6話:4人の子育て、無職で奮闘
4人の小さい子を抱えて、遂に、芝山伸吾は、当分の間、仕事を中止して
、子供の世話をせざるを得なくなった。そうして、1985年となった。
この年も、冬は風邪に注意し、過ごし、炊事、洗濯、掃除、ゴミ捨てなど、
家事をこなして、ミルをつくるのも手慣れた。長男と次男は双子用の大きな
乳母車で家の近くの公園に連れて行き、夏には、女の双子用にもう一台、
双子用の大きな乳母車を買って、2人で4人の子供を散歩しに連れて行く
ようになった。
信じられないくらいに忙しい毎日で、あっという間に1986年となった。
もちろん、旅行なんて行く余裕もなく、毎日、育児に忙しく、夏が過ぎ、
また冬が来て、1987年となり、最初の男の双子は、走り回るようになり
、それを追うため、芝山伸吾は、いつも汗びっしょりになり、幾分スリムに
なる程だった。
男の子達は近くの幼稚園に行くようになり、以前に比べ随分、楽になり、
夏となり、また、冬、1988年を迎えた。この頃は、長男と次男を父が
面倒見ていたが、ちょっと目を離すと、いなくなるし、喧嘩をするし、大変な
毎日だった。
そして、今年も新幹線のような速さで過ぎて、1989年を迎えた。この頃
になると、最初の双子の一郎と次郎は、聞き分けも良くなり、少しずつ、手が
かからなくなったと思った4月には、近くの小学校に入学し、女の双子は、
揃って幼稚園に入園して、昼間は、やっと、数年ぶりに2人きりになった。
しかし、子供が4人では、2LDKでは、狭いので、駅から遠くても拾い
4LDKの貸家を探し始めた。すると築30年5LDKの1軒屋が月15万円
で見つかり、引っ越すことにした。そして、2年が経ち1991年となった。
子供4人が小学校に通う様になり、再び、芝山伸吾は歌のレッスンを始めた。
しかしこの頃になると、歌謡界の人の入れ替わりが激しく、知っている先輩
がどんどん辞めていき、つてがなくなり、生徒さんが集まりにくくなっていた。
それでも6人の生徒を確保して、4月からレッスンを始め、夏を迎え、やがて
10月になり、やがて1992年になった頃、昔、訴訟を起こした
プロダクション会社の社長が、芝山伸吾は、とんでもないペテン師だと、業界
で吹聴して、生徒さんが辞めてしまい、いくら生徒募集しても集まらなくなった。
その頃、以前、郵便局と証券会社で運用していた1億円が1.8億円となった。
そして、昔世話になったD証券に勤める同郷の里山繁君に、仕事ができなく
なった話と投資資金が大きいので、うまく運用して行きたいと言うと、わかった
と言い、運用の手伝いをして上げると言った。しかし、神様じゃないから絶対に
儲かるとは言えないし、株投資ならリスクは、ついてくる。そう言う条件で
やって、成功して、感謝して、キャッシュバックしたいと言うのも断らない
という条件なら、引き受けようと笑いながら言った。じゃー宜しくお願いします
と言い、早速、芝山伸吾の口座を作り、そこに4千万円送ると言うと、里山君が
、了解と言った。