姫、中二病を発症。
ヒュォォォォ。
遥か遠方に見える地面より吹き上げる風が、金色の前髪を弄ぶ。
無駄に豪奢な白いドレスの裾が暴れ、血の滲む裸足で石床にしがみつく。
形の良い白磁の額に、一玉の汗が浮かび鼻梁を滑り落ちて、彼方の虚空へ消え去った。絶壁の下は海。両腕をきつく縄で戒められたこの体では、落ちれば海の藻屑となり果てよう。
しかして、紺碧の海とは正反対の紅き双眸をこれでもかと見開き、思考するのは己の命の危機をいかに回避するかでも、神への命乞いでもなかった。
走馬灯。
頭の中を駆け巡る目まぐるしい記憶のスライドショー。
田舎の二男三女の平凡な家庭に次女として生を受け、社会人になるや厄介払いされるように家を出て世田谷の築三十年のアパートに住み着いた仕事はブラックで、持ち前の空気と同化する気性で吐血するほど働きづめ、社内で着いた異名は『おんなぬりかべ』、ただひたすらに満員電車で会社と自宅を往復し、いや、ほとんど電車に乗ることもなく会社で寝泊まりもしたか、盆正月もなく働いた結果、故郷では死んだと思われ、婚期など訪れる筈もなく、三十路を過ぎても唯一の楽しみはネットゲームか乙女ゲームであった我が人生に一片の―――――――――
「悔いがねぇわけねぇだろうがあああああああああああああああああああ!!!」
乙女のものとはおよそ思えぬ魂の慟哭。同時に背中に衝撃が走った。乙女の体がぐらりと揺れる。膝から力が抜けてがくんと崩れ落ち、半身が虚空に放り出されると、後ろから首を冷たい金属の棒のようなもんで押さえつけられた。
「…静まれ。子供とは言えそなたは王族。この期に及んで見苦しい真似はするな」
低く怜悧な声音の方を、恐る恐る視線だけで辿れば、真っ青な髪色の恐るべき美形のコスプレ男が本を片手に立ち、無表情でこちらを見下ろしていた。
なんだこいつ。王族?一体何を言っているんだ?
不意に走馬灯から我に返った私は、自らが置かれている状況に困惑し、そして理解した。いや、思い出した、といった方がいいか。
「これより、バベル帝国第一王女、マルガリータ・フォルクス・イル・バベルの処刑を行う」
隔てられたこちら側には、処刑人と兵士四人、そして青髪の男。あちら側には大勢の人、人、人。
断崖絶壁に建てられた塔の上。王侯貴族専用の処刑台。まさに私はそこに立って…あ、いや、膝を折っている。
それにしても難儀なこと。よりによって自分が死ぬ間際に前世を思い出すとは。
いや、待てよ。本当にそうなのか?
死ぬ間際に前世を思い出すとか、そんなドラマチックな展開なのか?――私の読みふけった異世界転生モノには確かにありふれた展開だったが、いざ自分の身になってみるとなかなか劇的展開に思えるが――実際、私は今私の記憶が鮮明過ぎていきなり異世界にワープしてきた気分であり、この状況が自分の死刑とはおよそ思えない―――つまりは現実逃避のような――いや、どちらが現実か分からない私にとってはもはやどう理解していいかも分からない――――ああもう面倒くさい。これ夢じゃね?
何かを吹っ切った私は、大きく息を吸い込んだ。
これが夢なら
「ァあ――――――――はっはっはっはっはっはっはっはっはっは!!」
存分に発揮してみせよう
「…こんな人間の小娘一匹殺したところで。本当に、この我を屠れると思うておるのか。下等種どもめ」
一度やってみたかった、脳内で何度もシュミレーションしてきた、
「我が魂が幾星霜この世に在ると思うておる。この身体が我を留める最期の檻。神々が貴様らに与えた微々たる慈悲だというのに…愚かな人間どもよ」
渾身の中二病設定…!!!
「さァ…殺すがよい。無垢なる少女を礎に、世界の終焉を始めよう」
年端もいかぬ少女のものとは思えぬ凶悪な微笑みは、風呂場の鏡を見ながら何度も練習したからバッチリだ。
ぐらりと体を反転させれば、怯えたように棒を向ける兵士が息を飲み後ずさった。
立ち上がり――なるほど、自分は子供の体のようだ。柔軟である。静まり返る人々をにまにまと眺めながら一歩後退する。ここでこのまま海へ落ちれば完璧だ。めちゃカッケェ。だがその私の目論見は思いがけず阻止されることとなる。
「光よ!」
眩いばかりの白光が虚空を切り裂き私の体に巻き付いた。
「んぎゃッ!?」
いたいいたいいたい。白い光の蛇に縄のように締めあげられ、普通に悲鳴をあげる。べしゃっ、と引き倒されれば、青髪のコスプレ男はその髪色にひけを取らぬ青ざめた顔で宣った。
「…処刑は中止だ」
かくてこの物語は波乱…主に主人公の暴走から…の幕開けを告げるような告げないような。