2話:レコード会社を解雇と訴訟に勝利
それからは、徐々に忘れ去れた。1979年3月末に日出学園を卒業して、そのプロダクション会社に就職した。しかし、その時には、レコード売上も下降線をたどり、LPアルバムだけがベストテンに残り、それ以外のシングルは全て、ベスト10から落ち3ケ月後にはベスト100からも落ち、低迷を余儀なくされた。
1979年12月には、十津川和子との契約解消かと言う噂が出で、プロダクション会社の社長からも解雇通知を言い渡された。その余りにひどい扱いに芝山伸吾がプロダクション社長に直談判して、売上金額2億円以上稼いだのだから、半分の金額を支払ってくれる様に話をしたが、売れなくなった歌手に払う訳ないだろうと門前払いを食った。そこで、芝山伸吾が、完全に頭にきて、知り合いの弁護士に、相談を持ちかけると、そんな無茶な事はないと言った。
レコードなら実際に売れたレコードの枚数も利益もわかる。だから、間違いなく、かなりの金額をもらえると告げた。そして訴訟を起こしたら良いと言うと訴訟を起こす費用がないと答えた。すると現金を受け取った時に払えば良いと言われ訴訟を起こした。その話が広まるとプロダクション社長が、電話で、面倒見た可愛い犬に、かまれたと激怒した。
社長が、お前はクビ、退職金も今月の給料もないと大声で怒鳴った。その電話の内容を弁護士に言われた様にカセットテープレコーダーに録音しておいた。その後、訴訟を起こし、芝山伸吾と十津川和子は、裁判に出ず、裁判は結審。最終的にレコード売上金額による純利益の半分と作曲家と作詞家、歌手の今迄の印税分を十津川和子に渡すように命じた。
これにより原告勝訴となり1億円が十津川和子に芝山伸吾には、退職金1千万円が支払われた。今後、歌手の十津川和子に彼女の曲の印税を与える事とすると言う判決で、結審。この判決が出たのが1980年11月17日、十津川和子20歳。故郷の津軽を出る時に、家の父から20歳まで、月に5万円の仕送りをする条件で家を出た。
これで判決により、大金が入り安心して東京にいられると胸をなでおら下ろした。今後の身の振り方について芝山伸吾と話をすると、突然、芝山が、君と結婚したいと言った。そして、結婚して二人三脚で音楽業界で生きて行きたいと言った。あまり突然の話で、十津川和子は困った。
ちょっと考える時間を下さいと言い、3日間の時間をもらい、結論を出すと答えた。その後、日出学園時代の女友達に3人と会って、それぞれにアドバイスをもらった。結論として、日本の音楽業界で生きて行くには、芝山伸吾と一緒にいた方が有利だと言われた。自分は、芝山伸吾が好きかどうか1人で考えて見ると、彼に依頼されて、一生懸命に曲を作ったのも間違いない。
さらに、彼は、格好いいし、やさしいし、私の事を第一に考えてくれた。そしてプロダクション会社と戦って、クビになった。それでも訴訟を起こして金を手に入れてくれた。どう考えても別れる理由がない事に気づいた。そして、3日後、芝山さんと会って結婚の申し出を受けますと告げた。すると、ニコッと笑い、これからどうして行きたいと芝山に尋ねた。
十津川が、芝山さんの考えはと、聞き返した。芝山は、君のお金1億円と今後の曲の印税、僕の財産の1500万円で、住む所を探そうと言った。東京まで近く、2DK以上の家に住み、家賃は15万円以下と言う条件だと語った。君の気持ちがわかれば、家探しを始めようと告げた、不動産屋を訪ね始め調査開始。
すると埼玉県和光市が、池袋まで近くて、2LDKで12万円で、駅から徒歩10以内のアパートが見つかった。実際に見学しに行くと、リビングダイニングキッチン12帖 和室 6畳 洋室6帖 、浴室、トイレ付、さらに、ソファー、ガスコンロ、テレビ、タンスもついていた。まさに理想的で、池袋から東武東上線急行で2駅で15分足らずで非常に近く、直ぐ、契約した。