第99話 運命の引き金
一人動き出したリズは、まずはあまり目立たないようにと、本隊の後方へ走り抜けた。隊列最後尾の後ろへ回るや、今度は川の方へと疾走していく。
程なくして本隊から完全に離脱した彼女は、急に肌寒さを覚えた。
一人で立ち向かうことへの心細さから来る寒さだろうか。いや、そういった感じではない。
どう転ぶかわからない、うすら寒いこの先を案ずるがゆえの悪寒だろうか。それはある。
しかし、一番の理由は……
(ああ見えて、やっぱり熱はあったのね……)
同胞と相対するという、可能なら避けたい苦境の中、それでも皆は立ち向かうことを選んだ。
緊張に抑圧される中でも、確かな熱意と気骨はあったのだ。
集団から一人脱した彼女は、立ち向かう者たちが湛えるものを、改めて思い知らされるようだった。
――あの中からも、きっと犠牲者は出る。それを避けようという努力をしても、決して万全ではない。
自分の戦場へと駆け出しながら、彼女は後ろを振り返った。先ほどまで自分がいた集団が、少しずつ小さくなっていく。
目にしたものに対し、心に沸き立つ想いはあったが、それでも足は止まらない。彼女の脚は、あっという間にその身を川の前まで届けた。
穏やかに流れる水面は、頭上の暗雲を映し出している。この地を分かつ薄暗い水面が、かすかに揺らいでいる。
この川に、彼女は不退転の覚悟を持って踏み込んだ。《空中歩行》で、水面ギリギリを駆け抜け、すぐに向こう側へ。それなりの川幅も、彼女にとってはものの問題にもなりはしない。
そうして川を隔てた地へ足を踏み入れたその時、彼女は、ここが自分の持ち場だという念を新たにした。
仲間とともに抱く緊張感とは、また違う何かがここにある。張り詰め、殺伐とした、乾ききった感じが。
彼女が受け持つ分の部隊は、まだ間合いにはない。だいぶ距離が開いているようだ。
ひとまず、彼女は川を右手に前進していった。この川沿いを領土化するかのように、地面に各種の魔法陣を刻み込みながら。
すると、《念結》で偵察の知らせが入ってきた。
『そっちは迂回を始めたぞ。大回りでこっちに来るか、あるいはリーザを囲むか……』
『後者がいいわ』
『俺に注文されても、なんとも……連中に直接言ってやってくれ』
戦場の有り様を一番はっきりと把握しているだろうに、偵察の彼が伝えてくる語調には、まだ余裕はある。
とはいえ、それはリズへの信頼あってのことだろうか。あるいは、彼女が自然体でやれるようにとの気遣いか。話題が本隊同士のものに移ると、思念の声も硬さを増した。
『前進のペースが緩みつつある。そろそろ間合いだ。たぶん、本隊の方が早い。こちらの具合を見て、そっちの別働隊が動くんじゃないか?』
『わかったわ……頑張ってね』
『……一人で出向いた子が言うセリフじゃねえな、まったく!』
向けられた言葉に、苦笑いながら、吹っ切れた感じの顔が思い浮かぶ。思わず苦笑いしつつ、リズは『なんとかするから』と気持ち明るめの声を念じた。
心の会話の後、川向こうの主戦場に目を向けてみると、確かに間合いは縮まっているところだ。
長槍程度ではとても届かず、馬で踏破しようにも若干の時間はかかり……しかし、《魔法の矢》の一斉射撃であれば、十分な有効な攻撃として認められる。
そんな、正規軍側にとって絶好の間合いに近づきつつある。
これを迎え撃つ仲間たちは、陣を堅固にして不動の構えだ。
ここまで来て、引くという戦術はない。大崩れしないように退却することなど、寄せ集めの民兵には望むべくもない。
退いて次がないのなら、迎え撃つしかないのだ。
――相手の第一波で、その後の流れが大きく変わる。
その時が近づきつつある予感を胸に、リズは自身が受け持つ相手へと視線を向けた。
だいぶ遠巻きに散開する動きを見せており、合流や加勢を急ぐ気配はない。
おそらく、主力同士の戦いで、その優位を疑わないのだろう。あえて今仕掛ける必要はない……といったところか。
実際、事ここに足るまでに準備をしてきた彼女自身、それでも本隊同士の決戦は賭けの部分が大きいという認識がある。
お互い、押し込めた感情がどう動くか、未知数な部分は大きい。
☆
叛徒を討つ側には、秩序を守るという大義名分がある。相手がどれだけ高邁な志を口にしようと、現行の秩序が転覆しない限り、体制側にこそ正義があるのだ。
だがしかし、革命を迎え撃つ正規軍にとって、この戦いは決して容易なものではない。たとえ、正義という後ろ盾があろうとも。
主戦力となる大部隊のほとんどは、つい最近軍属になったばかりの新兵だ。自ら志願し、この道に足を踏み入れた彼らは、他国から故郷を守るためにそう選択したのだろう。
――それが、まさか、故郷を同じくする者を討つことになろうとは。
新兵たちを束ねる士官たちもまた、この戦いについては複雑な思いを抱いている。
そんな小隊長たちの一人、グレゴリー・レルミット。30半ばの筋骨たくましい軍人である彼は、居並ぶ部下たちに囲まれても、すぐに隊長だと分かる。
不安に揺れる部下に囲まれながらも、隊長としての毅然さを保っているからだ。
彼は他の隊と並んで前進しつつ、携行品の望遠鏡で敵勢の様子をうかがった。
杖が主武装ということはすでに知られているらしく、相手は大盾を前列に並べて受け切ろうという構えだが、十分な数を揃えきれなかったようだ。盾と盾の間には、若干の隙間がある。
最初の斉射で、それなりの死者が出るだろう。
すぐそばで誰か死んだとき、その恐怖に文民がどのような反応を示すか。おそらく、恐怖が陣容に亀裂を入れ、程なくして自壊していくことだろう。
では、撃つ側はどうか?
グレゴリーは望遠鏡を下げ、部下に視線を向けた。
感情が大きく表に出ることはないが、それでも、不安と緊張が場を満たしているのがよくわかる。
彼自身、この戦いに煮え切らない思いはあった。
まず、敵に対し、何一つ降伏勧告がなされていない。
これは上の方針だ。言葉一つで矛を収めたとしても、火種は燻り続けるだろう。
ならば、この一戦でもって、後の火種を一掃する見せしめとしなければ……ということらしい。
しかし、相手はあくまで領内の同胞である。軍拡が始まって以来、上層部が武断的に寄り過ぎているのではないか。そんな思いが彼の中にはあった。
それに、近辺で出回っている革命のビラの存在も、士官たちを悩ませた。相手の言い分がわかるというのが、実に厄介なのだ。
こうしたビラについて、士官同士であれば、まだ苦い笑い話で済ませられる。だが、新兵たちが感じるものは、軍歴長い者とはまた違ったものがあるだろう。
ビラの中では、このハーディングの中で内乱を起こさせることで、利を得る外敵の存在が記されていた。グレゴリー自身、それは正当な指摘だろうとは思っている。
だが、現場の総指揮官や軍上層部は、これを黙殺した。正規軍を惑わせ、矛を収めさせようという、外敵にも劣らぬ策謀の一環であると。
こうした上の姿勢もまた、この領地の行く末を暗示しているように思われてならない。
だとしても、上の命令には逆らえない。
それに、命令に忠実であることが、部下たちのためでもあった。
規律が緩めば、その分だけ、個々人に考える余地が生まれる。
それで新兵たちが幸せになるかというと……とてもそうは思えない。
幾度となく迷いや悩みが生じては、そのたびに彼は心のざわめきを断ち切ってきた。内に響く声を部下の葛藤と思い、それを堪えて鑑であろうとあり続けたのだ。
そんな彼の耳に、陣の後方から鼓の音が響いてきた。
これが意味するところは、新兵たちも知っている。もとより緊張に包まれていた場が、より一層に張り詰めていく。
よく通る声で、彼は「構え!」と言った。命令とともに、彼も杖を構えて見せる。
その矛先は敵勢力の方へ。部下たちと同じ武器を構えるその瞬間、苦い思いと、腕に若干の抵抗を彼は感じた。
こんな杖など、大した重みもないはずなのに。
彼同様の命令が横からも響き、兵たちが動いていく。陣形全隊で、最前列から後方へと段状になっていく構えだ。途切れ途切れのさざ波のように、新兵たちが構えの姿勢をとっていく。
覚悟を決めた誰かの動きが先駆けになり、それに呼応するように周囲も動き……そ うした塊が群発的に発生し、波及しているのだ。とてもではないが、一糸乱れぬ動きとは言い難い。
構えに至るまでの、この動き出しの波は、兵たちの揺れ動く心情そのものである。そのように彼は感じた。
だが、それでも、新兵たちは武器を構えてみせた。
次の号令で、弾が一斉に放たれる。
すぐには撃てない者もいるだろう。
しかし、周囲で撃つ者の存在を感じ、何かしら思うはずだ。故郷を守るということを、この新兵たちは、決して他人事のままにしようとはしなかったのだから。
だから、こんなところにまで、逃げずにやってきたのだ。
撃てなかった者も、いずれきっと撃つ。
そうして、皆が本当の兵になっていく。
軍全体が構えの姿勢をとり、不意に静寂が訪れた。咳き一つ憚られる、胸を締め付けるような静けさが、内なる鼓動を鮮烈に感じさせる。
まるで、それが自分だけのものでなく、この軍という一塊の心情を表している――そんな錯覚を抱かせる。
そして――
「撃て!」
総指揮官の声が、静寂を切り裂いて響き渡った。
命令に、グレゴリーは即応した。他の部下たちの大半も。
完全な一斉射撃ではない。遅れて撃つ奴もいる。
しかし、務めを果たそうという意志を形にした部下たちに、彼は声に出さずとも「よくやった」と叫んでやりたい気分だった。
それが、わずかばかりの慰めにもならないだろうと認めつつ。
放たれた《魔法の矢》が、同じ領民たちの陣へと殺到していく。放たれた矢が着弾するまでの、わずかだが妙に長く感じられる時間の後、叩きつけられた弾が爆ぜる音が戦場を揺らした。
新兵の中には、構えを持続しつつも、目を背ける者もいる。息が荒くなる者も。思わず構えを解いて、口元を抑える者も。
そんな中にあって、グレゴリーの内に生じたのは――新兵たちとは違う、独特の感覚であった。
(なんだ、これは……?)
違和感があった。撃ったこの手に、直感的な手応えがない。
それに……いくら多勢による《魔法の矢》とはいえ、連射ではない。面積辺りの攻撃の密度は、さほどではないはずだ。
だが、対物射撃とは思えないほど、多量の魔力が敵陣で散っているように思われる。こちらが撃ち込んだ魔力よりも、さらに多くが飛散しているように。
そして、彼にとっては奇妙だったのは、これがむしろ見慣れた光景のように思われたことだ。数限りない演習の中で、同様の感覚が骨身に染み、目に焼き付いている。
新兵たちの反応とはまた別に、他の士官たちもまた、動揺を覚えているらしい。そうした同僚たちの様子が、彼の心をさらに騒がせた。
やがて、第一射によって生じた魔力の雲が晴れ上がったその時、看的手たちがそこかしこで叫んだ。「敵勢力、健在!」「効果確認できず!」等々。そして……
「し、《防盾》の展開を確認!」
着弾直後に感じたものが、現実になった。
彼が目にしていたのは、普段の演習だ。《防盾》を構えた者に《魔法の矢》を撃つ。幾度となく繰り返した、あの構図。
グレゴリーは顔を青ざめさせ、迷いのない手付きで望遠鏡を取り出し、敵勢へと目を向けた。
そこに並んでいるのは、物質的な大盾に加え、何枚も何枚も《防盾》を多層的に構える民兵たちであった。
そして、魔法の盾を構える者たちは、皆一様に一枚の紙を掲げてもいる。その紙が何であるか、グレゴリーには最早自明に思われた。
民兵たちは、革命のビラを構えている。こちらに見せつけるように、堂々と。
――おそらく、そこに《防盾》の魔法陣が刻まれているのだろう。極めて簡易な、魔導書の代わりとして。




