第98話 サンレーヌ会戦
5月29日、朝。
空を雲が覆う薄暗い曇天の下、サンレーヌ城を臨む位置にある大平原で、革命勢力とハーディング正規軍は向かい合って布陣した。
両軍の間でこれといったやり取りがあったわけではないが、この地が戦場となったのは、革命勢力側からすれば想定通りであった。
まず、城の近辺は平野部が広がり、城下町の外にも集落がいくらか点在する。
しかし、城から距離を隔てたこの辺りは、街道上ではあるが集落がほとんど存在しない。双方にとっては、不要な被害を振りまかない戦場となる。
また、戦場の側方には川も流れている。幅広であるが、さほど深いものではない。鍛えた兵ならば、どうにか渡河できる程度の川だ。
この川は、幅がやや狭まる地点も存在し、正規軍であれば戦術的に利用することも可能だろう――
そういった見立てが、革命勢力にもあったということである。こうして両軍が睨み合った現状は、特に想定の範囲を出るものではない。
今日、この地で戦いになるだろうという話は、すでに革命の全構成員に周知してある。
これには、覚悟を決めさせる意図があった。加えて、事が予定通りに進んでいるという印象を、決戦前に与えたいという考えも。
もちろん、想定が外れれば逆効果だ。今回は賭けに勝った格好ではあるが……
横陣の中央後方から、リズは周囲の様子をうかがった。
(やっぱり、プレッシャーはあるわね……)
革命に参する大勢は、結局の所、文民の域を出ない。やはり、実戦を前にして気圧されるものは確実にあるようで、支給品の鎖帷子に着られている感は否めない。予想の賭けが当たっただけ、まだマシというところか。
ここまでほとんど脱落者を出すことなく、殺し殺される恐怖を抑え込んでまで戦場へとやってきた参加者たちは、リズから見ても十分に立派ではある。
だが、戦闘が始まった時のことを思うと、否応無しに不安が掻き立てられるのも事実だ。
民衆を束ねる立場のクリストフもまた、強度の重圧に表情が冴えない様子だ。
そして……努めて状況を客観視しようという、リズ自身も。
ここまで大きな戦いは、彼女にとって初めてのことである。それに、自分以外の命どころか、それ以上のものもかかっている。
胸の内で弾む心拍に、内側から心を削られるような思いを抱いた彼女は、目を閉じて細いため息をついた。
やがて顔を上げた彼女は、横に控える傭兵たちへと目を向けた。
大勢が状況に呑まれかねない中にあって、落ち着き保つ傭兵たちの存在は、リズにとっても実に心強いものだ。彼女自身、死地をくぐり抜けてきた自負はあるが……大規模な戦闘の経験となると、傭兵たちに軍配が上がるだろう。
もっとも、そんな頼もしき傭兵たちも、普段の軽妙な調子は鳴りを潜め、さすがに緊迫感を漂わせる風ではあるが。
双方が布陣を完了し、互いに動きを止めてから十数分程度。戦場は異様なほどに静かで、いまだに大きな動きはない。
しかし、じりじりと何かが近づいている確かな予感は、リズの中にあった。
と、その時、ダミアンが傭兵の一人に「動きは?」と尋ねた。
声をかけられたのは、《憑依》による空中偵察要員の魔法使いだ。視覚を布の鳥に預けたままの彼は、首を横に振った。
「まだ動こうって気配はないな。こっち待ちなのかもわからんが」
「そうか」
二人のやり取りを横で聞き、リズは割り込むように口を開いた。
「私も、《憑依》使おうかしら」
「そうだな……」
彼女の申し出に、タミアンは考え込む様子を見せた。
リズも《憑依》を使えるが、偵察専任は別に用意し、リズは遊撃・要撃として動くというのが事前の決定であった。彼女は負担が大きいポジションにあり、できる限り力を温存しておきたいという事情も。
だが、ダミアンの決断は早い。申し出からあまり間をおかず、彼は「そうだな、頼む」と口を開いた。
「思っていたよりも、相手に動きがない。余裕がある今のうちに、お前さんもあらかじめ見ておいた方が、後々有利だろう」
「ええ、わかったわ」
戦術面の指揮は、おおむねダミアンに一任されている。彼の判断を、主導者たるクリストフも了承し、「お願いします」と口にした。
リーダー二人の承認を受け、リズは紙の鳥を空に飛ばしていく。
やがて、十分な高度まで上がったところで、鳥の目はリズに戦場の今を伝えてきた。
革命勢力側は、ごく普通の横陣である。生まれて初めてぐらいの感覚で武具を手に取ったばかりの民兵に、戦術的な展開法を短期間で仕込めるわけもない。スタンダードな陣で構える格好だ。
騎馬の存在を見越し、側方後方には長槍を構えさせている。
ただ、敵の主戦力は、杖から放たれる《魔法の矢》であろう。これに対抗するため、陣形最前列では大盾などの構えもある。
一方で正規軍の側も、主戦力は横並びの陣形だ。主力同士で言えば、数の有利は革命勢力側にあるだろうか。
主武装から来る射程と火力の差は、火を見るより明らかだろうが。
さらなる懸念となるのは、別の部隊の存在だ。
まず、敵主力本隊の後ろに騎馬の小部隊が見受けられる。
革命勢力は、騎馬対策に長槍があるとはいえ、飛び道具に欠ける。先手を許して防戦一方となっているところに、騎馬の追撃とかく乱を加えられれば、勢力全体が危機に陥りかねない。
危険視すべき部隊は、他にもいる。革命勢力から見て左側に流れる川の、さらに向こう側にいる、数百人規模の部隊だ。
おそらく、これが精兵部隊だろう。「見えたか?」と尋ねるダミアンに、リズは答えた。
「ええ。川を挟んで待機中ね」
「おそらく、横合いから渡河してくるだろうな。こちらは川から距離を開けて布陣している。たぶん、川を挟んで撃つようなことはないはずだ」
革命勢力としては、敵の精兵らしき部隊が渡河している間に、それを撃ちに行くのは難しい。同じ精兵同士であれば、あちらは傭兵たちの数倍の兵力だ。
また、水面を一時凍結させる、あるいは川底を一時的に隆起させるような、工兵的魔法使いが、あの部隊に組み込まれている可能性が十分にある。
よって、渡河の隙を突くというのも確実な策ではない。
そもそも、傭兵たちの存在が、周囲の一般構成員に大きな安心を提供しているという事情もある。ここで彼らを出すのは、利よりも危険が大きいだろう。
川を絡めた戦術は、事前に想定していたところではあるが……鳥観図で目の当たりにし、リズは心拍が少し上がるのを感じた。
そして――ついに、敵の本隊が動き出した。上から見ると、ほんのわずかな動きではあるが、確かに前進している。
偵察係も、この動き出しは見逃さなかった。「動いたぞ」との一言で、周囲に緊張の波が広がっていく。
動き出した正規軍の本隊は、ゆっくりと間合いを詰めつつ、横に薄く広がるような動きを見せている。前方の両端を二方向から攻め立てることで、そこから切り崩そうという腹なのだろう。
陣形を横に伸ばせば、その分隊列が薄くなるが、これはあまりデメリットにならない。一転に戦力を集中させ、敵陣を中央突破することなど、革命勢力側には不可能だからだ。
むしろ、陣を薄くすることで、後方に控える騎兵の通り道を開けやすくもできよう。
正規軍の大多数は新兵も同然と見られるが、彼らを動かす側は、的確な攻めの姿勢を見せている。普通なら選択しづらい陣形だが、この場では適切な判断と思われる。
そして……
「川の向こうも動き出した」
偵察係が口にしたのと同じものを、リズも上から見ていた。陣を横に広げつつ、じわじわ押し寄せる本隊よりも、川向こうの部隊は足が速い。
その動きを認め、リズは《憑依》を解いた。
後は決断である。戦場に戻った彼女の目が、ダミアンに問いかけた。
すると、先程の偵察の声から一拍置き、ダミアンは「いいな?」と尋ねた。
問いかけられたのは、クリストフだ。悩む間もあまりない中、彼はわずかな間に決断を済ませ、神妙な面持ちでうなずいた。
「お願いします」
彼に頭を下げられ、リズは(場違いかも)とは思いつつ、表情を柔らかくした。
「安心してください。悪いようにはしませんから」
「そうですね。信じます。ご武運を」
「そちらも」
それだけ言葉を交わし合うと、リズはクロードら幹部たちと、仲間の傭兵たちに小さく手を振り駆け出した。
前もって決めておいた作戦通りだ。
――精鋭らしき部隊が独立して動くのなら、リズ単騎でこれを抑え込む。
これは彼女自身が言い出したことであり、ためらいつつも傭兵たちが認め、悩みに悩んで幹部たちが認めた作戦だ。




