第一幕1場 「ジーヴスが見つけてくれたのは」
ジーヴスが見つけてくれたのは、下町といっても比較的落ち着いた地域にある、未亡人が経営する3階建ての下宿だった。
私が借りたのは、2階の街路に面した部屋で、館の私の衣装部屋より狭い寝室1室だけ。
2階の奥に、下宿人共用のキッチンと、バス、トイレがある。
3階に住む、他の2人の下宿人はいずれも平民で商会で働く女性だった。
自分から言い出したこととはいえ、こんなに狭い、不便なところで暮らすのかと最初はショックだったけれど、街路が見える明るい窓辺は気に入った。
下町で着てもおかしくない服に絞ると、ちょうど下宿のクローゼットに収まる量になった。
お祖母様、お母様から譲られた装身具はルーシアに渡してもらう。
彼女はあれから一度も口をきいてくれない。
お祖父様やお父様がくださった装身具は、残されても困るとのことで銀行に預けることにした。
持っていくものを最小限に絞って引っ越しし、サラに3日間通ってもらって、一人で身支度するやり方、買い物の仕方、家事の仕方、銀行の使い方、辻馬車や乗合馬車の乗り方、女性一人で行っていい場所、行ってはいけない場所、危ないと思った時の助けの求め方などを教えてもらい、新生活が始まった。
最初は本当に大変だった。
掃除はまだなんとかなったけれど、冬ということもあって洗濯が辛い。
食事は食材を買っても持て余してしまうので、屋台などで買ったものを中心に、後は野菜スープを作るくらいにした。
それでも次第に慣れて、一日中家事をしなくてもよくなったけれど、知っている人と出くわすのが怖くて、ヴェールをつけるにしても外に出づらい。
それに、お祖母様の遺産では、そんなに余裕はない。
勇気を出して少し遠出をしても、カフェに入るにも、今月の予算があとどれくらい残っているか計算しなければならなかった。
服もそのうち買い足さなければならないし、病気になったときの備えも必要だから、できるだけ切り詰めなければならない。
そんなことを気に病んでいると、気持ちが落ちてくよくよしてしまい、コンチェッタやフランシス様を恨んだり、お父様やルーシアはなぜ信じてくれないのだと、どうにもならないことばかり考えてしまう。
いっそお母様のところに行きたいと思う夜も、幾度もあった。
こんな暮らしでは心を病んでしまう。
「飢えなければ大丈夫」というのは甘かったとつくづく骨身にしみていた頃、共用のキッチンで、下宿人のマリアがなにか書き物をしているところに行きあった。
厚みのあるカードをいっぱい積んで自分の名前、店の名前を書いている。
「……マリアさん、なにをしているの?」
「あ、エリゼさん。
お店でお客様に渡すカードを書いているんです」
ああ、と思い当たった。
高級店では、買い物をしたとき、店員がカードを渡してくることがある。
気に入ったら、指名してくださいという印だ。
ろくに見ずに捨ててしまっていたけれど、こうやって自分の時間を削って用意するものだったのか。
「よかったら、私も書きましょうか?」
「え。お願いしていいんですか!?」
マリアは助かった、という顔になった。
私は、もう使うこともないかもしれないと思いながら、手放せなくて家から持ってきたカリグラフィー用の筆とインクを部屋からとってきた。
カリグラフィーは得意だ。
お父様も私の描く字は素晴らしいと褒めてくださって、家で晩餐会をする時は私が招待状の表書きを描いていた。
名前と店名だけでも、書体やレイアウトによって印象は大きく変わる。
可愛らしい感じ、すっきりまとまった感じ、伝統と権威がある感じ、と色々書き分けてみる。
すごいすごいとマリアは喜んでくれ、客によって使い分けたいから何パターンか書いてほしいと頼まれた。
人から感謝されるのなんて、いつぶりだろう。
「本当に助かりました!!
あの……もしよろしかったら、うちの店に出入りしている印刷所にご紹介しましょうか?」
「……印刷所に紹介って、どういうことかしら?」
意味がわからなかった。
「印刷所って、レストランのメニューや賞状なんかを綺麗に書ける人を探していることが多いんです。
小遣い程度かと思いますけど、一応、手間賃は出ると思います。
こんなに綺麗に書き分けられるのなら、仕事にしないと損ですよ」
びっくりした。
そうか、そういう仕事もあるのか。
自分が働くとしたら侍女か家庭教師くらいしかイメージがなく、身元調査が入るからどちらも無理だと諦めていた私は、眼から鱗が落ちたような気持ちになった。
ぜひお願いしたいと頼むと、マリアはその週のうちに印刷所を紹介してくれた。
ゲンスフライシュ商会という、大手の出版業者がいくつか持っている印刷所の一つだ。
地図を見ながら知らないところに一人で行くのは緊張したけれど、その場でテストを受けて合格となり、次の週からさっそく仕事を請け負うことになった。
月曜の朝に印刷所に行って、仕事があるかどうか訊ね、メニューなど紙に描くものは持ち帰ってだいたい水曜の昼過ぎに納品する。
たまに割の良い小型の看板の仕事もあり、それは印刷所の片隅で作業した。
ある程度お金が溜まったところで中古の机を買い、キッチンのテーブルではなく部屋の中で仕事ができるようにした。
手狭になったけれど、道具も買い足して、受けられる仕事の幅を広げる。
それにしても、侯爵令嬢として生まれた私が、街の印刷所で「仕事」だなんて!
お母様がお元気でいらしたら、きっと卒倒されたでしょうね……
様子を見にやってきたサラにもびっくりされた。
でも、その次に来た時、なにも言われなかったので、黙認されたようだ。
マリアと、もう一人の下宿人エレノアとも少しずつ話すようになった。
2人とも、私が「訳あり」だということは察していたと思うけれど、そっとしておいてくれた。
2人の休みには、芝居小屋に行って寸劇を見たり、カフェでおしゃべりをできるくらいには生活にゆとりも出て、過去のことをくよくよ思い返すことも少しずつ減っていった。