、誰も死んでない……代わりに、死んでもらう形になっちまったな』
『あなたたちは、悪くないわ』
心の底から絞り出すように、リズは応えた。
戦いが始まる前から、分業の構想はあった。
革命勢力に攻め手は少ない。可能な限り穏当に終わらせる腹づもりでも、相手側の打撃力を削ぐ必要はあり、攻撃力になりえる傭兵や諜報員たちは貴重な戦力だった。
だから、民兵が盾になる。代わりに死ぬのが民兵の役割となった。
民兵に代わり、同郷の人間を殺すのが、傭兵や諜報員たちの仕事になった。
何があろうとも生き残り、この先のために尽くすのが、主導部の仕事になった。
やる前に覚悟したとしても、事を終えてから心を揺るがすものはあるだろう。
それでも、それぞれは自分の役割を全うした。
心に去来する様々なものを抑え込みつつ、リズは念じた。
『誰か……いえ、何人か、こちらに向かわせてくれない? 戦後処理のやり方とか、わからなくて……』
『ああ……意外だな。そういうこと、知ってるもんだと』
そこで、実戦経験のある何人かを、後の措置のために向かわせてくれるということになった。多少時間がかかる可能性があるという話だが、リズにはむしろ好都合ではある。
とりあえずの連絡を終え、彼女は《念結》を切った。
その後、彼女は使者に向かって声を張り上げた。
「友軍本隊において、降伏の受諾があったことを確認した! 後ほど、戦後の処置を行う! 貴軍はその場で待機されたし!」
「了解した……貴軍の慈悲に感謝する!」
投げかけ合う言葉自体、儀礼的ではある。
だが、そこには隠し切れない感情の表れがあった。
と、そこへ、リズの心中を揺さぶった別の一因が近づいてきた。
「何か?」
声を張り上げずとも届く距離まで待って、リズは顔も見ずに師へ問いかけた。
相手に戦意がないことは、感じ取れている。いや、そのように感じ取っている自分のことを、彼女は信じた。
実際、母国からやってきたその武人は、リズに攻撃を仕掛けることはなかった。
近づいてきた彼は、手にした槍をリズに放り投げた。投槍の要領ではなく、投げ渡すように。
「お届け物です」と彼は言ったが、受け取ったリズは、虚を突かれて思わず驚いた。
受け取った槍は、まともな穂先がなかった。槍に見える鈍器といった風情である。これでも彼の手にかかれば、十分に恐ろしい凶器ではあるが……リズ相手では物足りない武器であろう。
彼は最初から、本当に、そうするつもりがなかった。そういうメッセージだろうか?
ただ、本当のメッセージは、また別にあった。お届け物に思い巡らすリズに、師は言った。
「中に手紙が」
「なるほど」と、リズは思った。彼の手に預けたのなら、郵便物としては確実であろう。
試しに柄を指で弾いてみると、中は空洞のようであった。よく見れば、柄の尻に方に、グリップも兼ねた封が施されている。
それを解き、リズは手紙を取り出した。未だ雨降りしきる中でのことではあったが、師はそれを止めなかった。
その紙質は、水ですぐダメになるようなものではない。耐久性に優れた上質なものだ。加えて、インクも水溶性のものではなく、魔力で文が刻みつけられている。
今、この場で読めることを確認したリズは、紙を広げた。彼女の目に、文章の最初が入ってくる。
第三王女、アスタレーナが認めた文章だ。




