三
男でこれほど美しい人間がいるのかと思うくらい、常識離れした美貌だった。
歳は泉と同じくらいか、少し上。八頭身の完全なモデル体型。艶やかな黒髪。垂れ気味の、しかし整った印象を少しも損なうことのない涼しげな切れ長の目元。とおった鼻筋も薄い唇と絶妙なバランスを描いている。一目で高級とわかる仕立ての良いスーツを、嫌味なく着こなした青年だった。
「……せん、せい?」
「心療内科医。患者の人生相談からトラブル解決まで色々こなしているすごい先生なんだよ」
言われた当の本人は得意になる様子もない。マスターに軽く会釈。次いで、隣でクダを巻いている泉に目礼してから腰掛けた。礼儀正しい青年のようだ。
この美貌で医者ときた。ハイスペックにも程がある。場末のバーにこの青年はあまりにも場違いだった。
「で、イズミンはこれからどうするのさ」
マスターに訊ねられ、ようやく泉は我に帰る。一通り愚痴を聞いてもらったばかりだった。
「亜紀に話す気がないんじゃなぁ……」
「絶対男だね。他に男が出来たんだよ」
「だったらなおさら復縁なんて無理じゃん」
しかし浮気の可能性は十二分にある。いっそ探偵に頼んで亜紀の素行調査でもしてもらおうか、と泉は思った。婚約者がいながら他の男と関係していたのなら、立派な不貞行為であり慰謝料もふんだくれる。
(でも相手が会長じゃあ……)
亜紀は雇い主の娘だ。仮に浮気の証拠を掴んだとしても一介の会社員に過ぎない泉では、会長には太刀打ちできない。何かと理由をつけて解雇されるのがオチだ。
「じゃあ、新しい恋をするとかさ」
会長令嬢級の逆玉の輿がそうそう転がっているとは考えられない。亜紀との破局は実に痛手だった。
唯一の救いは、自分に非がないことだ。万が一、自分に落ち度があったのなら亜紀は容赦なくそこを責め立てて別れを迫るはずだ。強引に押し切ったところを見ると、あくまでも亜紀側の都合で別れなくてはならない事態になったのだろう。
傷が浅いうちに引き下がるべきか。
「それでよろしいのでしょうか」
不意に、沈黙を貫いていた青年が口を開いた。低いがよく通る声だった。伏した体勢のまま、泉は頭だけを動かして横を見やる。
「いいも何もどうしようもないじゃないか」
「そうですね」
青年はグラスに視線を落とした。
「破棄された婚約は元には戻りませんし、仮にヨリを戻せたとしても一度冷えた関係はどうにもなりません」
わかりきったことを言う。医者のくせにこいつは馬鹿か。胡乱な眼差しを向ける。
「私が申し上げているのは、このまま引き下がって後悔しないのか、ということです」
「後悔?」
「都合よく利用され、搾取され、用済みとなったら容易く捨てられるーーあなたが今、甘んじて受け入れようとしていることが、第三者の目にはどう映るでしょうか」
淡々と、それでいて真理を説くかのように揺るぎなく語る。泉は悪態を吐くのも忘れて青年の顔をまじまじと見た。目が離せなかった。
「哀れな『被害者』として同情する人もいるでしょう。まんまと出し抜かれた『間抜け』と嘲笑う人もいるでしょう。しかし誰もが内心ではこう思うはずです」
青年が泉を見下ろす。僅かに顰めた眉。琥珀色の目に映るのは紛れもない嘲弄だった。
「ああはなりたくない、と」
女に捨てられた男。みっともない。負け犬。今の状態はまさに平時、自分が軽蔑し嘲っていた『敗者』そのものだった。
同期には無論、上司にも婚約のことは伝えている。社長令嬢との結婚。それは勝者の証であり、凡庸な連中との差を決定的にするものだった。そうなるはずだった。
婚約破棄の件は上司に報告しなくてはならない。人の口に戸は立てられない。瞬く間に会社中に伝わるだろう。この世の春とばかりに謳歌していた自分が、陰で噂され笑い者にされる。見下していた連中と同じーーいや、それ以下に成り下がるのだ。
嫌だ。泉の握りしめた拳が震えた。死んでも嫌だ。そんな屈辱に耐えられるわけがない。
叫び出しそうなほどの絶望の中で、泉は一筋の光明を見た。何故気づかなかったのだろう。目の前にいるのに。
「どうすれば、いい……?」
泉は縋るように青年に身を寄せた。悪魔だろうが構わなかった。これ以上悪くなることなどない。
「私にできるのは選択肢を提示することだけ。最後に決めるのはあなたです」
青年は艶然と微笑んだ。
「このまま引き下がるか、それとも一矢報いるか。あなた次第ですよ」