一
その日、泉達也は婚約者である一条亜紀と二ヶ月ぶりのデートを楽しむ予定だった。
待ち合わせ場所に選んだのは老舗の珈琲店。青山一丁目駅から徒歩五分とかからない好立地。薫り高い珈琲とお洒落な内装も相まって、営業時間中は客が絶えないという人気店だ。
久しぶりに顔を合わせた婚約者は、二ヶ月前と特に変わりはなかった。高級ブランドの秋の新作だというトレンチコートを片手に、上品なカシミヤのワンピースと黒のレギンス、オーダーメイドのブーツーー二十代の給料ではまかなえない豪華な格好はいつものこと。どことなく見下すかのように「お仕事、ご苦労様」と労いのお言葉をくださるのにも慣れた。
しかし、いつもとは違って亜紀はメニューも見ずに真っ直ぐに泉と向き合った。はっきりとした顔立ちの亜紀が真剣な表情だと異様な凄みがある。
「別れましょう」
依頼でも命令でもない。それは決定事項を通達する口調だった。
泉はカップを手に取った格好で固まった。彼の好きな淹れたての珈琲の香りも今は感じない。
「……え?」
泉は自分でもわかるほど間の抜けた声を漏らした。
「別れましょう。それがお互いのためだと思うの」
完全に悟り切った台詞を吐かれても、泉にしてみれば寝耳に水。
「は、え、なんで……」
「別にあなたが嫌いになったとかそういうことじゃないの。でもなんか違う気がする。あなたとじゃ価値観が合わないというか」
取ってつけたように亜紀は「こうして会うのも二ヶ月ぶりでしょう?」と同意を求めてきた。
それについては異議を申し立てたい。今日まで、この二ヶ月近く、少ない休みの日をデートに充てようと誘っていたのは泉の方だ。それを亜紀は何かと理由をつけて断っていた。
「なんで、そんな急に」
「とにかく」
これ以上の追及を許さず、亜紀は席を立った。
「あなたとこうして会うのはこれっきり。父にもそのことは伝えるわ」
泉は自分の頭から血が引いていくのを感じた。亜紀の父、一条和成は泉が勤務している会社の会長だ。今年の夏に娘の婚約者として挨拶したばかり。
「ちょっと待って。何が何だか……俺、何かしたか?」
過去に交際していた女とは全員縁を切っている。亜紀と正式にお付き合いを始めてからは、それこそ一途に、誠実にやってきた。ようやく結ばれた婚約。一方的に破棄される覚えはなかった。
「縁がなかったのよ。あなたは私の運命の人じゃなかった。ただ、それだけのことよ」
説明になっているようで全くなっていない捨て台詞を置き土産に、亜紀は立ち去った。
残されたのは、会長令嬢の元婚約者になり下がった泉ただ一人。驚けばいいのか悲しめばいいのか怒ればいいのかもわからずに、泉はただ呆然と亜紀が出て行った店の扉を眺めていた。