第106話 急転の策謀②
ハーディング伯の窮地に駆けつけたのは、正規軍との決戦を前にして、領主閣下の護衛のためという名目で革命勢力から一時的に離脱した、あのアクセルである。
領主直々の諜報員という触れ込みだった彼に、領主は「君が、あの」と言った。
この二人が直接顔を合わせるのは、これが初めてである。
と、そこへ、二人のやり取りに割り込むように、屋敷の主はうめき声をあげて叫んだ。
「た、頼む、命だけは!」
この、心からの懇願としか言いようのない叫びに、アクセルは掴んだ首根っこを無感情に持ち上げた。合わせて家主から漏れ出る、怯えきった声。
そしてアクセルは、領主に向けた声よりも低く、冷淡な口調で問いかけた。
「誰に物を言っている?」
この問いに、家主はただ口をパクパクさせている。「言葉遣いには気をつけろ」と続け、アクセルは尋ねた。
「命じた者は?」
「そ、それは……」
「この屋敷には、お前の妻子がいなかった。使用人によれば、先日、二人を町の知人の元へ向かわせたというではないか。『大事なお客様が来るから、念のために外してくれ』とな」
この言葉に、家主は震え上がった。
領主もまた、目の前の青年に対する恐ろしさを覚えた。屋敷内で何が起きたか定かではないが……アクセルは、まずは妻子の確保に動いたのだろう。
そういう人間の手に首根っこを掴まれる恐怖は、いかばかりであろうか。顔面蒼白になった男に、アクセルは続けた。
「事前に知っていたな?」
「は、はい……」
「二人のもとに、すでに手を差し向けてある。後はお前の心構え次第だ。好きに話せ」
首を掴んでいた手を開放すると、家主は飛びのくようにアクセルから離れ……しかし、逃げ出すわけにも行かず、進退窮まったようにその場にひざをついた。
そして、息が荒くなった彼は――背を丸めて、その場に嘔吐した。
ふと同情の念を覚えている自分に気づいた領主は、横の青年に顔を向けた……が、いつの間にか居なくなっている。
それも束の間、後ろから「失礼します。拘束を解きます」との声が。
声の後、すぐに四肢の自由を取り戻した領主は、どこか手持ち無沙汰な自分を感じつつ、その場に静かに立った。
まずは、情報収集のため、この家主の回復を待たねば。
自分は待つ考えの領主だったが、アクセルもまた、家主を急かそうとは考えていないようだ。
ただ、見るも哀れな様子の家主を見ても、アクセルの顔には何一つ、読み取れるような感情の動きがない。鉄面皮は、憐憫も嘲笑もなく、ただただ冷淡に相手を見つめている。
やがて、吐瀉物をハンカチで拭い、顔だけでも最低限整えた屋敷の主は、事の背景を領主に語り始めた。
彼に話を持ち掛けたのは、領内の重臣であるファルマン卿だ。メイユの門を用い、王城へと領主が向かう。その道中で捕縛せよと。
ただ、命じられたのはそこまでだという。実際、ファルマンからの情報通り、お連れの人数はさほどでもない一行の馬車が、屋敷へやってきた。
「知っているのはそこまでか?」
「は、はい」
「それを証明するものは?」
すると、家主は生気がない顔で、残る気力を必至に振り絞るように首を横に振った。
その様を見れば、領主も事情を察することができた。まさか、正式な書状で命じるわけもない。あったのは口約束だろう、と。あるいは……
「着手金として、一応の現金などは……」
「そんなところか。いいだろう」
証拠について、アクセルは意外にも、あまり拘泥しなかった。
この青年の考えは読み切れないが……ファルマンにとっては、おそらく不幸なことになるのではないか。そんな予感が領主の脳裏を占め、彼は瞑目した。
ファルマンは、家柄にこそ優れるが、それだけで生きてきたような男だ。これまでは平和な状態が続いていたからこそ、さして苦難に面することもなく過こせていたのだが……
軍事的緊張が増していく中、力を発揮できるはずもなかった。そんな彼が、こういうことで機を見るに敏な動きを示すとは――
なんとも皮肉なものを感じた領主に、アクセルが向き直って口を開いた。
「ファルマン殿の裏切りがあったものと考え、行動します」
「ああ……」
この青年は、別に自分の配下というわけではない。敬意を向けてくれているようだが、命令できるわけもない。
領主にできることは、この青年が、どうかうまいこと取り計らってくれるように祈るぐらいだ。
とりあえず、この状況の背後をある程度明かしたところで、三人は地下室から上がっていった。
地上階には、2種類の従者がいた。解放された、領主に使える従者。拘束されている、屋敷の家人。
白基調の室内は、ところどころに血痕が付着している。しかし、その血の元となった者は、目につく場所にない。
ただ、領主は楽観視しなかった。おそらくは、全員片づけたのだろうと。
三人が姿を現すと、領主の従者たちが素早く動いた。感情を押し殺したような顔の彼らが、もはや抵抗するそぶりも見せない屋敷の主の身を、縄などで完全に拘束していく。
その後、アクセルは改まった様子で領主に向き直り、言葉を発した。
「お人払いを……よろしいでしょうか?」
「では、外で」
「はい」
二人が外に出ると、空は今にも雨が降り出しそうな、暗く厚い雲に覆われていた。
玄関から少し離れたところで、アクセルは領主に向かって口を開いた。
「私は、これよりサンレーヌに向かいます」
「そうか……君の無事を祈る」
会ったばかりの青年ではあったが、領主は心からの祈りを込めて、そう口にした。
だが……相手はどうも、これがお気に召さなかったらしい。意外にも、彼は申し訳なさそうな顔になって尋ねてきた。
「この度は当方の不手際で、誠にご不快な思いを。火急の件とはいえ、領民を何人か負傷させました。ご従者の方に手当をしていただいておりますが……」
「いや、君が悪いわけではないだろう」
「……こうなる前に救い出せた、未然に防げた。そうは思われないのですか?」
心の中で引っかかっていたものを言い当てられ、領主は言葉に詰まった。実際、そういった思いはあった。
だが……おそらく、この青年とその上の者は、こうなる可能性を見越した上で泳がしたのだろう。
それを否定する立場にないという自覚が、領主にはあった。彼は答える代わりに、別の問いを投げかけた。
「陛下からの参上命令に、まだ応じるべきだろうか?」
「……本来ならば、私ごときが申し上げるべきとは思いませんが、その必要はないものと思われます。たかだか領内の移動でありながら、閣下を陛下の御前へと向かわせることができなかった。そういった事実は、そのままにしておくべきかと」
ハーディング上層部は、決して一枚岩ではない。忠誠を装いつつ、裏で国を売ろうという者もいる。
実際に、そのように思われる動きがあったわけだ。
これを一掃しないことには、この領地の未来はない。
依然として暗雲立ち込める中ではあったが、領主の思考は晴れ渡った。ここまでの動きが腑に落ちる思いに至った彼は、アクセルに尋ねた。
「この度の上命も、君たちの働きかけがあったのか?」
「不用意に憶測を語るわけにはいかない事象だけに、返答の程は、どうかご容赦いただきたく……」
とはいえ、これはほとんど肯定であろう。そのように直感した領主に、アクセルは続けた。
「私の上の者は……行きがかり上ではあるとはいえ、閣下を駒のように扱う非礼について、大変心苦しいものがあると申しておりました。いつか時間を作り、非公式でも謝罪に伺えればと」
「そうか……」
その上席者とやらに、領主は心当たりがないこともなかった。候補は何人かいるのだが……
ふと胸中を占める様々な想いに、彼は意識を向け、目をつむった。
(駒としての価値は、認められていたのだな。いや、それを自覚しながら、自分で扱いきれなかったがゆえの、この始末か……)
そして、彼は目を開け、アクセルに向かって言った。
「君の上の方に、伝えてほしい。優れた指し手に使われた方が、駒としても幸せだと。その手に掴み上げてもらえたことで、同じ高さの視野を、わずかばかりにでも共有できたようにも思われるのでね」
「……かしこまりました」
言葉を交わし終え、深く頭を下げたアクセルは、この場を去るように歩を動かし……
数歩進んだところで、彼は立ち止まり、領主に向かって口を開いた。
「お会いできたことは、大変光栄に存じます」
この言葉には、どうにも違和感があった。普通、会って直後に口にするものだからだろう。
少なくとも、領主のこれまでにおいては、最初の挨拶の一部であった。
そして……同じような認識は、この青年も持っているらしい。間を外した一言を思い出し、とっさに付け足したような、きまりの悪い思いが、端正な顔に滲み出ている。
とはいえ、本当に取ってつけた言葉ではなく、これは本心のように思われた。自分の半分も生きていないであろう若者の、鉄面皮に隠された素顔を垣間見たようで……
領主は思わず、表情を柔らかくした。
「君には救われたよ。どうか、自分自身の身も、大切に気遣ってほしい」
「ご厚情、ありがとうございます」
最後に言い残し、青年は駆けていった。
その背を領主は目で追い続けたが、休むことを知らない若者の全力疾走は、すぐに視界から影も形も消してしまった。
取り残された領主は、曇天を見上げ……口から長い吐息が漏れ出ていく。
もしかすると、彼の従者もまた、この陰謀の片棒を担がされていたのかもしれない。及ばずながらも、せめてそれだけは明らかにしなければ。
それを、国と領地に尽くす残り少ない奉公の一つと定め、彼は屋敷に向き直った。




