三十一
「富良野が有名ですが、ご存知ですか? 北海道を代表する植物ですよ。香りにはリラクゼーション効果もあるとかでアロマテラピーにも用いられます」
と丁寧に説明しつつ尊は自ら腰のベルトを引き抜くと、押し倒した泉の両手首を拘束した。鮮やかな手際で抵抗する間もなかった。気づいたら、泉はベッドに括り付けられていた。
「はあ⁉︎」
「壁が薄いようですので、あまり大きな声は出さない方がよろしいかと」
「いや、ちょっと待て、なんで」
「酒には強いと申し上げたではありませんか。さすがにスピリタスはきましたが、時間が経てばアルコールも多少分解されます」
だからといって早過ぎる。味見どころかシャツのボタン一つすら外せていない。文句を言いかけて、泉は口を噤んだ。拘束されている自分。若干酒に酔ってはいるが自由な尊。形勢は完全に逆転していた。
「さて、いかがいたしましょうか」
尊は長い前髪をかきあげた。少し目を細めてこちらに視線を流す。色気のある仕草にしかし、泉は戦慄した。
「しゃ、写真を、あれをバラまくぞ!」
「ご随意に」尊は上着のポケットからスマホを取り出した「私はこちらを公表するまでです」
突き付けられた画面を、泉は穴があくほど凝視した。尊を抱えてホテルに入る自分の姿。一体いつの間に盗撮したのだろう。明らかにこれは第三者が撮影したものだ。つまり自分の様子を監視していた者がいる。
「やっぱり忠寛専務が」
「勘違いされているようですが、私は一条忠寛さんからは何の依頼も承っていませんよ。時計はいただきましたが」
「嘘だっ」
「私の依頼主は女性です。おわかりにならないといけませんのではっきりと申し上げましょう。あなたにひとかどの恨みを持っている方です」
亜紀か。真っ先に浮かんだ名前を泉は打ち消した。亜紀には尊に自分の素行調査を依頼する理由がない。では、一体誰が。
「悩んでいらっしゃるようですね」
「当たり前だろ。こんなことをされる覚えはない」
「そうでしょうね」
尊はスマホを背広のポケットにしまった。
「あなたとここ数ヶ月の間に何度かお話をいたしましたが、全く覚えていらっしゃらないことがわかりました。しかし依頼主はあなたのことをよく覚えているそうです。忘れたくても忘れられないとおっしゃっていました」
誰だ、誰だ。混乱する頭の中で泉は必死に考えた。同期の女か。いや、入社早々に亜紀と付き合いはじめたため、同期とはほとんど接点がない。では誰が。自分に一体なんの恨みがある。
「私怨はそのくらいにして、ビジネスの話をいたしましょう。未払いの成功報酬二百万、そして違約金三百万。しめて五百万円を請求させていただきます」
血の気が引いていくのを感じた。そんな大金、払えるわけがない。
「無理だ」
「何故ですか」尊は首を傾げた「たしかお父上はフジサワフーズの会社員でしょう? 頼み込めば五百万円くらい用意してくださるかと」
泉の父親の仕事も把握していた。たかが一般人に過ぎない自分を陥れるためにーー気味が悪いほどの徹底ぶりだ。
「友人、知人に片っ端から連絡してお願いするという手もあります。あまりおすすめできませんが、消費者金融に借りることだってできます。無理をすれば用意できる金額では?」
親や親類、友人に金の無心をする自分の姿を想像して、泉は絶叫したくなった。泉の信用が地に堕ちるのは間違いない。事情を話したら失笑を買うのは目に見えている。
「今月末までお待ちします。それまでに指定の口座にご入金ください。入金の確認が取れなかった場合は、先ほどの画像を亜紀さんと忠寛専務にお渡しします」
「脅迫する気か⁉︎」
「穏当ではありませんね。契約書に則って、正当な報酬を請求しているだけです。訴えたければご自由にどうぞ」
尊はしれっと「もっとも、訴訟になったらそれはそれで大層な費用がかかりますが」と忠告した。
泉は唇を戦慄かせた。陥れるつもりが逆に陥れられた屈辱感。怒りに任せて吠えた。
「この、悪魔がっ!」
呪詛を込めた叫びでさえも、尊は露とも感じない。それどころか蠱惑的な笑みを浮かべてみせた。
「その悪魔以外に頼るものがない方が言う台詞ではないかと」
「誰が!」
「私も正直あなたとは金輪際会いたくないのですが、最期までお付き合いする約束ですからね。あと一度ならばご相談に乗りますよ。私の依頼主の名前を思い出したらお電話ください。お待ちしております」
一方的に告げて尊は優雅に一礼した。失礼いたします。低く耳に残る声とほのかなラベンダーの香りを残して、尊は颯爽と去った。
部屋の扉が閉められた頃には、香水の匂いも消えていた。尾をひくようなしつこさはない。一夜の夢のように跡形もなかった。ただ、悪夢のような目覚めの悪さを伴っていた。




