三十
意識混濁とまではいかなかったが、尊の反応は明らかに鈍くなった。さすがにアルコール度数九十六度にはかなわなかったようだ。泉はタクシーを呼んで尊と共に乗り込んだ。
運転手に行き先を告げて、横を見やる。尊は平静を装っているが目が虚ろだ。眉間に指を当ててなんとか意識を保とうとしている。おそらく、もう自力で立ち上がることもできないだろう。意識を失うのも時間の問題。
「ホテルまでは頑張ってくれよ」
細身とはいえ男だ。骨格はしっかりしている。抱えて運ぶのは苦労しそうだ。
尊は「……ほてる」と舌足らずな口調で復唱した。眠そうなまなこといい、幼い子どもを彷彿とさせる。思わぬところで尊の可愛い一面を見た泉は小さく吹き出した。
「そういえば、永野さんは御曹司なんだって?」
素行調査だけでなく、素性もあらかた調べさせた。北海道の名寄よりも北にある小さな町の名士。高祖父が興した製薬会社は今や世界的な企業に発展している。
「今は父親が代表取締役ってことは、いずれ永野さんか兄弟が後を継ぐんだろ?」
それだけじゃない。尊は四兄弟の三男だが、長男は三十を過ぎたばかりで大学の准教授、次男も父親の会社で手腕を振るっている。一条家を凌ぐ、エリートの一家だ。
しかし兄弟で唯一、尊だけが北海道を離れて単身関東にやってきた。そこに泉はのっぴきならない事情を嗅ぎつけた。
「関係ありません」
尊ははっきりと言った。明確な拒絶には嫌悪の色さえ浮かんでいる。初めて見た永野尊の素顔だった。
「確かに小さな田舎町じゃあんたには窮屈だろうな。ご立派な家族というのもいただけない。周囲の目は当然厳しくなる」
「関係ないと、言っている」
凄みを帯びた美貌に、泉は身を竦ませた。射殺さんばかりに鋭い眼光。いつもの丁寧口調すらもかなぐり捨てている。
背筋がぞくぞくした。恐怖と似て非なるそれは期待であり、興奮だ。自分が優位に立っているから余計に楽しくて仕方なかった。常に冷静で澄ました顔をしている青年の本性を引きずり出した。たぐいまれなる美貌と高いプライドの持ち主を屈服させ、自分の好きにできるのだ。
「そうだよな」
生まれも育ちもこの青年には関係ない。そんなものに縛られるような生き物じゃない。
「あんたは生まれながらの売春婦だからな」
わざと侮辱すれば面白いくらい尊は怒りを露わにした。が、身体は既に限界を迎えているらしく、満足に動けない。泉を殴る気力もないようだ。頃合いだった。
ホテルの前でタクシーを止めさせた。
あえて安っぽい、一目でそれが目的とわかるホテルを選んだ。高級ホテルでは、どうしたって今までの『相手』と比べられてしまう。それでは駄目だ。この青年の自尊心を徹底的に打ち砕くには、自分が娼婦以下であることを思い知らせなければならない。
尊の腕を肩に乗せて、ホテルの一室に連れ込む。思っていたよりも彼の身体は軽かった。酒の匂いを打ち消すかのような清涼な香りがした。柑橘系、ほのかに特徴的な甘い香りも混じっている。上品なフレグランスだ。
「香水も今の男の趣味?」
時計に香水。かなり徹底している。尊が正気を取り戻したら確認しようと決めて、とりあえずベッドに尊を下ろした。安っぽいベッドが軋む。敏感になっているらしく、わずかな衝撃にも尊は反応した。
「苦しそうだな」
熱に浮かされたように尊は浅く胸を上下させた。閉じられた瞼がかすかに震えている。悩ましげな吐息。時折、鼻にかかったような声が、薄く開いた唇から漏れていた。
泉は口の中が急速に乾いていくのを感じた。尊のベルトのバックルに手を伸ばす。咄嗟に止めようとした尊の手を振り払い、外そうと試みる。金属製の硬質な音だけが嫌に大きく部屋に響いた。
「ふふ」
頭上から秘めやかな笑い声が聞こえ、顔を上げる。泉は目を見開いた。
「な、なんで」
尊は目尻を赤く染めたまま笑っていた。先ほどまで意識朦朧としていたのが嘘のような変貌ぶり。心底面白いといった笑みは、凶悪なまでに魅惑的だった。
「教えて差し上げましょうか」
艶めいた微笑みに泉の喉がごくりと鳴った。一分一秒たりとも待てない。今直ぐ目の前の肢体を暴きたい。その事だけで頭が一杯になった。
「ラベンダーですよ」
「え?」
視界が反転した。




