十九
半ば夢見心地で泉は帰宅した。熱いシャワーを浴びて頭をすっきりさせてから、尊とのやりとりを反芻する。
「……三百万か」
前金で百万、成功報酬で二百万。
亜紀と野田を別れさせるための費用として、尊が提示した金額は相場からしても妥当な額だ。とはいえその場で即答できる金額ではないのは尊も重々承知しているようで、ゆっくり考えるようアドバイスされた。
「『目には目を』と言いますから」
毒を含んだ笑みをたたえて、尊が提案した。
「裏切りには相応の報いを。同じ痛みを味あわせることがもっとも効果的かと」
つまりは野田に亜紀を裏切らせる。それも亜紀が野田に愛想を尽かせるのではなく、野田に手酷く亜紀を捨てさせるのだ。
「裏切られた傷心の亜紀さんに優しく手を差し伸べるか、さらなる絶望へと突き落とすかは、あなたの自由です」
傷ついた亜紀の姿を見て気が晴れたのなら、何食わぬ顔で助けてやればいい。それで元通りーーいや、負い目がある分、今度はこちらが優位に立てる。今までのように亜紀に好き勝手はさせない。何しろ裏切った弱みを握っているのだから。
泉は一人笑った。三百万円は会長令嬢の婚約者に戻るための費用とも言えよう。亜紀がリリアンカンパニーの社長になればすぐに取り戻せる金だ。
尊もそれを見越してか、成功報酬である二百万円の支払いは急がないと言っていた。泉が一条家の資産をある程度自由に使えるようになってからで構わないということだろう。したたかな青年だ。
(つまり、急ぎ必要なのは百万円)
百万円ならば貯金でなんとか賄える。失敗するリスクはもちろんあるが、だとしても借金を背負うわけでもない。
(それに……あの永野が仕掛けると言っているからな)
同性異性関係なく惹きつけてやまない魔性の青年。彼の手にかかれば野田何某もあっという間に夢中になるに違いない。手どころか流し目一つで陥落するかもしれない。それが狡猾な罠だとも知らないで。
万が一、仮に失敗したとしても泉は一切手を下していない。無関係だと押し通せばいい。尊も自分との関係を明かすような愚は犯さないだろう。
目的を果たすために腐心するのは下請けだけ。自分は手を汚さずに金だけを出して利を得る。それこそ一流の経営者だ。
(ローリスク、ハイリターン)
悪くない取引だと泉は判断した。成功すれば亜紀を押しのけて次期社長の座も夢ではない。社長室の椅子にふんぞり返っている自分の姿を思い浮かべて泉はほくそ笑んだ。悪趣味な社用車ではなく、外国製の高級車を運転手付きで出勤するのだ。自分を見下していた同期はこぞって媚を売るだろう。万年課長だって態度を改めざるを得ない。何しろ堅実共に泉が社長になれば、生かすも殺すも自分次第なのだから。
(愛人を持つのも悪くはない)
浮気は男の甲斐性という言葉が死語となって久しい。しかし最初に裏切ったのは亜紀なのだから文句は言わせないし、バレるようなヘマは犯さない。
泉の脳裏に艶然と微笑む尊の姿が浮かんだ。果たしてあの青年はいくらでなびくのだろう。




