第103話 雨、泥、そして死
雨が降り出して少しの間、リズの戦場で動く者は、誰一人としていなかった。
彼女も、精兵部隊も、乱入者ローレンスも、その場で動かず静かに構え続けている。草に弾かれる雨粒の音が、戦場にひっそりと響く。
睨み合い自体、彼女にとっては望ましい状況だった。
だが、急に現れた、増援とは信じきれない師の存在に、胸中が少し揺さぶられてしまう。
やがて、川からあまり離れない程度に、彼女は動き出した。ゆっくりと歩を進め、相手方の反応を引き出すように。
兵が近接戦闘に持ち込まれるのを、敵勢は避けたいようだ。リズが北側へと足を向けると、その先にいる兵が接近された分だけ退いていく。一方、別方向はじりじりと近寄り、包囲を狭める体勢に。
そこで歩みを変えると、寄って来た兵たちは後退を始めた。いずれの兵も、付かず離れずの距離感を維持しようという様子だ。
誤射を絡めれば、リズとしては効果的に敵勢を減らしていける。それを警戒していると考えれば、敵部隊の挙動もうなずけるものがある。しかし……
(それにしても……動きが悪い?)
乱入した新手がリズの仲間だと早合点しているとしても、敵部隊の動きぶりは、どうも消極的に過ぎるように思われた。
そこで彼女の脳裏に巡ったのは、この戦場よりも上で起きている事象だ。
――軍事大国ラヴェリアの中でも有数の武人を遣わせてきたのなら、それに連動する外交術策が機能している可能性は高い。
上の指揮系統が乱れているのなら、現状維持に努めようとしているように見える、相手の挙行も腑に落ちる。精細を欠くばかりの、本隊側の攻勢も。
ただ、それは憶測でしかない。仮にそうだとしても、現場要員のローレンスが一から十まで知るとは限らない。
リズにとっては聴けるはずもないことであり、また、聴こうとも思わなかった。
彼女は川沿いを静かに歩き回りつつ、かつての師の方に視線を向けた。
彼は依然として、その場を離れようとはしない。リズが適当に指し示した、彼の持ち場に留まっている。
敵部隊の動きを引き出すため、まずは自分からと動き出したリズだったが、あのまま師の近くにいることに居心地の悪さを覚えたのも事実だった。
というのも、互いの間合いに入り、何かふとした拍子に交戦状態に入れば――そういう恐れがあった。
敵ばかりの王宮で、彼は親切にしてくれた。そういう恩がある相手に刃を向けることに、抵抗は確かにある。
それに、本気で殺し合ったのなら、お互いにただでは済まないだろう。
戦いは膠着状態に陥ったようだが、むしろ目の前の戦いがない分、心休まらないものもある。
そんな中、手持ち無沙汰に戦場をうろつく様を装い、リズは川沿いに魔法陣をいくつか展開していった。元から使うつもりの魔法ではあったが、雨が降ってくれたことが好都合だった。
ぐずついた暗い空だけは、確かな味方でいてくれるかもしれない。
そうして仕込みを進めていく中、《念結》を通じ、偵察係からの言葉が舞い込んだ。
『騎兵が、敵陣中央に寄って来ている』
これまでよりも一際力強く、リズの心臓が跳ねた。それでも、相手に不安は伝えまいと、平静を装った心の声をすぐに返していく。
『動かすつもりね』
『だろうな。射撃部隊の間を割いて、こっちの中央を狙おうって感じだ』
そういった事態への備えは、一応はあった。
そもそも、革命勢力の主武装は長槍だ。ひと揉みで潰されないようにする構えはできている。加えて、狙われるであろうクリストフの守りも、事前に準備はしている。
だが、決して完全ではない。紛れはいくらでも生じ得る。あちらの戦場を預かる傭兵たちも、同様の思いだろう。
そして……騎兵が動き出すのなら、こちらの戦場も、それに連動する可能性が高い。今はまだ、そういう動きを見せないが、包囲それ自体は継続されている。
動きがなかった戦場に、張り詰めた空気が満ちていく。少しでも衝撃を与えれば、容易に爆ぜて飛びそうな緊張感。
すると、偵察係が声を掛けてきた。
『タイミングを見計らって、俺の鳥を突っ込ませるつもりだ。後続の準備に少しかかるだろうが、これで視えているってアピールすれば、指揮が乱れるかもしれない。馬も、驚いてくれるかもな』
『そうね、いい案だと思うわ』
戦場全隊を偵察する彼は、その重役を全うするために専任する形となっているが……彼なりのやり口で、この状況に介入しようとしている。
そんな彼の心構えと発想を、リズは心強く思った。そして……
(負けてられないわね……私も)
いきなりやってきた、かつての恩師に、彼女は色々と思考を乱された。彼が本当に味方かどうか、戦術的に大きな意味を持つのは事実だ。
ただ、川を隔てて後方に、確かな味方たちがいる。今もなお、心を揺るがせるものを感じつつ、彼女はそれを思考から締め出した。
――今から殺すことになる兵たちのことも、今だけは気にかけない。
雨脚が少し強まった中、リズの胸中は冴え渡った。視界も一層クリアになっていく。
そして、戦場が動き出した。後方から響き渡るのは、群れなす重量物が猛進していく轟音。
一方、リズが相対する兵たちもまた、呼応するように動き出した。急に包囲を狭めてくる。すると……
「ご武運を!」
彼女が顔を向けていない側から、聞き覚えのある声が響いてきた。
……彼が何も言わなければ、決めた覚悟も何一つ揺らがず、自分の戦いに集中できただろうに。
だが、「余計なことを」などと生意気を言う気は起きなかった。弟子のことをわかっていそうで、実は微妙に外れていて、不器用だが親切で律儀――
「そちらもね!」
気がつけば、リズは言葉を返していた。自分で少し驚くほどに、朗々とした声で。思えば、彼にこんな声を向けるのは初めてだろう。宮廷内ではありえない。
返事を受け、ラヴェリアでも屈指の槍使いは、リズとは別方向へと動き出した。川沿いを守りつつ、南側の集団を受け持ってくれるようだ。
もう、互いに言葉をかけ合える状況ではない。今はただ、自分の戦いを生き抜くだけである。
急速に迫る敵の包囲陣に対し、リズは川沿いに北上していった。ローレンスの圧が効いている今、リズの背後を取ろうという動きは抑制されている。川に右側を預ければ、より囲まれにくくなるというわけだ。
もっとも、相手も楽に勝たせてくれるわけではない。囲めない分、陣形は厚みを増している。
戦闘開始早々に相手が見せた連携は、見事なものであった。実戦経験こそ浅いだろうが、攻撃時の連携については、相当に訓練を繰り返したのだろう。
そんな敵部隊が密集陣形を取ったなら、包囲に勝るとも劣らない脅威になる。
そして、布石が活きてくる。
川沿いに駆け抜けていくリズは、前方から近づく敵集団と、もうじき間合いに入る。
そこで彼女は、何発かの《水撃》を放った。直撃しても即死するようなものではないが、強烈な衝撃を与えるこの魔法は、密集した相手に著効を示す。
とはいえ、これを真正面から受ける敵ではない。
《水撃》の連射の内、真っすぐ進んだものは《防盾》で容易に防がれた。それぞれの魔法が相殺され、魔力へと還っていく。
一方、見当違いの方向へ跳んでいく弾は、単に無視された。地面に向かった数発が、川沿いのぬかるみを跳ね上げ、より一層の水分を地に含ませる。
そして、リズから数本の魔力線が伸び、川沿いに仕込んだ魔法陣に力が注がれていく。
事前に仕掛けていた魔法は、《活泥波》。ぬかるみを操る魔法だ。この罠に足を踏み入れた者たちに、リズは泥をしがみつかせた。
次の瞬間、前方集団内で声が飛んだ。バランスを崩し、前のめりになる兵が数名。
ただ、集団内でぶつかり合うことにはならなかった。後続は機敏な反応を示し、倒れかけの仲間を避けていく。
事前に、こういう魔法の想定はあったのかもしれない。罠に足をつける感じが途絶え、リズは《活泥波》への魔力線を解いた。
これ自体での戦果はあがらなかった。だが、別にそれでいい。相手は泥土を避けるため、《空中歩行》を選択したようだ。
――では、地に足つかない状態で、互いにどこまで連携が取れるものか。
側方からも包囲が狭まってくる中、リズは川の上へと足を向けた。前方の敵勢の右側を取る動きだ。牽制に《追操撃》を数発。進行方向を露払いするように動かしていく。
これに対し、対峙する兵たちも動き出した――が、彼らの移動速度は、これまでよりも遅い。明らかというほどではないが、川沿いに張り巡らせた《遠覚》のおかげで、それと分かる程度の差はある。
よほど使い込んでいなければ、《空中歩行》を使いつつ、しっかり走るのは中々難しい。もちろん、個人差もある。
そして……《空中歩行》を単なる移動手段と割り切るのなら、動きは遅い者に合わせざるを得ない。あるいは、陣形を乱すことを許容するか。
《活泥波》により、選択を突きつけたリズ。動きが遅くなった敵部隊は、彼女に先んじて回り込まれた。方向転換し、その場で応戦する構えを見せている。
そこへリズは、《魔法の矢》を乱射しつつ、《火球》を放った。敵集団中央の、地面めがけて。前列であれば直撃し得るぐらいの狙いだ。
敵勢の反応は様々だった。多くは《火球》の爆破半径から逃れようと、その場から散開していく。
《火球》に先立って迫る《魔法の矢》は、部隊側方をかすめるように飛ぶ。これをある者は《防盾》で受け、その背後に隠れた兵が、リズに返礼の《追操撃》。
彼女が乱射した《魔法の矢》は、敵部隊上方へは飛ばなかった。この逃げ場へと駆け上がる兵も。
それが狙いだった。
集団から上方へ抜け出した兵が数名。彼らの下方で《火球》が炸裂し、戦場に爆炎が巻き起こり――
次の瞬間、集団から浮いた兵たちは、リズの《貫徹の矢》の的となっていた。これをとっさの反応で、どうにか体の芯だけは避けた者もいる。
だが、完全に正中を撃ち抜かれた者も。魔法の足場を失い、地に落ちていく。
そんな中でも、撃たれた者を省みることなく、互いの攻撃が続く。リズが口火を切った交戦は、次第に苛烈さを増していく。
数の利は精兵部隊にある。
だが、戦術的な優位は、それほど明白なものではなかった。
精兵たちの攻撃は、水平よりも若干上向いた。
おそらく、リズの強みを見抜いていたからだろう。水、泥、爆炎等々、何かが巻き上がって即席の遮蔽物となれば、それは彼女に味方する。そういった遮蔽が存在しないかのように、精密極まる射撃を行うからだ。
一方、彼女の射撃の狙いは、水平よりもやや下。敵勢の地面を脅かそうという射撃は、度々遮蔽物を発生させた。
時として、地面から離れようという、兵の無意識的な動きを引き出すことも。そうした、慣れない空中への一歩が、さらなる隙に繋がっていく。
少しずつ強まっていく雨脚も、リズを味方している。視界が悪くなっていく中、川沿いを動く兵たちの足元で、彼女は魔法陣を動かした。
上には飛び出せない――そういう相手の意識を逆手に取るように、かろうじて地面に触れない程度にある兵の足を、《活泥波》で掴み取る。
この泥の手を逃れようと、ある兵は反射的に上へと逃げようと宙へ駆け上がり……次の瞬間、真顔に諦念が占めるも、彼は《防盾》を構えてみせた。
だが、攻撃は背後から訪れた。悪化した視界の中、どこかをさまよって温存されていた《追操撃》が、彼の背を打ち付ける。
衝撃に《防盾》を構えきれなくなった彼は、貫通弾で盾もろとも心臓を撃ち抜かれた。
連携を乱され、動きが悪くなっていくばかりの敵部隊。
気がつけば、当初相対していた小部隊は、もはや残る一人となっていた。その背後に、もうじき接敵するであろう後続が迫ってきている。
孤立した敵を追い詰めるのに、さほどの苦労はない。自由自在に動く《追操撃》が、最後の相手の手立てをそぎ取り、一気に詰めへと寄せていく。
そして、リズは彼を撃ち抜いた。
とりあえず、最初の小部隊は、全員無力化した。
――いや、おそらく、ほぼ全員殺した。
少なくとも、そのつもりで彼女は戦い、体はそれに答えたのだ。
彼女の戦場には、わずかな間隙が訪れた。
師の方に一瞥すると、あちらも健在のようだった。雨の帳の向こうで、青白い魔力の刃が躍動している。
その姿を見た時に生じた感情を、リズは安堵だと認めた。
ただ、騎兵が放たれたはずの、本隊側がどうなったか。それを確かめるだけの余裕は、彼女にはなかった。
もうじき、さらなる大部隊と交戦に入る。そのことだけに、彼女は精神を研ぎ澄ませた。




