十八
「費用よりも関係修復後に問題が残るからです。泉さんは自分を裏切った人間を赦せますか?」
泉が口を開く前に尊は言い募った。
「赦すとは損害賠償を請求しないとか、起訴しないということではありません。罪に問わないということです。相手が犯した過ちを忘れて、決して責めないということです」
「そう言われると……でも、今すぐはできなくても、しばらく経てば」
「無理です」
尊は無情に切り捨てた。
「人間の精神はどんなに浅い傷でも皮膚のように剥がれ落ちて再生はしません。トラウマや一般にPTSDと呼ばれる心的外傷後ストレス障害が完治した例がないのが証拠でしょう。もちろん、カウンセリングや薬物療法によって日常生活に支障をきたさない程度に回復することはありますが、完治には至らないのが現状です。あくまでも克服するのであって、綺麗に傷が治って消えるのではありません」
「なんか大げさだな。たかが浮気でしょう? そりゃあ、当人ですから俺は腹が立ちますけど、トラウマになるほどじゃあないですよ」
泉は軽い調子で笑い飛ばした。対する尊の表情は厳しいままだった。真正面から泉を見据えて黙考。しばらくの後に「浮気程度ではそうかもしれませんが」と呟いた。
「私が申し上げたいのは、心理学的にも人間は基本的に根に持つ生き物だということです。仮に亜紀さんとヨリを戻したとしてもこれから先、ずっと彼女のことを信頼できますか? 彼女が犯した過ちを忘れることができますか? 赦すとはそういうことです」
泉は返す言葉を失った。今後のことに想いを馳せる。野田と破局した亜紀を、何食わぬ顔をして受け入れる自分の姿がどうしても思い描けなかった。
「忘れたつもりでもふとした瞬間には思い出すはずです。一度思い出せば最後、友人との旅行、スマホでのやりとり、亜紀さんの行動一つ一つを疑うでしょう。何故なら彼女には前科があるわけですから」
むしろ尊の告げる、疑心暗鬼に駆られる自分の姿がありありと眼に浮かぶ。
「不可能ですよ」
失笑混じりに言い捨てる尊は、自嘲しているようでもあった。
「永野さんも、こんな……浮気されたことがあるんですか?」
自分で質問しておきながら、この青年に限ってはないだろうと確信していた。もしそんな人間がいたとしたら、よほどの馬鹿か、臆病者かのどちらかだ。同性の自分でさえ惹かれるというのに。
「浮気されたことはありませんね。私に浮気する方はそれこそ星の数ほど」
尊に誇らしげな色はない。凡人には理解できない、美人ならではの苦悩といったところか。
「苦労されているんですね」
「人並みには」
「でも、正直羨ましいですよ。俺は全然モテませんからね」
尊は目を伏せた。溜息を吐いて、独り言のように呟いた。
「羨ましい……ですか」
「だってそうでしょう。婚約破棄なんてされたことないですよね? おまけにどこの馬の骨との知らない男に取られていたなんて。俺なんか散々ですよ」
泉は肩を落とした。八つ当たりだとわかっていたが、どうしようもなかった。亜紀もそうだが、尊のような生まれながらの『勝ち組』には、無縁な惨めさだ。
「では、思い知らせてやりましょうか」
「え?」
「無責任で身勝手な行動で、あなたがどれほど傷つき、悩んだか。その屈辱を亜紀さんにも味あわせてやりましょうか」
琥珀色の瞳が輝きを帯びる。狂気と魔性を秘めた眼差しだった。泉は息を呑んだ。声が出ない。射竦められたかのように身体が動かなかった。
今までとはまるで違う。被っていた羊の皮を剥いだ狼を彷彿とさせた。甘さを削ぎ落とした青年は、身震いするほどに恐ろしく、美しかった。
尊は艶然と微笑んだ。
「お望みならば、力をお貸しいたしますよ」




