第107話 急転の策謀③
決戦前の深夜。サンレーヌ城下町。
街の外縁から、やや内に進んだ商業区の一角。他よりも比較的高い宿の屋上に、一つの人影。
夜陰に紛れる黒尽くめの装いを身にまとい、アクセルは周囲を見回した。服の作りはタイトで、細身な彼がより引き締まって見える。
辺りに気配がないことを確認し、彼は《遠話》を刻んだ紙を起動させた。無線で繋がる、超遠隔タイプのものだ。
相手方に繋げて数秒後、『ジャンヌです、どうぞ』と言葉が返ってきた。
「こちらアクセル。今は城下町にいます。状況は?」
『正規軍に動きなし。想定通り、会戦に持ち込むものと思われます』
「了解。では、配置に向かいます」
『ご武運を』
会話が切れ、肌寒い夜風が彼を撫でていく。
用が済んだ紙を、いくつもあるポケットの一つにしまい込むと、彼は動き出した。
特殊な靴なのか、彼の歩行法によるものか、駆けていく彼の足音はほとんどない。動き出した影が、城下町の建物から建物へと、次々に飛び移っていく。
こうしたルートは、事前に潜入を果たしている味方の手で開拓済みだ。
実際に使うのは初めてではあるが……建物間の距離、高度差、屋上にある物品の配置。諸々を考慮したルート設定は、アクセルを不安にさせるものではなかった。
彼を不安にさせたのは、街の住人の視線である。官憲は気にならない。彼らは町を見張るのが仕事であって、夜空を見上げることではない。
夜の見張りよりも厄介なのは、一般人の方である。特に居酒屋帰りの酔っぱらいなど。ふとした拍子に立ち止まり、ぼんやり空でも眺めるかもしれない。
アクセルにとって幸いだったのは、夜空が雲で覆われていることだ。見上げて面白い空ではない。星や月明かりを、漆黒の影が横切ってしまうという恐れもあまりない。
動き出して数分後、広い城下町をあっという間に踏破した彼は、事前に定めた建物の屋上に到達した。サンレーヌ城を中心とする、行政区画を臨む位置だ。
目の前にある区画は、領内の中枢と言っていい。当然のように魔法による探知機構が張り巡らされている。この区画と城下町を結ぶ各所の門以外を、魔力を持った何かが通行すれば、それがすぐに検知されるのだ。
この行政区画の城壁を前にし、アクセルは屋上に小石を置いた。魔力を多分に含んだ物品だ。
その後、どこに隠し持っていたのか、彼の手に懐中鏡が現れた。
いや、鏡と言うべきかどうか。見た目こそまさにそれだが、肝心の鏡面が曇り切っており、何も映しはしない。
夜空を映しこんだかのような、その黒い鏡面を目に、アクセルは細く長い息を吐き、うなずいた。
そして、彼の手から鏡が消えた。
顔を上げた彼は、行政区画の壁に向き直り、周囲に視線を走らせていく。
区画の周りは、かなり幅広な道が囲んでいる。とてもではないが、直近の建物からの幅跳びで越えられるものではない。
通行人、警備の類がないことを確認した彼は、覚悟を決めて動き出した。素早く身をひるがえし、屋上から飛び降りていく。
右手に軽く握っているのは雨どいだ。握力だけで絶妙なブレーキをかけ、彼は落下の衝撃を十分に抑え込み、ほぼ無音で着地した。
地に足触れるや、彼はすぐさま猛ダッシュを始め、行政区画の壁にとりついた。
壁は石積みである。表面には凸凹が多少はあり、石と石の間にわずかな隙間も。彼はそうした石の突起に指をかけ、足指で別の突起を踏みつけた。
白い壁に、黒い人影は大変に映える。それがすいすい壁を登っていくのなら、なおさらである。
あっという間に壁を登り切った彼は、背後を振り返ることをせず、事前に設定してあったポイントへと身を運んだ。建物に囲まれた、ちょっとした憩いの場である。
木々や茂みが提供する暗がりに身を滑り込ませ、彼はそこで一度息を潜めた。
周囲の様子から察するに、見つかってはいない。
彼は、守りが一番固いところを超えた。
城内含め、この区画内で不穏な動きがあれば、魔力の流れでそれを探知される。よほど練りこめば、それでも暗殺で一人ぐらいは殺せるだろうが、すぐに知れることとなって後が続かないわけだ。
だが、非正規の手段で侵入を果たしたアクセルを、咎める者は誰もいない。魔力が物を言う探知機構の中、魔力を外に発しない彼は、透明も同然なのだ。
そして、彼のような人間を想定した探知機構はない。《遠覚》などに反応しない人間など、あるはずもないからだ。
しかし、彼も決して無敵ではない。
侵入を果たした行政区画の中、王城へ向かう道で、彼は何度か官憲の姿を目撃した。
こういう状況であれば、身内も怪しいのだろう。彼はそのように考えた。
ハーディング上層部は、お互いを明確に敵視しているわけではないだろうが、お互いに絶対の信頼を置けない状況ではある。
もっとも、軍事や政治の中枢であれば、常日頃からそういうものなのかもしれないが。
上層部の警戒心の表れとも取れる、官憲たちの警戒網を出し抜き、影は音もなく王城へと近づいていく。
やがて城内への進入を果たしたアクセルは、城内を油断なく、慎重さと大胆さを持って進んでいった。
城主がここを脱したからか、見張りは少ない。事前に得ていた見取り図のこともあって、アクセルの進みに迷いはない。
結果、彼は誰かにばったりと出くわすこともなく、目的の部屋へと到着した。食料の貯蔵庫だ。中には大きな酒樽がいくつも並んでいる。
何も、酒を飲みに来たわけではない。こうした酒は、単なる農業生産物ではなく、霊薬として用いられるものも多い。そして、そういった酒類は、魔力を多分に含んでいる。
つまり、比較的侵入しやすい部屋の中でも、高密度な魔力を定常的に内包している一室ということだ。
食糧庫の適当な物陰に隠れた彼は、再び鏡を手に取り、顔に向けた。先ほどは何も映らなかった鏡面に、今は彼の顔が映し出されている。
そして、《遠話》の紙を取り出した彼は――自身の指から魔力を供給し、これを起動させた。
『ジャンヌです、どうぞ』
「アクセルです。城内に潜入しました」
作戦上は必須だが、至難の業でもある。これを見事やってのけた彼に、通話先は余計なことを言わず、ただ声のトーンで称賛の意を示した。
『了解。別命あるまで待機を』
「了解」
短い交信を終え、彼は再び鏡に顔を向けた。何も映っていない、漆黒の鏡面が目に映る。
それだけ確認した彼は、鏡をしまって耳を澄ませた。
近づく音、声。そういった気配は何もない。
感知されないままでいると判断した彼は、食糧庫の中に身を潜め、その時をただじっと待った。
☆
開戦後。城内の慌ただしさは増す一方であった。
現場の指揮・権限は、そちらの総指揮官に預けてある。それに、もとはと言うと、より良い勝ち方を模索するような戦いという認識であった。上層部から現場に、わざわざ命を下してやるほどのことはない。
そのはずだった。
しかし……想像以上に悪い新兵の動き。想定していたとはいえ、魔神殺しらしき人物一人が立ち塞がる、川向こうの戦場。
そして、予想だにしなかった謎の乱入者。
特に、この乱入者の存在については、現場からも確認要請が舞い込んだ。
しかし、このことに心当たりがある者は、上層部にも誰一人としていない。
乱入者の戦いぶりの報告から、一人の名前が浮上はしたが、思い描いたその名に震え上がる者が数名。事態の解決には程遠い。
そして、上層部としては、現場のためにやれることなどほとんどない。新兵向けの主武装をかき集め、城内の警備にあたる兵士、巡回に回る騎兵まで送り出したので精いっぱいである。
戦略面において場は整えた。あとは現場頼み……ということである。
結果、事態が好転するわけでもなく、現地では睨み合いの状況がいくらか続いた。
この中で割を食ったのは、城内の伝令係である。
状況は変わらず、しかし現場から声ばかりは上がってくる。それを伝えるのが任務ゆえ、無視するわけにもいかず、伝令係は互いの声を携えて右往左往するばかりであった。
その伝令係の一人である青年、ジェロームは、今日だけで何度目になるかもわからない往復の後、通信室に駆け込むところであった。
この通信室は、現場と繋がる《遠話》用の魔道具が設置されている。軍事的に極めて重要な部屋であり、ごく限られた人間にしか、出入りできない。
内勤の軍人としては、中々の名誉である。仕事柄、様々な上席者と顔を合わせる機会も多く、昇進に繋がることも。大半の軍事組織においては、制服軍人の出世街道における1ステップ目である。
とはいえ……そうした栄達の道に足を踏み入れても、今やることと言えば、板挟みに遭いつつお互いの言葉を携えての右往左往なのだが。
それでも、この重要な部屋を前に姿勢を正される思いはあり、彼は息を整えて重厚なドアを開けた。
部屋にはセキュリティがある。入口にある魔方陣は、事前に契約を済ませた人間のみ通過を許す。それ以外の者が通過を試みれば、全身に電流が走り、数時間は身動きもできなくなって拘束されるのだ。
未認可の人間に対する魔法陣の反応は、領主だろうが国王だろうが平等である。それゆえに、この部屋の安全が担保されている。
また、通信室は機密が漏れ出ないようにと、防音にも気を配った設計となっており、他の部屋とは厚い壁で隔てられている。当然、窓もない。入り口は一つだけである。
侵入者撃退用の魔法陣を超え、細長い通路を進み、ジェロームはさらにその先のドアを開けた。
仕事部屋には魔力の配管が張り巡らされ、書棚には過去の報告書などの束。作業机には、通信用の魔道具がいくつも据え付けられている。
同僚が向き合う机に、今はそれらしい反応がない。連絡がない――状況が動いていない――ことに、ジェロームはホッと安心する自分を認識した。
しかし、違和感があった。
この任務に就ける人材は少なく、互いによく知っている。
だが、いま目にしている後ろ姿は、よく見知ったはずの同僚たちの、いずれにも重ならないように映る。他の皆よりも、小柄で少し線が細いような。
一方で、不審者と即座に推断することはできなかった。この部屋に侵入者が入り込むことなど、原理的にありえない。
目にしたものの直感と、前提知識からくる理性。双方の板挟みにあって、彼は硬直した。
そして……彼は気が付けば、腰の剣にそっと手を伸ばしていた。城内で手にかけることなど、本来はあり得ない、お飾りかお守り程度の剣に。
すると、椅子に座った人物が、振り向いた。
同じ軍服に身を包んでいるが、顔はやはり見覚えがない。同世代か少し下に見えるその青年は、「先輩?」と声をかけてきた。
「先輩、だって?」
「はい。あまりに人手不足だというので、今日はこちらに入るようにと、ジラール閣下に」
ジラールというのは、軍の情報伝達を取り仕切る将官であり、上司だ。持ち出された名前自体に、怪しいところはない。だが……
「聞いてないぞ」
「急な話でしたので」
「それに、正式な所属でもない者が、この部屋に入るなんて……」
「しかし、現にいます」
目にしている相手は侵入者だと、直感は告げている。
一方、この部屋に部外者が入れるはずもない。その認識が、判断を迷わせる。ジェロームは状況の答えを求めて思考を巡らせ――直感が導くままに、目を凝らした。
眼前にいる青年の服には、胸元に血と思わしきシミがある。ややサイズが大きい服だからか、それらしいシワで偽装しているようにも。
急に心臓が跳ね上がり、ジェロームは視線を外した。部屋の隅に目を向けると、拘束された肌着姿の同僚が転がされている。
――その胸元に、赤い円。
反射的に、彼は剣を引き抜いた。
そこへ、後輩を装っていた青年が、声のトーンを変えて話しかけてきた。
「やめた方がいい」
「だ、黙れッ!」
「いくつか言っておくことがある」
黙れと言われたのも気にせず、青年は言葉を続けていく。
「そこにいる奴は、まだ死んでいない。そいつの生死に興味はないが、君が処置すれば助かるだろう……おそらくは。君が死ねば、お仲間も死ぬ」
「それだけの覚悟がなくて軍人が務まるものか!」
引き抜いた剣を素早く構え、震える両手で柄を握りしめ、ジェロームは敢然と答えた。
――次の瞬間、眼前の敵の手元がキラリとひらめき、彼は胸元に焼けるような鋭い痛みが走った。全身に廻る急激な寒気。
恐る恐る、彼は胸元へ視線を向けた。
細長い金属片が、胸に突き刺さっている。もう少し深く突き刺さっていれば、きっとこうして立てないだろう。彼はすぐにそう感じた。
金属片の末端には、目を凝らせば視認できる程度の細さの鋼線が繋がれている。その先がどこに向かうか、よく見えはしなかったが、確かめるまでもないことではあった。
剣を構える彼の両手と刃の間を縫って、殺さない程度の威力で、敵はこの小片を飛ばしたのだ。
一瞬で理解してしまった力量の差、急激に押し寄せる死の恐怖の前で、それでも彼は剣を構え続けた。
「早く諦めた方がいい」
「黙れ、今こうしてる間にも、同胞たちが戦ってるんだ。戦って、誰か死んでいるんだ。僕だけが、逃げられるものか!」
「君が仕事することで、さらに大勢が死んでいくことになる」
その言葉に、胸の奥が疼いた。懸念を振り払うように声を上げようにも、それが言葉にならない。
そして、敵は畳み掛けてくる。
「勝てそうな戦いか? 現場の指揮官と、ここの司令官は、本当に状況を掌握できているのか? 君は、誰よりもよくわかっているのではないか?」
「だ、黙れよ」
「現場が諦められないのは、君たちがいるからだ。上と繋がっている限り、賊軍相手に負けを認められるものか」
言葉を向けられても、反論ができない。言葉を結ばない荒い息が、ただ口から漏れるばかりだ。
そして、敵は言った。
「通信が途絶すれば……こちらに何かあったと思わせることができれば、この不毛な戦いは、もう少し早く終わらせることができるかもしれない。現場の人間の手で、自発的に、だ」
「だ、だからって……裏切れるものかよ!」
「このような折に領主閣下は、王城へとご出立なされた」
「そんなことは、知ってる! だから、なんだよ、お逃げになられたとでも言う気か!?」
「ファルマン卿の謀で、閣下の御身が脅かされた」
「な……」
初耳だった。だが……それを出任せと一蹴しようにも、凶事を示唆する情報を、彼はすでに知ってしまっている。敵の口から、それが言葉になっていく。
「陛下から催促のお言葉が来ているはずだ。君たちは知っているのではないか? そして、閣下にはご連絡が何も通じない。君たち、知ってるだろう?」
「し、しかし……」
「それでも、バカ正直に、軍紀と心中する気か? 規律の拠り所など、すでに上の連中が毀損しているというのに」
そう言って、敵は指を引いた。金属片が抜かれ、胸元の傷口に再び痛みが走る。
だが、意外なほどに出血はなかった。
――大したことではなかった。おそらく、転がされている同僚も同じだろう。さも大事であるかのように、血を見せつけられていただけだ。
そう認識したとき、ジェロームは力なくその場にへたり込んでしまった。不甲斐ない自分を感じ、戦意が消沈した彼に、敵が声をかけてくる。
「抵抗の意がなければ、《封魔》をかける」
「……好きにしろ」
震える声で答えた自分を、彼は心底恥じた。いっそのこと、殺されると悟りながらも、立ち向かえばよかった。そんな思いに、剣の柄を握る力が少し強くなり……
「領民同士の殺し合いを、君たちは肯定していたのか?」
「……そんなわけないだろ」
「では、君たちはそれに加担しなければいい。信じるもののために、任務を放棄しろ。恥じるべきは、軍も兵も統制しきれなくなった上層部にある」
握りかけた柄を、ジェロームは取り落とした。
それ以上の抵抗も抗弁も、彼の中では、完全に意味を失った。




