序曲
貴族学院の本館ホールは豪奢に飾り付けられ、シャンデリアのきらめきが眩しいほど。
私は、婚約者のフランシス・ヴェルロット侯爵令息と最初のワルツをなにごともなく踊り、踊りの輪から外れて飲み物を取ったところだった。
無口なフランシス様にどう話を振ろう、と考えながらグラスを口元に運んだところ、私達の前に、1年生のクラウディア・セダーラ男爵令嬢がやって来た。
新年明けてすぐ行われるデビュタント・ボール(舞踏会)のドレスを兼ねているのだろう、美しい純白のドレス姿だ。
つややかな黒髪、挑発的な、猫を思わせる黒い瞳、豊かな紅い唇──
くすんだ赤毛に、少しそばかすが散った童顔の私は、彼女の姿を見るだけで、いつも圧迫感を感じてしまう。
彼女とは、フランシス様のことで何度か揉めたことがある。
一体なんの用?と戸惑った瞬間、不意に、後ろから強く押された。
耐えようとしたけれど、身体が前に泳ぐ。
バッシャー!と、まだほとんど飲んでいなかった赤ワインが飛び散り、クラウディア様のドレスにかかってしまった。
ボディスもスカートもワインで赤く染まり、クラウディア様が悲鳴を上げる。
やってしまった!!
謝らないと!!!
けれど私がなにか言う前に、私の幼馴染のコンチェッタ・ジンバルドー伯爵令嬢が横から飛び込んできて、「ひどいわテレーゼ、なにもこんなことまで!」と叫び、フランシス様も慌ててクラウディア様に駆け寄った。
まわりの注目が一斉に集まる。
「お母様のドレスが」と、しゃがみこんで泣きじゃくっているクラウディア様。
クラウディア様に寄り添って私を睨んでいるコンチェッタ。
血の気が引いたまま、棒立ちになっている私。
クラウディア様の傍でおろおろしていたフランシス様が、私を非難する周囲の視線に気づいて、あたりを見回したあげく、追い詰められたように叫んだ。
「……テレーゼ、君との婚約はなかったことにしたい!」
久しぶりに、厭な夢を見た。
時が経った今ではちょっぴり懐かしくもあるけれど。
私のかつての名は、テレーゼ・ファブリーツィオ侯爵令嬢。
悪夢の学院舞踏会から7年経った今は、郷士の娘エリゼ・マルファッティと名乗り、下町の下宿で祖母が残してくれた信託財産の利子でつましく暮らしていることになっている。
名前はもうひとつある。アイリス・ブラッドリー。
婚約破棄騒動の後、私は館に引きこもった。
私の卒業と入れ替わりで来年度から学院に入学する妹のルーシアに、これで自分の学院生活は真っ暗だと泣き叫ばれたのはこたえた。
お父様は、たまたま後ろから押されて、赤ワインがかかってしまったのだとしどろもどろに説明する私を、ただ険しい眼でご覧になるばかりだった。
お父様はセダーラ男爵に謝罪とドレスの賠償を申し入れ、それは受けていただけたのだけれど、クラウディア様はショックで寝込まれたそうで、直接のお詫びはかなわなかった。
この話は特大のスキャンダルとしてあっという間に社交界の津々浦々まで知れ渡ってしまった。
叔父様が慌てて隣国の伯爵子息との縁談を見つけてくれ、すぐに見合いのため出立したけれど、国境の町に着いたところで「申し訳ないが辞退したい」との連絡があり、そのまま私は帝都に戻されることになった。
悪評が、私を追い越してあちらに伝わったのだ。
館に戻った夜、疲れ切った私に、「修道院に入るか、領地の隠居所で暮らすか、どちらか選べ」と私よりも疲れ切った顔をしたお父様はおっしゃった。
貴族の娘として修道院に入るのなら、かなりまとまった額の寄付が必要だ。
家門の栄誉を守るため、学院への多額の寄付を準備されているお父様に、更に負担をかけてしまうことになる。
領地の隠居所で暮らすということは、一生、家族のお荷物になるということだ。
私が家に残れば、留学中のお兄様の将来にも、妹の将来にも先々影を落とすことになってしまう。
私には、お祖母様が結婚後の化粧料として遺してくださった信託財産があった。
結婚しないと元本に手はつけられないけれど、成人したから利子は受け取れる。
そんなに大きな額ではないけれど、庶民に混じってひっそり暮らすのなら飢えはしないはずだ。
そう申し上げたら、「そんな暮らしが自分にできると思っているのか」とお父様は大きな声を上げられたけれど、執事のジーヴスが間に入ってくれた。
ジーヴスが私が住むところを手配し、後はきちんと暮らしているかどうか、しばらくの間ジーヴスか女中頭のサラが抜き打ちで見に来る、生活が乱れているようならすぐに領地の隠居所に移すということでまとまった。
身一つで放り出しはしないということではあるけれど、私が身を持ち崩し、これ以上家名が泥をかぶるのを警戒しているのだなと思った。
家族も、友達も、誰もあれはわざとしたことではないと信じてくれなかった。
お母様が亡くなられていなければ、お母様だけは私のことを信じてくださっただろうと思うことだけが救いだった。