《序の肆》主人公、異世界へ
「さてと…」
伸びてきた前髪を、鬱陶しそうに触りながら彼は呟いた。
「そろそろ準備しなくちゃな。」
今から始まる戦いに向け、バタバタと荷物をバッグに詰めた。
そう、彼は戦いに行くのだ。
…睡魔というモンスターとの戦いに。
「講義ほんとだるいなぁ。でも単位がそろそろまずいんだよなぁ。」
部屋の中、一人で歌うように大学への愚痴をこぼす。
結局、時間ギリギリに家を出た。
その際に小指を柱にぶつけたようで、彼の表情はどこか不満げだ。
「よう勇。」
正門で彼に声をかけたのは、同じ大学に通う学生の能丸 梵太である。
能丸は彼の幼なじみで、親しみを込めてモブと呼ばれている。
「おはようモブ。一限目はおんなじだっけか。」
彼は挨拶を返す。
「そうそう。一緒に行こうや。」
顔を崩して笑うモブの表情は、皆を笑顔にする力を持っている。
「そんなことよりさ、勇。『ヒロクエ』の新作出たの知ってるか?」
本当に楽しそうに喋るやつだな。僕とは全く違う人種だとつくづく思わされる。
「もちろん知ってるよ。『君は世界を救ったことがあるか?』だろう。そのうち買いに行こうかなって思ってる。」
僕は『ヒロクエ』が好きなんだ。人生で初めてやったゲーム。僕が初めて勇者になれたゲーム……
「おー流石だねぇ。お互い二十歳になってもゲームは楽しいもんな。」
そうだな。僕はつい最近二十歳になったんだ。酒も煙草も吸えるようになった。特に興味は無いけれど。
「はは。心が子供のままなんだよ。互いにね。」
少し茶化してみる。
「少年の心、いいじゃんか。枯れきった大人になるよりはずっとマシさ。」
それは僕もそう思う。でも、僕の心はすでに枯れつつある。ゲームをしても、映画を見ても、小説を読んでも、昔ほどワクワクしなくなってきた。
そうか。これが大人になるってことなんだろうな。
二十歳になって改めて感じた。そうすると、ものすごく寂しい気持ちになった。
「どうしたんだ、いきなり黙っちゃってさ。少年の心は嫌なのか?」
モブが返事を急き立てる。
「あぁ…悪い悪い。それより少し急がないか?このままじゃ講義に間に合わなさそうだ。」
話題を変えようとしてみる。実際に間に合いそうにはなかったんだ。
「おっと、呑気に喋ってる場合じゃないな。走らなくちゃまずいかも。」
そう言って彼らは教室に向かった。
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「それじゃあな勇!また月曜日!」
「あぁ。おつかれさん。」
正門でモブと別れる。
『ヒロクエ』か。金はあるし、買って帰ろう。
そのうち、と考えていたにも関わらず、彼は急かされるようにゲームショップへ向かった。
…心が枯れない内に、と思ったのかもしれない。
「身分を証明できるものはお持ちですか?」
店員が尋ねる。
うん?このゲームは全年齢対象じゃないのか?
良く見ると十七才以下は推奨されていないらしい。店によってはこういうこともあるのだな。
断る理由も無いので、神原 勇と書かれた学生証を見せる。
さて、買うものは買ったし、家に帰ろうか。
家に着いた。彼は一人暮らしをしている。
洗濯を済ませ、軽く部屋の掃除を行う。先に夕飯も作ってしまうか。
彼は、どうやら出来立ての料理に対するこだわりはないらしい。
ざっと一時間。時間は午後六時。
飯はもう少し後でいいや。さぁて『ヒロクエ』をしようじゃないか。
嬉しそうにゲームをセットする。
問題なく起動した。
彼は壮大なオープニングムービーを見ながら、今の自分について考えていた。
僕は今のままでいいのだろうか。僕の行く大学は、決して頭の良いところではないが、楽しいと言える。友人もいる。
けれど、けれど…
不安だ。漠然とした、言い様の無い不安に苛まれる。
恐らくこれは、僕が夢を持っていないからなのだろう。
今、僕の短期的な目標はこのゲームを遊ぶことだ。これで、目の前の快楽は満たされる。
そして、ゲームをクリアしてしまったからといって、目標が無くなる訳じゃない。
大学を卒業しなきゃならないし、就職しなければいけない。
結婚するのならそこら辺も考えなきゃな。むしろ短期的な目標など大量にある。
問題なのは、長期的な目標がないことだ。
僕の人生を決める、でっかい目標が。一生をこれの為に使える、そういう『夢』が僕にはない。
大抵の人がそうなんだと思う。目の前の目標を達成するのに精一杯だ。夢を叶えるのも大変だけど、『夢を持つ』っていうのは驚くほどしんどい。
確かに、大金持ちになりたいとか、そういうのを『夢』と言うのなら話は別だ。それなら僕にだってあるさ。でも僕は、そんなもの『夢』とは言えないと思うんだ。
だって、『それ』はほんの少しの挫折で諦めてしまうことが多いだろう。『夢』っていうのは本気でそれに取り組んで、何回倒れても諦めない、諦められないようなものを言うんじゃないのかな。
僕には『夢』が無い。少年が持つような『夢』を、僕は持っていない。このままじゃ、心は枯れていってしまう……
彼はそんな事を考えていた。
ぼおっとしている内にオープニングムービーが終わった。
……とりあえず今はこのゲームを楽しもうじゃないか。
主人公の名前は『イサム』にした。何となく、本名にしたかった。
最初のシーンは酒場か。おもしろい始まりだな。
何というか、凄く引き込まれる。キャラの一挙手一投足が、まるで自分のもののように感じられる。
こんな気分は久しぶりだ。まるで本当に『ヒロクエ』の世界に来てしまったみたいだ。
周りを見渡すと、世界観にそぐわない格好をした三人を見つけた。
恐らく彼らは重要なキャラクターなのだろう。もう少し他を堪能してからストーリーを進めよう。
しかし、何だろう、この感じは。適当なキャラクターと話すだけで、彼らの肉声が聞こえるようだ。酒場の熱気が肌に触れる。
彼らはさらに引き込まれる。さらに、さらに、さらに………
あぁいけない。没頭しすぎたな。そろそろ話を進めるか。ええと、あの三人はどこにいるのかな?
彼は少しの違和感を持ちながら、辺りを見渡す。あぁ、あそこに二人いるな。中年の男性と、自分より少し若い女性が何やら話している。親子だろうか。
それにしてもここは暑い。酒飲み達の汗が蒸発して、何とも言えない感じだ。床がギシギシと鳴るのも少し不愉快だな。あまり良い環境とは言えないだろう。
……なんだこの違和感は。何かがおかしい。何かが……
彼は二人のもとへ、テクテクと足を進めながら考える。
ピタリと足を止めた。
手元にコントローラーが無い。いや、それどころか僕は今『リアル』に動いている。
……どういうことだ?僕は今どうなっている?
まさかここは。
「僕は『ヒロクエ』の世界に来てしまったのか?」
三人の男女が彼の方を向いた。
お読み頂きありがとうございます!
序章はこれにて終了です。第五話より彼らの異世界物語が始まります!