第1幕 合宿という名の特訓(2)
「ありゃりゃ、もう戦意喪失かい」
枢子の情けない声に、草叢からのっそり背を伸ばした茅逸はそう応じて頭を掻いた。
右手には砲撃第二陣として用意していたお手玉入りの巾着袋。
ルーズに刈り込まれたボブカットの頭髪や赤ジャージの膝小僧に、緑の草葉がアクセントっぽく纏わりついている。
「仕方あるまい。剣が無事だっただけでも大したものだ」
続いて雑木林から僅かに外れた、最も校舎の近くにある一本杉の向こうから、枢子と同じ夏服姿の太鳳が悠然と姿を覗かせた。
身長こそ低いものの、凛とした美貌に似つかわしい聡明な口調である。
「ある程度の身構えの姿勢は取れていたように思う。本格的な防御にはまだまだなっていないが」
言いながら優雅にスカートを靡かせ、なだらかな傾斜を軽やかに飛び降りる。
「けどさァ、仕掛ける側としちゃあ、ちと張り合いがないんだよねェ」茅逸は膝の汚れを払った手で器用にお手玉を操りつつ、「あたいの〈輝きな! 邪魔な奴らをブチ壊す砕破の気合よッ〉の真価はこんな程度じゃないよ。本格的な猛攻はこれからだったのにィ」
よ、良かったー……早めに白旗揚げといて。
己の好判断に内心拍手を送る。
太鳳が差し伸べた透き通るように白い手を恐る恐る握り返し、枢子は徐に立ち上がった。
「す、すいません」
「おー優しいもんだねェ。さっすが世話役」
口の端に指を添えて茶化し気味に囃す茅逸を鋭く睨めつけた太鳳だったが、即座に眼を転じると、
「だが茅逸の意見ももっともだぞ。あまりに諦めが早過ぎるのも考え物だ。攻撃に耐え抜く忍耐力や根性は、頭で考えてできるものではない。こういう実戦形式を通じて体で覚えていくものだからな」
朗々たる声で諭され、必要以上に恐縮せざるを得ない。
憧れの先輩の提言ということもある。
枢子は自分よりも背の低い上級生に、全く頭が上がらなかった。
と、少し離れた地点に、人影が一つ音もなく降り立った。
「あ……航也」
線の細い顔立ちに、黒の半袖シャツと草色のジャージ。
最前、萎縮していた壁際の枢子に声を掛けてきた同級生の航也である。
ゆらりと立ち上がった青年は、注意を促すようにチョイチョイとどこかを指差している。
その指が示す遥か先……鬱蒼と茂る樹々の間から、結構な速度で小さな物体が転がってくるのが見えた。
「ん?」
慌てて傍らの草叢の陰へと飛び退く茅逸。
太鳳は早くも開いていた校舎の窓に足を掛け、建物の中に隠れようとしている。
オスターバーグまでもが土煙を立てて一目散に駆け出しており、つい数秒前までいたはずの航也の姿は、最初からいなかったかの如く消え失せていた。
「えっ、な、何?」
状況を飲み込めずにいる枢子の足先に、コロコロと転がり停止した謎の物体。
地表に散らばるお手玉に似た大きさの……黒い球体。
表面には、ご丁寧に白い髑髏と交差した骨の意匠。
記憶を辿るまでもない。
これは我らが顧問大先生お手製の、衝撃を必要としない癇癪玉。
いわゆる時限式爆弾。
つまるところ、攻撃はまだ終わってはいなかった……。
心の悲鳴が口を衝いて出るよりも早く、それは己が使命を全うすべく爆裂した。
「……!」
周囲を巻き込んでの爆風そして噴煙。
悲鳴は爆音に虚しく掻き消され、朦々と立ち上る白煙がやがて消え去ったあとには、煤や火薬に塗れて半泣き状態の枢子と、その様子を見て腕組みしながら哄笑する、長身の壮年男性の姿が残っていた。
「甘いな解体屋。擬似っつったって立派な戦闘なんだから、いついかなる時にも気を抜くなと散々教えただろうが」
綺麗に撫でつけられたオールバックの髪は、多少の風にも動じずなんの乱れもない。
「つ、月島センセー……これはちょっと、いくらなんでもやりすぎですよぉ」
「ぐだぐだ言うな。誰のための追試だと思ってんだ。それにだな、やりすぎとか言ってられんのも今のうちだぞ。実際の戦闘はこんな程度じゃ済まないからな」
「あーあ、これもう洗わなきゃ落ちないよう……」
枢子の親がモンスターペアレンツなら、これだけでひと悶着ありそうなところだ。
「家に帰ったら好きなだけ洗ってもらえ。本物の爆弾なら大怪我だ」顧問は組んだままの手でもう一方の二の腕を叩きながら、「大体な、校内での有事を想定して制服を着ていろとは言ったが、スマホまで持ち歩いていいとは言ってないぞ。最悪マナーモードにしとけよ。自分の居場所をバラしてどうするつもりだお前は」
「枢子ちゃん、大丈夫ー?」
遠くに離れ、あるいは校舎内に避難していた三人が、再度現場に集まってきた。
文字通り尻尾を巻いて逃げ出したオスターバーグに至っては、ちゃっかり戻ってきたのみならず、何事もなかったように枢子の左足首をペロペロ舐めていた。
「おやおや、オスターちゃんも調子いいねェ。枢子ちゃん見捨てて逃げたくせにー」
「大方ガブリとやったのを謝ってんだろうさ。言っとくが、俺様はそんな指示出してないからな。こいつが勝手に咬みついたんだ。自由意志ってやつだ」
思い思いの眼差しで見つめられ、白犬はばつが悪そうに四肢を竦ませた。
「一度ならず二度までも……枢子、お主よっぽど好かれておるのだな」
「うーん、こんな好かれ方されたくないんですけど」
いつの間にやら一同の輪の外れに、航也が涼しげな面持ちで佇んでいる。
全員が揃ったのを見計らい、顧問が空咳を一つ放った。
「んじゃ、そろそろお開きといくか。まあ最後は尻切れトンボになっちまったが、嗣原にはいい経験になっただろ」
「持病の癪さえ出なければ、もっといい成績出せましたよ」
「やかましいわ。いいか、実戦じゃあ結果が凡てだ。そのことは肝に銘じとけよ」
顧問はそう言ってへの字口で押し黙った枢子の、柄を掴んだ手の辺りを見据えると、
「お前みたいにトロい奴は真っ先に狙われると思え。そのためにも、お前は攻撃云々の前に正しい防御を教え込む必要があったんだ。残念ながらその甲斐はほとんどなかったわけだがな。仮想敵の気配も全然読めてなかったようだし」
「言葉を返すようだが先生」と低い声で異を唱えたのは、両手を腰に当て傲然と反り返った太鳳である。「此奴は此奴なりに努力しているのだ。これまでは刀剣すらまともに持てなかったのが、今や最後まで手放さなくなった。これは立派な進歩ではないか?」
「進歩と言えば進歩かもしれんがな、簓木、よーく見てみろ」
教師が顎で促す。
一匹を除く全員の眼が、枢子の手許に集中した。
洋風の剣。
グリップ部分。
その下の円環……が、ない。
柄頭が消失していた。
「あ、あれ? ……あの輪っか、どこ?」
最も遠くにいた航也が、先程と同様の仕種で下方をチョンチョンと指差す。
見ると、足首を舐めるのに飽きたオスターバーグが、今度は下に落ちていた柄頭の環を前肢の肉球で弄んでいた。
「あちゃー、もしかして枢子ちゃんってば、また壊しちゃった?」
「え、わたし何もしてないですよ」
「お主……その剣、妾の」
終始枢子を擁護していた太鳳は、とうとうその柳眉を俄に逆立てた。
「きゃーっ! そうでしたごめんなさいっ!」
申し訳なさそうに何度も頭を下げる枢子を目の当たりにして、さすがにそれ以上怒る気のなかった太鳳は溜め息混じりに肩を聳やかし、手を振ってみせた。
「あーもういいもういい。代わりならまだある」
「どうにかして元通りにします、もしできなかったら弁償しますぅ」
「どっちも無理っしょ。ていうか、オスターちゃんの遊び道具ができて逆に良かったんじゃないのォ?」
ニヤニヤ笑いと共に横槍を入れる茅逸。
「お主が言うでない。何を嗤うておるのだ」
「ごちゃごちゃ煩いぞお前ら」
顧問の一喝に、三人は背筋を張り口を閉ざした。
慎重に後ろ髪を撫でたのち、顧問は威儀を正して、
「本来なら部員全員揃っての締め括りが相応しいが、今年の三年はお前らも知っての通り、どっちも一流大学進学の有望株だ。俺様の判断で夏期講習を優先させることにした。部長と副部長抜きでの挨拶になっちまうが、まぁそこはそれ。このためだけに呼び寄せるのもなんだしな。それに〈お祭り〉までまだ二十日以上ある。あいつらなら問題ないだろ」
依然として円環との戯れに余念がないオスターバーグに一瞥をくれ、顧問は無精髭の目立ち始めた頤をぐいと持ち上げた。
「二週間ご苦労だったな。これで今年度の墓守部夏期合宿を終わりにする。一同、礼!」
「ありがとうございましたぁ!」
ユニゾンの大音声。
それに驚いた野鳥が数羽、どこかの枝からバサバサと飛び立った。
「よーし、解散! 二学期の始業式は三日後だ。遅刻するなよお前ら。ところで嗣原、宿題はちゃんと済ませてんだろうな、あん?」
「どーしてわたしにだけ訊くんですか……」
「お前以外に訊いてどーすんだ。しょっぱなの授業は真っ先に当ててやるから覚悟しとけよ。あと制服組はオスターバーグ繋いどいてくれ。じゃ、また休み明けな」
既に背を向けた顧問は、生徒たちとは別の、教師寮がある方向へ歩き出していた。
「先生さよーならー」
「おう」
「センセーこそ登校する日にち間違えないようにねーっ」
「うるせえッ、お前と一緒にすんな」
「聞こえませーん」
からからという茅逸の笑い声が、去り際の物憂げな空気に幾許かの彩りを添えた。