第4章ー16
実際問題として、仏軍の攻勢は旧オーストリア領防衛の任務に当たっていた独軍にとって手に余る規模になっていた。
この当時、旧オーストリア領防衛の任務に当たっていたのは、ケッセルリンク将軍が率いていた予備軍集団とバイエルン地方から後退(敗走)してきたルントシュテット将軍が率いていた旧南方軍集団を再編制してできた、いわゆる新南方軍集団である。
この新南方軍集団の総司令官には、バイエルン地方失陥の責任を取って更迭されたルントシュテット将軍の代わりにクルーゲ将軍が任命されていた。
なお、ケッセルリンク将軍は引き続き、新南方軍集団麾下の軍司令官として戦っている。
(もっともルントシュテット将軍自体は、この更迭命令を(日本風に言えば)是非も無し、と従容として受け入れたと伝わっている。
祖国独の敗北、降伏は間近に迫っており、最早、独の将来については絶望感をルントシュテット将軍は覚えていたからである。)
そして、一部をもってウィーンへの急進撃をリンツ経由で図る一方で、主力をもって伊軍をいわゆる鉄床として対伊軍対策に当たっているケッセルリンク将軍麾下の独軍を粉砕しようと、いわゆる「双頭の蛇」による攻勢を仏軍は試みている。
これに対応するクルーゲ将軍率いる独南方軍集団の本音としては、ウィーン防衛のために対伊軍対策の部隊を早期に東方へと移動させて他の部隊と一丸となり、ウィーン近辺で最終防衛線を敷きたいのだが、それはそれで伊軍の攻勢を容易に成功させることになるというジレンマに苦しむ羽目になっていた。
それに独軍には、もう一つ泣き所があった。
それは航空優勢がこの6月末から7月に掛けて、完全に独から失われつつあるという現実である。
勿論、独空軍の各部隊は、物資が欠乏する中でも最大限の努力で勇戦しており、寡をもって衆を制する勝利を当時でも収めた例がない訳ではない。
しかし、実際に戦っている独陸軍の将兵の回想によれば、肝心要な時に独空軍の支援は得られず、敵の仏伊空軍の支援が無ければ幸運、という状況で戦うのが(将兵の感覚では)当時は当たり前になっていた。
そのために戦闘中においては、仏空軍どころか、伊空軍の航空攻撃の危険にさえも、独陸軍の将兵は怯える惨状に転落しているというのが現状なのだ。
仏伊空軍の妨害を避けるために、部隊の移動は基本的に夜間頼みで(しかも、6月末頃というのは夏至の頃ということでもあり、最も夜が短い頃でもある)、戦闘の際にもそういった状況とあっては。
独陸軍の将兵の士気が高まる筈がなかった。
だが、その一方で、独陸軍の将兵がオーストリア領防衛のために奮闘したのも事実だった。
更にこれには国民突撃隊も積極的に加わり、絶望的ともいえる抗戦が行われた。
(ルントシュテット将軍からクルーゲ将軍に南方軍集団司令官が代わったこともあり、南方軍集団内に国民突撃隊と共闘することに抵抗が無くなりつつあったためという。
また、ルール工業地帯を巡る英軍を主力とする連合国軍と国民突撃隊の戦闘が、どうせ攻撃されるならばという誤解を独全土に生み、国民突撃隊の抵抗を激しくさせたという説もある。)
このために7月半ばには、インスブルック近郊で仏軍と伊軍の双方の先鋒部隊は握手を交わせたが。
(この際に仏軍のジロー将軍と、伊軍のグラツィアーニ将軍は、独ソに対して勝利を収める日まで共闘することを誓ったという伝説が後に生じる。)
それは、伊軍と対峙していた独軍部隊の多くが仏軍とも対峙するようになっただけであり、ウィーンを目指しての仏伊軍の進撃が、急に早くなるような事態は生じなかった。
むしろ、独軍と仏伊軍の死闘がより激しくなっただけだった。
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