第105話 急転の策謀①
話は少し遡る。
今回の決戦において革命勢力の側が戦場を想定できていたように、ハーディング上層部もまた、その戦地と予定日を推察できていた。
長らく実戦から遠ざかっていたとはいえ、専門家たちは訓練や研究を怠らなかったということである。
そして、相争う両陣営以外にも、同様の予測を持っていた集団がいくつか存在する。
その一つが、ハーディング領のさらに上にある、ルグラート王国政府である。
会戦予定日の3日前、5月26日。
これまで事態を静観していたように映る国の方から、一つの命令が下された。
ハーディング領主を、王城へと参上させよというのだ。
この命令に、領内上層部は最初、若干の戸惑いを見せた。
国内領主たちの上に王室があるとはいえ、それはかなり形式的なものだ。王室の権威は確かにあるが、実権は下の領主たちにある。上から命が下されることは稀だ。
その、稀な事態がやってきたのだ。
さすがに、これに応えないわけにはいかない。王命に従えぬようでは、叛徒を鎮圧する大義名分を自ら手放すようなものだからだ。
だが、このタイミングで召し出そうという動きに対し、重臣たちに思うところあるのも事実だった。
特に軍部は、君命には従わねばとしつつも、不満の色は濃い。これまで傍観者でしかなかった国が、今更ながらに動いている。戦う前から申し開きをさせようというのか、あるいは保護のつもりか。
いずれにせよ、戦いの結果を待たずしての上命に、武官たちは気色ばんだ。
とはいえ、上層部での正式な決定を経て、領主ハーディング伯は王城へと向かうこととなった。
軍部としては、この機に領主が本拠地を離れることについては、特に異論を差し挟まなかった。軍事行動において、この領主に判断を委ねることはないからだ。
仮に領主に判断を求められる事態が来るならば――それは考えたくないことだが、一つの戦場を超えて政治外交的な判断を求められる事態であろう。
そういう事態であれば、不在にしていただいた方が、なおのこと安全かもしれぬ、と。
こうして、会議が終わるなりすぐさま、領主一行は王城へ向けて動き出すこととなった。
ただ、大々的に動いたのでは、事情を知らない下々に対し、いらぬ動揺を与えかねない。そんな進言から、付き人や護衛の数は少なめに。
今回、一行の主な移動手段は、徒歩ではない。門と呼ばれる魔方陣を通じ、門同士を繋いで空間転移するのだ。
しかし、サンレーヌにもそういった門が存在するが、今は閉鎖している。
戦時下においては、こうした措置は常道ではある。軍部としては、正規軍が負けるとは考えていないものの、こうした門を通じて何らかの手先が拠点に紛れ込み、指揮系統を脅かすという懸念を抱いていたのだ。
なにしろ、革命勢力内には出自が不明な手先も多い。外交的に友好・中立を装う勢力でさえ、領内中枢へ直接招くのは憚られる。
そのため、王命だからと言って、一時的に門を開けようということにはならなかった。
サンレーヌの門を使う代わりに、領主一行は北にある衛星都市メイユへ向かうことなった。馬車で1日ほどの距離にあるそこには、機能している門が存在する。
そして、翌日――
☆
メイユの町はずれ、点在する集落に囲まれるように、一軒の立派な屋敷があった。
ハーディング伯一行の馬車は、屋敷の外に繋がれている。出発を待つ馬を丁寧に世話する、屋敷の使用人。
その馬の主たる伯爵は、屋敷の地下にいた。
やや湿り気のある冷たさに満ちる、暗い地下倉庫の一角で、伯爵は手足を拘束されたままでいる。
彼は、こうなることをあらかじめ覚悟していた。
より正確に言えば、王城にたどり着くまでのいずれかの地点で、今のような状況に陥るのではないかと。
ハーディング上層部は、決して一枚岩ではない。
ラヴェリアの手先と思われる者がいる。丸め込まれ、懐柔されたであろう者も。
それとは別に、軍拡の流れに乗り、自発的か唆されてかは別にして、金の流れを捻じ曲げて私腹を肥やした者。
あるいは、単に保身に走ろうという者。国を出る準備を固めようという者。
そういった流れを知らない、ある意味では幸せな者。
多くを察した上で、なお踏み留まろうという者。
おそらく、自分を捕らえた者は、利己的な動機からそのようにしたのだろう。伯爵はそう考えた。
考えたからと言って、何かできるわけでもないが。
それは、この数年間も同様であろうか。苦い思いに彼は表情を歪めた。
ラヴェリアの軍事的挑発から始まる、この一連の軍拡の流れと、軍費徴発に反抗する民衆の蜂起。どのように事が転ぼうが、彼は、ラヴェリアの手の内にあるような気がしてならなかった。
いくら考えても、結局は相手の想定内に終わる。大国相手の戦いは、相手が定めた枠の中でしか動けない。
ならば――
ごく短期間の内に事態が急変してきたこの一月。彼なりに打てる手は打ってきた。
それも、もう終わりかもしれない。
もはや顔なじみと言っていい諦念が、またひょっこりと彼の胸中に顔を出してきた。慣れ親しみすぎて、もはや顔色一つ揺らぐことがない。
彼は、これから自身に降りかかるであろうあれこれよりも、すぐに行われるであろう戦いのことが気がかりで仕方なかった。
領民同士殺し合うことになるであろう、惨たらしい行いのことが。
そして、王城までの道中、自分とともに行くはずであった者たちのことも。
すると、自分よりも人の心配を始めた彼の耳に、上の方で何か騒々しく暴れる音が聞こえてきた。
これを、彼は配下が反抗した音ではないかと考えた。
そして、それが鎮圧されたのではないか、とも。
争うような騒音は、すぐに悲鳴と絶叫に取って代わられた。一瞬でけりがついたらしい。
こうなれば、矛先は自分に向く可能性が高い。暗い予感が脳裏に浮かんでも、まるで身構えようという気持ちは湧いてこない。
騒動から少し後、静かなこの地下室に、足音が近寄って来るのを彼は聞き取った。
まったく、こういう時ばかりは耳がよく通る――皮肉めいた思いに、彼の唇の端が少し吊り上がる。こうした顔になるのも、ずいぶん久しぶりである。
やがて、地下室の扉が開き、外の明かりが部屋に差してきた。
「ひ、ひィ……!」
思わず哀れさを誘う声を出したのは、小太りと言ってもいい中年男性。この屋敷の主である。
王城への参上を前に、領主に一泊を勧めた人物だ。
その彼は、首根っこを掴まれ、引きずられるようになっている。
彼を引きずっているのは、少し幼くも見える顔立ちの青年だ。
ただ、整ったその顔は、家主への慈悲を持ち合わせていないように映る。全身のいたるところに血を浴びている彼は、無表情で屋敷の主を引きずりながら、領主の前へと歩を進めた。
そして、領主の前に着くなり、彼はひざまずいて頭を垂れた。その動きに合わせ、屋敷の主は床に首を押し付けられ、口からくぐもった声が漏れ出る。
暴れる大の大人を、一見すると細身な青年は片手で拘束している。彼は床に押し付けられている男に、「黙れ」と一言命じた。
同時に彼は、首を握る手に力を込めたのだろう。家主は声にならない悲鳴を上げた後、すっかりおとなしくなった。
その後、青年は打って変わって恭しい口調で言った。
「申し訳ございません。大変ご不快な思いを」
「君は?」
尋ねる領主の声に、青年は神妙な表情を向けた。
「アクセル・リスナールと申します。お初に御意を得ます、閣下」




