序幕 秘密の始まり
名乗るための名前を〈彼〉が持っていないことを、当時はまだ不思議に思わなかった。
最初の出逢いは今から十年も昔、まだ物心もつかぬ幼子だった頃のことだ。
それは自身の夢の中だったと彼女は記憶している。
燃え立つように朱い空。
見たこともない奇妙な造形の石壁の下で、やはり子供の姿の〈彼〉と隠れんぼをして遊ぶ光景。
物陰に潜むのが恐ろしく下手なその少年は、どんなに巧妙な場所に隠れていても、さしたる時間も掛からずにすぐ見つかってしまう。
反対に彼女が隠れる番になると、いつまで経っても近づいてくる気配がない。
しかも、そろそろ見つかってもいいかな、と思った矢先に首尾良く飛び出してくるのだった。
彼女が抱いた当初の印象は、のちに身に付けた語彙で表せば、〈活発で隠れんぼの異様に下手な男の子〉というものだ。
気がつくと、少年は現実世界にも姿を見せるようになっていた。
理由は判らない。
幼い彼女はそんなものなのかな、と漠然と思った。
彼は彼女の居場所に関係なく、今日は来ないのかな、と思っているとどこからともなくふらりと現れ、暫く経つとフッと掻き消えるようにいなくなった。
理由は判らない。
彼女はそんなものかな、と軽く考えていた。
その頃はまだ、彼の存在を自明のものだと思い込んでいたから。
やがて彼女が奇妙に思い始めたのは、自分以外の人たちには彼の姿が見えていないことに気づいたからだ。
芝居なんかじゃない。
パパやママや同級生たちの眼には、彼の姿が全く映っていない。
声すら聞こえていないらしい。
理由は判らない。
けれども、さすがにそんなものか、で済ませようとは思わなかった。
次に彼が出現したとき、思い切って尋ねてみた。
君は誰なの?
彼は、判らない、と答えた。
ただそのすぐあとに、多分〈すごく昔の人〉なんだけど、と付け足したのだが。
何それ? 重ねて問いかける。大昔の人が、なんで今ここにいるの?
僕にもよく判らない。それに僕は、こっち側の誰かに呼ばれたときしか、来ることができないみたいなんだ……そんな返事が返ってきた。
誰が呼ぶの?
君だよ。
わたしが?
そうだよ。普段僕は君の中で眠ってるんだ。たまに起きてるときもあるけど、ほとんど寝てる。僕がここに出てきたくなったとき、そしてそれを君が認めたとき、この二つが重なったときに、初めて僕はここにこうして立つことができるんだ。だから、僕は君の近くにしか出てこれないし、君から遠くに離れることもできない。それが僕の特性らしいのさ。
特性?
彼女は益々訳が判らなくなった。
そんなものなのかな?
思いが言葉となって口から洩れる。
だと思うよ。彼は言った。確かなことは僕にも判らないけどね。
結局のところ、彼は何から何まで謎の存在だった。
分身と呼ぶには語弊があるが、何かそれに近いモノ。
ご飯を食べている姿も、寝ている姿も一切見たことがない、人間とはかけ離れた何か。
そんな〈隠れんぼの下手すぎる自称大昔の人〉のことを、勿論彼女はほかの誰にも打ち明けられずにいた。
彼女は独りで秘密を抱えた。
誰にも共有できない秘密を。
小学五年のときのことだった。