二十六
こうなって来ると亜紀にばかりかまけている場合ではない。上司から亜紀に申請書を届ける用事を命じられても、何の感慨も浮かんで来なかった。
今の泉の心境からすれば、もはや一条亜紀個人など眼中にない。会長令嬢としてどう利用できるかだけが重要だった。
泉の関心をひくのは亜紀よりもグレードの高い人間、すなわち永野尊だ。尊の腕にはまっていたあの時計が目に焼き付いて離れない。首、足首、手首ーー三つの首に関する装飾品は独占欲の現れという。律儀に身に付ける尊もまた、まんざらでもなさそうだった。
「来月の出張の承認が降りました。経費はお帰りになってから申請してください」
事務的に告げる。デスクに座った亜紀は固い表情で申請書を受け取った。これでおつかいは終了。さっさと総務部に戻るべく泉は踵を返した。
「待って」
足を止めて振り返る。周囲をはばかるように見回してから亜紀が訊ねた。
「……最近どう?」
何のことかと訊き返そうかと、脳裏に一瞬浮かんだ考えを、泉は打ち消した。あからさまな嫌味を言うのは得策ではない。
「まあ、なんとかやっているよ」
しまりのない笑みを浮かべてやる。半分は強がりだった。亜紀と別れても何も変わっていない、自分は困ってなどいないアピール。
「亜紀はどうなんだ」
馴れ馴れしいと一蹴するかと思いきや、亜紀は居心地が悪そうに困った顔をした。
「別段、変わりないわ」
見え透いた嘘だった。ここ一ヶ月、野田は尊に夢中で亜紀を放置している。さすがの亜紀も不審に思っていることだろう。
近々野田は亜紀に別れを切り出すつもりだ。「ソリが合わないから」という名目らしいが、果たして上手く別れられるのか。どんどんこじれてしまえばいい。
亜紀はきっと野田の心変わりの理由を探るだろう。そして自分が捨てられたことを知るのだ。どこぞの魅力的な女ではなく、よりにもよって男に負けたのだと。
傷つく亜紀の姿を想像しただけで泉は笑い出しそうになる。哀れだとは欠片も思わない。亜紀は同じ仕打ちを自分にしたのだから。
(その場に立ち合えないことが残念だな)
尊に頼んで破局の一部始終を盗撮してもらおうか。尊がいればさぞかし楽しい修羅場になるだろう。
「そういえば先週、山田泉という人から連絡があったけど、知り合い?」
泉は「は?」と間の抜けた声をあげた。数拍遅れて山田泉の名に思い至る。尊が所属している探偵会社の社長だ。奇しくも自分の苗字と同じ。ただそれだけの人物だ。
「いや、知らないな」泉はしらばっくれた「その山田さんがどうかしたのか?」
「中学校の同窓会だかで、あなたと連絡を取りたがっていたわ。見ず知らずの人に教えるのもどうかと思ったから、あなたに伝えるとだけ言っておいたけど」
亜紀から連絡先の書かれたメモを受け取った。山田泉。携帯の番号にも見覚えはなかった。総務部に戻りながら考える。何故亜紀に接触したのだろうか。
(あ……素行調査か)
五万で依頼した亜紀の素行調査。調査の一環で同窓会だの体良く理由をつけて亜紀に接触をーーいや、それもおかしい。亜紀の素行調査は先月で終わっている。
(尊に訊くか)
あの手強い青年が正直に話すとは泉も思っていない。が、こちらには切り札がある。それも、尊を屈服させるくらい、強力なカードが。
人気のない廊下で、泉は暗い笑みを浮かべた。




