三十二(幕間)
人生は死ぬまでの忍耐。
小学生の頃から既に泉は悟っていた。
泉は平凡な家庭の一人娘として生まれた。父は公務員、母はいない。もともと身体の弱い人だったらしく、泉を生んでまもなく亡くなった。
男手一つで娘を育てることになった父は、自分の苦労を娘に見せまいとしていた。が、どうしたってほころびは出来てしまう。不器用な手で作ったのだと思うと、上履き入れが多少不恰好だろうと黙って使った。仕事で忙しいのだと思うと授業参観や運動会に来なくても責めることはできなかった。服は毎日洗っていたが、男親なせいか何度も洗濯してくたびれた服をいつまでも親子揃って着ていた。
異質なものは排除される。それが逃げられない場ならば、いじめのターゲットになる。小学校の高学年を迎える頃から、泉はクラスからのけものにされるようになった。
悲しくて辛いことだが、仕方のないことだと泉はあきらめていた。父にはとても言えない。どうせ卒業すれば今のクラスメイトはバラバラになる。自分一人が耐えていればいい話だった。
ところが、泉の目論見はあっけなく打ち砕かれた。中学に入ったら落ち着くかと思っていたいじめが、より過激に、かつ陰湿なものへと変化したのだ。
席についていれば叩かれる。廊下を歩いていれば足を引っ掛けられる。上履きを泥だらけにされたり、教科書や机に「汚い」「臭い」と書かれたり、体操着を水浸しにされた。
主犯格はクラス女子のリーダー的存在だった榎本光。光が率先して虐げているのを見て、吉井孝太を筆頭に男子も泉を「ブス」だの言うようになった。
それでも父親には相談できなかった。仕事で忙しい父に余計な心配をかけたくなかった。泉は息を潜めて、クラスの隅で、ひたすら目立たないように過ごすことに神経を集中させるようになった。路傍の石ならば蹴られることがあっても一度だけだ。執拗に追い打ちをかけられはしないと学んだからだ。
泉達也と同じクラスになったのは、泉が自衛する術を身につけた、ちょうどその頃だった。
とはいえ、泉は最初から泉達也の存在を知っていたわけではない。正直、苗字が自分の名前と一緒だな程度にしか認識していなかった。
一言で言えば、泉達也は小器用だった。何でも人並み以上にはできるが飛び抜けて優れているわけではない。どのグループともそこそこ仲良くしている世渡り上手。本人はクラスの中心的存在だと思っているようだが、はたから見たらリーダー格の吉井に揉み手擦り手でつるんでもらっているだけの、平凡な男子だった。
目立ちたがり屋の、泉とはまるで違う人種。近づきさえしなければ、関わらなければ何の問題もない、と泉は判断した。
それが過ちだった。まさか向こうから関わってくるとは夢にも思わなかったのだ。
「お前、自分の名前も書けないのかよ?」
泉から課題プリントを取り上げて、泉達也は言った。何を言っているのか泉には全く理解できなかった。呆然としている間に、泉達也は油性ペンで書き加えた。
「こうだろ? 間違えんなよ」
『汚川泥水』
小川泉の上に黒く殴り書いたそれを、鬼の首を取ったように泉達也は突きつけてきた。
その日から、泉は「汚水」「泥水」と呼ばれるようになった。泉の鞄はクラス共有のゴミ箱になった。雑巾を絞った後の黒い水をバケツ一杯分頭から被せられた。ふざけ半分に階段から突き落とされた。おかげで今でも、泉は階段を使う際は必ず手すりに捕まっていないければならなかった。背後に人の気配があろうものなら途端に足がすくんで動けなくなる。
おそらく泉達也は以前から泉のことを知っていたのだろう。クラスでいじめられているスクールカースト最底辺の女子。よりにもよってそんな女子の名前と同じ苗字の自分。間違って一緒にされては困る。自分はこんな低レベルな女子とは違う。そうアピールしたいがために、泉達也は率先して泉を攻撃したのだ。
どこから聞きつけたのか泉の父親がごみ収集の、清掃員の仕事をしていることすら利用して。
無論、泉達也だけが小川泉を虐げたわけではない。吉井孝太、沢田拓巳、榎本光ーー直接手を下さなくても、はやし立てた連中も同罪だ。しかし、中でも泉達也の罪深さは抜きんでていた。
泉達也は全く接点のなかった自分を、わざわざ人前に引きずり出し、陥れたのだ。保身のためだろうがそんな事情は自分には関係ない。泉自身のみならず家族を侮辱する必要はどこにもなかったはずだ。
小川泉はクラスで目立ちたいわけではなかった。好かれたいわけでもなかった。ただ関わらないでほしかった。そっと見て見ぬふりをしてほしかった。そんなささやかな願いですらも泉達也は踏み躙ったのだ。




