35話:東日本大震災1
そんな2010年10月3日、気分転換にと、家から車で羽田空港へドライブへ
行った。久しぶりの運転に芝山伸吾は慎重になった。環状八号を走っている時に、
何か一瞬、ふらついた感じがしたが、直ぐ直ったので気にしないで、羽田空港の
駐車場に入れて空港内のカフェで、少し休もうと芝山伸吾が言うのを聞いて、
奥さんが、あなた大丈夫と言ったが、大丈夫だよと言い、軽食をとった。
しかし、数分後、また、あの、ふらつき感が出て、今度は気持ちが悪くなり、
食べたものを全て吐き出した。これに驚いて、奥さんが直ぐ、空港内の診療所
に連れて行った。空港近くの大学病院のないか研修医と思しき若い医者が、
念のため血圧をとると、上が90,下が40、これは、ひどい貧血だよと、
驚いた様言い、どんな薬を飲んでるのと、言われ、お薬手帳をみせると、
血液凝結阻止剤の出し過ぎだよと、心筋梗塞で再凝血した話をすると、そんな事
、本当にあるのと聞き返すくらい驚いた。
どっちにしろ、正常な人が、こんなに多くの血行促進剤を飲んだら下手すると
、貧血か出血で、おかしくなるよと言った。とにかく、かかりつけの医者に、
私がそう言ってたと伝えろと言い、何も言わずに、気をつけて帰って下さい、
もちろん車の運転は駄目ですよと言われた。そこで、仕方なく、公衆電話から
義理の息子の山口澄男に言って、羽田空港まで来てもらう様に連絡した。
約1時間後、来て、車を運転して、自宅に帰った。こんな非常時の時のために
携帯電話を持って下さいねと言われ、仕方なく、携帯電話をすぐ契約した。
翌日、芝山夫妻がかかりつけ医に行き羽田空港の診療所の若い医者に言われた
ことを伝えると、確かに、この処方は一般的に言って無茶だと言った。
でも、再凝血したと言う事で処方しているのだから帰ることは出来ないと
言われた。その後、11月、12月となり、やがて2011年を迎えた。冬は
、今年もインフルエンザが流行して、外出を極力控えていた。やがて2011年
1月13日になり2度目のステント手術が行うために前日の1月12日入院し
、各検査をして1月13日、造影剤を入れて、手首から薬剤溶出型ステントを
レントゲンを見ながら確実に入れていき、30分前後で終了した。
その心電図をチェックして、手術後6時間位で手首の圧迫帯を外した。
家に帰っても1日は安瀬にしておくように言われそのように過ごした。
2011年3月11日となり、午後4時47分、東日本大震災が起き、
自宅にいた芝山夫妻は驚いて、家にいた方が良いか、外に出るべきか考えたが
、いつでも逃げられる1階の窓近くの椅子にかけていた。
10分くらいで、地震は収まったが、電気は止まり、乾電池ラジオで聞くと
、震源地は東北の太平洋岸とわかり、大津波が襲って、宮城、岩手、青森、
福島、茨城、千葉の海岸沿いに大きな津波で、甚大な被害が出ていると放送
していた。この話を聞いて、芝山夫妻は、愕然とした。そして、携帯電話を
かけてみても繋がらず、困っていたが、2時間ほどで池袋から長女の一美と
山口澄男君が帰ってきた。大きな国道も人の波で大混雑、車は立ち往生で、バス、
電車は、全滅と言った。次男も夜20時過ぎに徒歩でホンダの工場から徒歩で
帰ってきた。風呂を沸かして入り、ガス、電気もついた。